第二部第5話 沈黙の凪
汐見の浦は海に近く、朝霧が庭の白砂を覆い、松の枝先に細い露を光らせる。
高麗屋の庭とは似ても似つかない。
数日前、高麗屋を出たときには、外は風が強かった。花はその風に散っていく萩の花をじっと見つめていた。
「姉さま、気をつけて」と言った花の声が、まだ耳の奥で揺れている。
――花は、今どうしているだろう。
そんな思いが胸を曇らせる。潮の香りが、橙子の胸に静かに降り積もるようだった。
結城家に上がって何日経っただろう。
橙子は、まだこの屋敷の空気に馴染んではいない。
――結城家。
将軍家を出した名門の分家筋。東都の町人の間では、その名は特別な響きを持つ。
その結城家の廊下を歩くだけで背筋が伸びる。
ここでは風すら静かに流れ、誰も声を荒げない。笑い声すら、許されていないのではないかと錯覚するほどだ。
その沈黙こそが、この家の誇りのようであった。橙子は自分の吐く息の音すら、聞こえてしまうのではないかと気になる。
鼻先にかすかに漂うのは、沈香の中でも伽羅に次ぐとされる羅国の香――
高麗屋の奥座敷では普段焚くことがない香りだ。
香の間の方角から、その甘い香りがひとすじ流れてくる。
花の金木犀とは違う、心を整えるような香り。
その香りを嗅ぐと、胸の中に何かがゆっくりと沈んでいく。
「高麗屋の娘が参りました」
侍女の声が襖越しに響く。
「お入りなさい」
やわらかなようでいて、どこか冷たさを含んだ声が返る。
橙子は廊下で声をかけられたことはあったが、今日はじめて、正式に奥方である幸乃へ目通りが許された。
緊張しながら、奥方様の居室・香の間へ一歩踏み入れる。
鳶色の綸子の小袖に砂金色に波文様の帯。
(これが武家の奥方様……)
橙子は深く頭を下げた。
「橙子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
幸乃は扇を膝に置き、静かに微笑んだ。
「名の響きが、よく似合いますね。橙は、冬を越しても香りを絶やさぬ花。――強い娘におなりなさい」
橙子は息を飲んだ。
褒め言葉のようでいて、どこかで試されている気がした。
「はい……」
声が少し震えた。「強くあれ」と叱咤されている気がした。
幸乃は視線を遠くの障子へ向ける。
「この家では、香は飾りではありません。空気のようなもの。
目には見えずとも、心を乱せば香も乱れます。……心得ておきなさい」
橙子はもう一度深く頭を下げた。
――香が乱れる。
それは、花のことを思い出すなと言われているようで、胸がざわついた。
花は今、どうしているのだろう。高麗屋に侵入者があったことは、女中頭の千歳から知らされていた。
しかし、奉公の身では、すぐに家にかえることも叶わず、結城家でいわれるままに仕事をするしかなかった。家を思うと、胸がきしむ。花がどれだけ無理をしているのかを思うと、息がつまりそうだった。
衣紋部屋の掃き清めをしていると、年配の女中たちが話していた。
「お方様はやはり京の方、香の焚き方も公家様仕込みだそうだよ」
「さすがに格が違う。結城家といえば将軍家に繋がるお家柄。衣装部屋ではなく衣紋部屋と呼ぶのも公家好みよね」
「新しい奉公人が高麗屋の娘と聞いて、耳を疑ったもの。ここは町方の奉公先としては似合わないわ」
箒を持つ手を止めるわけにはいかず、橙子は黙って耳を澄ませた。
町方の娘。
その言葉には否はない。けれど、この静まり返った屋敷の中では、その出自が軋みを立てているように感じられた。
橙子は胸の奥にじんわり湧く痛みを、箒の柄を握る手に込めて押しとどめた。
