第4話 十五夜の視線
秋も深まり始めた十五夜の晩。
東都の町は、月見を楽しもうとする人々で賑わっていた。屋台には明かりがぽつぽつと灯り、焼き団子の香ばしい匂いや飴細工の甘い匂いが混じり合って鼻をくすぐる。今宵ばかりは子どもが夜に出歩いても叱られはしない。普段は夜の町に出ることの少ない子らが、はしゃぎながら通りを駆け抜け、女たちの笑い声と重なって秋の宵らしい賑わいが広がっていた。
食べものだけでなく、金魚すくい、くじ引き、射的、櫛や小間物を扱う屋台も並び、提灯の灯が風に揺れている。綿飴を手に笑い転げる子ども、型抜きに夢中になる若い衆、腰をおろして盃を傾ける男たち――声と匂いと光が重なり合い、町全体が一枚の布のように膨らんでいた。
「ほら、“馨の方々”の香りがするよ」
屋台の列の脇で、女が囁いた。団子を頬張っていた子が鼻をひくつかせ、隣の子に言う。
「あれ……食べ物じゃない匂いがする。……馨の方々って?」
「特別な人たちのことさ。十五夜は、昔から香りが濃くなる夜だってね」
大人たちの小声が、提灯の下でひそやかなざわめきとなる。月明かりが屋台の屋根や道端のすすきを白く照らし、夜気の中に甘やかな気配が満ちていた。
雑踏のなかを、橙子姉様と私は連れだって歩いていた。
橙子は銀鼠に蔦の模様をあしらった着物に葡萄色の帯を締め、姿勢も所作も隙がない。背筋の通った立ち姿に、通りすがりの町人たちが自然と目を留めた。
「あれは高麗屋のお嬢さん……」「まあ、凛としたお姿」
橙子の姿はまるで町の灯の芯のようで、視線が自然と集まる。
一方、私は淡い撫子色の小紋に、月白地に薄藍をあしらった帯を締めていた。絹の控えめな艶が提灯の光を受け、ふわりと肩のあたりで光を返していた。
その姿に、近所の子どもたちが駆け寄ってくる。
「花お嬢さまだ!」
「髪、きれい……!」
子どもたちの素直な声に、年配の女性が微笑みながら言う。
「妹御はほんに可愛らしいねぇ。橙子お嬢様は立派で、花お嬢様は町の春みたいだよ」
志摩屋のお内儀が橙子に声をかけた。
「あらまぁ、高麗屋さん。今夜もお美しい。ごきげんよう」
「ごきげんよう、志摩屋さん」
橙子は落ち着いた所作で応じる。少し離れた屋台には、近所の娘・彩綾の手代らしき若い衆がいて、ちらりと橙子と花に目をやっていた。十五夜は、町の顔見知りが行き交う“社交の夜”でもあるのだった。
橙子は周囲の声を気づかぬふうを装い、姿勢を崩さず歩く。
私はうれしさの中に、ほんの少し居心地の悪さが入り混じるのを感じながらも、提灯の灯りに心を弾ませていた。
「花嬢様、はぐれませんように」
控えて歩くお圭が声をかける。
「ええ、大丈夫よ」
笑って返した。
――人混みの向こうで、ふと視線が合った。
濃藍の羽織に藍の袴、腰に刀を差した浪人風の青年。背筋がまっすぐに伸び、育ちの良さが滲む。歩みは飄々としているのに、雑踏の中でも不思議とその姿だけがはっきりと浮かび上がっていた。
顔立ちは整っていて、笑っていないのに口元には柔らかな笑みの気配がある。灯りの揺らめきが彼の輪郭をかすめるたび、空気が一瞬、薄い膜を張ったように震えた。
夜の水面のような瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
その瞬間、胸の奥に金木犀の香りがふっと忍び込み、蝶が羽ばたくようなざわめきが広がる。人の波は途切れず流れているはずなのに、青年と自分の間だけ、時間の歩みが遅くなったようだった。
「……っ」
私はは無意識に足を止めた。
「どうしたの、花」
橙子姉様の声で我に返る。慌てて姉に歩みを合わせたときには、青年の姿は人混みに紛れて消えていた。
ほんの一瞬――けれど、胸の奥に広がった波紋だけが、静かに残っていた。
同じ頃、屋台の陰。
小間物屋の手代に見える三十ばかりの男が、七宝紋を描いた団扇を手に、遠巻きに二人を追っていた。髪は小銀杏、鉄紺の小袖。見た目は店回りの手代そのものだが、目だけが笑わない。
彼は笄の並ぶ台に立ち止まり、品定めをするふりで視線を滑らせた。右手の指先で袂の内側を一度だけ叩く――合図のように。
袂の奥で、薄い木片がかすかに鳴った。
焚かぬ香が立ちのぼる。甘く落ち着いた桂皮の温かみに、氷をひと粒落としたような涼やかさが混じる香り
――渡の者に授けられる印であり、隠世門の者同士が香で通じ合うための符。
札が動くのは、決して偶然ではない。
男は息を潜めた。今宵の空気は、何かを告げている。
人いきれと屋台の匂いの中に、ふっと別の香りが抜ける。甘く、薄く、懐かしい金木犀。
男は鼻先でわずかに息を止め、目を細めた。
――今宵は、強い。
彼の内で何かが音もなく張り詰めた。勘が告げている。空気の輪郭が、どこかで揺らいでいるのだ。
その少し離れた人混みの中、先ほどの青年――橘一大もまた、花の背を見つめていた。
濃藍の羽織と袴、飄々とした立ち姿。だが、目だけは一瞬の風の揺らぎも見逃さない観察者のものだった。手代風の男の合図を確認すると、小さくつぶやく。
「……やはり」
夜風が川面を渡り、提灯の灯を揺らす。
通りの屋根の上、白い影が一匹、月をじっと見上げていた。ふわりと長い尾が揺れ、金と薄青の瞳が十五夜の光を受けてきらりと瞬く。
誰もその姿に気づかない――花自身も、ただ胸の奥にふと小さなざわめきを感じただけだった。
胸の奥のざわめきに導かれるように、花は振り返った。
けれど、そこにはただ、月を仰ぐ人々の波が広がっているだけだった。
十五夜の月は雲間から顔をのぞかせ、ぼんやりと光を落としている。
その光の下で、花の心に広がった波紋だけが、静かに消えずに残っていた。
毎日、お昼頃に更新予定。