夕刻、幸乃の使いで再び香の間に呼ばれた。
障子の向こうから潮の音がかすかに聞こえる。
「橙子」
「はい」
「香を扱う心得は?」
「母から少し……焚く香の名を覚える程度ですが」
幸乃は微笑む。
だがその微笑みは冷たく、線がきつい。
「香は人の心を写します。己が整えば、香も澄む。
……それだけは覚えておきなさい」
金木犀の柔らかい香りが胸をよぎる。
「己が整う、か……」
思わず呟きそうになって、言葉を飲み込む。独り言など、許されない。
香を整えるよりも、まず心が揺れないようにしなければ。
花のためにも、父母のためにも――
そして自分がここに来た意味を見失わないためにも。
幸乃は言葉を続ける。
「町方の娘は、よく働くと聞きます。
ただ、ここは町方ではありません。闇雲に動くのではなく、静けさに従い、秩序に従い、香に従いなさい」
橙子は深く頭を下げた。
――秩序に従え。
その言葉が、胸に重く沈んだ。
汐見の浦の昼は、東都とはまるで呼吸の仕方が違っていた。
潮風は絶えず屋敷を撫で、松の葉音がふっと高まるたび、空気そのものが背筋を正すように引き締まる。
橙子は、いつものように花と台所で笑い合っていた頃の自分を、どこか遠くの生きもののように思い返していた。
「橙子、掃除の手が止まっていますよ」
女中頭の声に、はっと我に返る。
「申し訳ございません」
身を低くして再び掃きはじめる。
この屋敷では“心が浮つく”ことすら失敗とみなされる。
それくらい空気が張りつめているのだ。
ふと、衣紋部屋の片隅、衣に香を焚くための伏籠が目に入った。
白絹に羅国の香が薄く染み込み、風に揺れると香が静かに広がる。風に揺れる香が、風に乗って運ばれる金木犀の香りを思い出させた。
「……花なら、ここでやっていけるだろうか」
自分ならできるだろう、努力すればきっと。
だが花はちがう。花は“香る子”だ。香りが寄ってくるような、優しい、柔らかな子。
この結城の家にいたなら、あの子の心は潰れてしまうだろう。
橙子は思わず胸に手を当てた。
――守りたかった。
ずっと、傍にいたかった。
あんなことがあって花はどんなに怖かっただろう。高麗屋の家族も心配しているに違いない。
その想いを、誰にも言えないまま胸に留めるのがつらかった。
橙子は千歳の命をうけ、幸乃の元へ香箱を運んだ。
襖の前に立つだけで、羅国の香の深い甘さが鼻先をかすめる。
「入りなさい」
静かな声が奥からした。
橙子は深く頭を下げ、畳の縁を踏まないよう慎重に歩を進める。
香の間では、幸乃が几帳の陰に座し、香炉の前に整然と道具が並べられていた。
「では、香炉を整えてみなさい」
橙子は緊張で指が固くなるのを感じながら、卓上の香炉に向き直った。
必要なのは、香炉灰を崩さぬよう整え、空気を含ませ、火種の位置を調えること――。
幸乃は柔らかくも凛とした声で続けた。
「火種は深く埋めてはなりません。香木が焼けるのではなく、香るのを聞くためです」
「香は、焚く者の心を逃がしません。
あなたが整えば、香もまた澄む」
母お咲が、忙しい台所仕事の合間に教えてくれた香の扱い。
「火が強いと人の心は疲れるよ。焦らず、焦らせず――」
香炉の底に仕込む火種の温度を見極めるとき、母はいつもそう言っていた。
急けば香が焦げ、弱ければ香りが立たない。
その声がふとよみがえり、胸の奥が少しだけ温かく、少しだけ苦しくなった。
幸乃は橙子の乱れた呼吸に気づいたのか、扇をゆるりと閉じた。
「香は心を映す鏡です。心が揺れれば、香も揺れ、周りの者の呼吸も乱れます。高麗屋のことは聞きました。そうではあっても――あなたは、揺れすぎています」
橙子は息を呑んだ。
「……申し訳ありません。努めます」
幸乃は扇をそっと寄せた。
「心掛けで整えられるのならば、この家でやっていけるかもしれません」
叱責ではない。“試す”響きがあった。
橙子の胸の奥で、小さな反発がひっそりと芽生えた。
――私の心は、そんなに弱いだろうか。
ただ、花が、家のことが気がかりなだけ。
家族の顔を思えば、揺れるのは当然ではないか――。
だが、この家では揺れることすら許されない。
橙子は深く頭を下げ、息だけで自分の心を押し込んだ。
潮風がふと強まり、屋敷の灯が揺れたころ、橙子は苑子のもとを訪れてみた。
苑子は側室でありながら、家の“祈り”を預かるといわれる人である。
苑子は、幸乃とは違う静けさをまとっていた。
病弱という噂もあり、普段は離れに住まい、人前に出ることは多くない。
女中たちは彼女を「香より静か」「潮と共に息をする人」とささやく。
橙子はまだ、苑子と言葉を交わしたことがなかったが、
廊下の向こうでふと目が合ったとき、
その柔らかな眼差しに胸がほどけるような気がした。
「正妻の“秩序”とは別の、もうひとつの静けさ」がこの家にはある――橙子はぼんやりと、そう感じていた。
苑子の実家が鎌倉にある香道の宗家であると女中たちが噂していた。少しでも香の道について聞いてみたかった。あの微笑みを持つその子であれば、何か教えてくれそうな予感がしたからだ。
苑子は庭先で小さな灯を点し、池を覗きこんでいた。庭には潮風が渡り、黒松の葉が音を立てる。時折、鷺の羽音もしていた。
苑子が橙子に気づいて振り向く。
「橙子さん。眠れませんか」
「はい。潮の音が強くて……」
「この屋敷では、潮が夜ごとに香を運ぶのです。慣れぬうちは、胸がざわめくでしょうね」
橙子はうなずいた。
「けれど、不思議です。音を聞いていると、心が静まる気がします」
「それでよいのです。香もまた、静けさから生まれます」
苑子は橙子を見るのではなく“香りを”感じ取るように言った。
「奉公は大変でしょう」
「はい……ですが、皆さまとてもよくしてくださいました」
苑子は微笑んだ。
「あなたは若いのによく見ていますね。礼儀も、気遣いも。……けれど、揺れている」
橙子は思わず目を伏せた。
苑子は池の水面にそっと手をかざした。
「潮の音には、時に記憶を呼ぶ力があります。怖れると、それが波になる。
でも、受けとめれば静かな“香”になります」
橙子の胸を、潮の匂いがやさしく撫でていく。
「……わたし、家を思い出してばかりで。奥方様にも乱れを諭していただきました」
「良いのですよ。家族を忘れる奉公人などいません。
忘れぬからこそ、ここでの所作に心が宿るのです」
橙子はゆっくりと息を吐いた。
潮と羅国の香が混じる香りが、胸を少し軽くした。
苑子はふと空を仰いだ。
「いつか……“香”があなたを導きます」
苑子の言葉の温度は、幸乃の秩序とも違う。
母の温もりとも違う。
けれど確かに、橙子の心に寄り添ってくれる灯のようだった。
苑子が去ったあとも、橙子は庭に立ち尽くしていた。
潮の匂いと羅国の香の香が混じり、ほんの一瞬、心をよぎる。
――あの夜、十五夜の灯の中で見た青年。
濃藍の羽織、静かな瞳。薫衣草の香。
「思い出そうとしてはいけません」
ふと、心の奥で誰かの声が囁いたような気がした。
橙子は頭を振り、冷たい潮風を吸い込んだ。
灯明の火が消える。
波の音がひときわ強くなり、遠くの空が白みはじめていた。
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