第二部第3話 西へ……、風のあるうちに
影向寺の奥、香落庵の「水月の間」には灯がなかった。天井の雫が一定の間を保って落ち、円形の石床の中央に水盤はなかった。ただそこに冷たい闇が溜まっている。石は長い年月を吸い、触れずとも湿りを帯びていた。
権僧正・紫藤玄達はその跡を見つめ、ゆるりと息を吐いた。闇の温度を測るように、指先で空気を撫でる。
「……香が、止まっておる」
その低い声は、洞の中でしずかに響き、まるで石が返事をしたように感じられた。
律師・日野玄文が筆を止める。筆先には、焦げた香の残滓を写し取った薄墨が滴りかけていた。
「乱れではなく、止まり、ですか」
「そうだ。焦げの跡はあるが、香は立たぬ。風が途絶えた」
大僧都・鴨井覚信が眉を寄せた。彼は幾度も香の暴走跡を見てきた男であるが、これは別だった。
「娘の香、ですな」
「そうだ。焦げた香は腐る。だが、あの娘はそれを拒んだ。香を閉じ、自らを守った」
「……守りと呼べますか」
玄達は短い沈黙を置き、低く答えた。
「そうだ。腐らせぬこともまた守りだ」
言いながらも、玄達の目にはわずかな驚きがあった。焦げた香を“閉じた”者など、古文書の中にしか記されていないからだ。
そのとき、天井の奥から声が落ちた。お館様の声である。水月の間の最奥に沈むような、深い響きだった。
「……お縁を」
襖が静かに開き、淡墨の衣の老女・お縁が現れた。灯はないのに、裾の音だけが石を渡る。気配は薄いのに、存在だけが揺るぎなくそこにあった。この場所では香を持たぬことが掟であった。
お館様が問う。
「焦げはどう見る」
お縁は瞼を伏せ、指先を石床に触れもせず、ただ香の流れを感じるように息を整える。
「焦げは死ではありません。けれど、放てば腐ります。閉じれば冷えます。流せば、また焦げます」
「ならばどうする」
「遠ざけてください。風のあるうちに」
「遠ざければ、戻らぬぞ」
「香は、風が忘れなければ戻ります」
静寂が落ちた。雫がひとつ落ち、その音が決定を告げる鐘のように響く。
お館様の声は低く沈んだ。
「……遠ざけよ」
お縁は静かに頭を垂れた。
「承りました」
会は解けた。玄達は空の水盤の跡を見つめ、独り言のように呟く。
「掴もうとせぬ香ほど、手を離れぬものだな」
その言葉には頷かず、一大は水盤の跡ではなく、“ここにあったはずの水の形”を見つめていた。
一大は立ち上がり、袖の内の薫衣草を確かめた。香らない。それでよい。護りの香は、風が動くときを待つものだ。
その夜、高麗屋は音を潜めていた。湯気は立たず、香炉には灰ひとつない。行灯の灯は細く揺れている。ふだんは明るい台所も、今夜は水音すらさせていない。
女中たちは皆、囁き声でしか話さない。花の部屋の前を通るときには、誰もが歩幅を狭めた。見えない風が屋敷全体に張りついているようだった。
宗右衛門は座敷に座り、何も載っていない香台を見つめていた。その横顔には、家長としての強さと、父としての弱さが同時に宿っていた。
ーー自分が守らなければいけなかった
そんな悔いが微かにその頬をかすめた。
お咲は障子の内で静かに手を重ねている。花の姿を見るたび、これからを思うと胸が締めつけられる。言葉にすれば、自分の考えが本当になってしまいそうで、ただ唇を結んでいた。
宗右衛門とお咲の間には、言葉よりも重い沈黙があった。夫婦の息づかいだけが、かすかな灯の揺れと同じ速さで動いている。
お縁がその間に座し、ひとことだけ告げた。
「西へ」
告げた後、ほんの一瞬だけ、お祖母様の膝の上で組んだ指に力がこもる。
宗右衛門は短く頷いた。お咲の唇が震えたが、声にはならない。それで足りた。言葉を重ねれば、灯が消えてしまいそうだった。
お縁は立ち上がり、灯の火を指で覆った。指の間からこぼれる光が、まるで水のように床を流れた。
「風がまだ覚えているうちに――」
その声は屋敷のどこか深いところへ染み渡るようだった。
私は灯の下で目を開けていた。お圭の呼吸は浅く、唇はかすかに冷たい。名を呼べば崩れそうで、呼ばないでいると遠のいてしまいそうだった。
暴れた光の気配がまだ手の奥に残っている。あの時の私は、誰を守ろうとして誰を傷つけたのだろう。
いやーー本当はわかっていた。誰を傷つけたのか。それを怖くて、認められないだけなのも。
それとも――。
障子の向こうで衣擦れの音がした。お縁が現れ、私を見る前にお圭の様子を確かめ、それから静かに私の前へ座った。
「花」
名を呼ばれたのに、返事が出なかった。
「西へ向かいなさい」
母が息を呑む。「……いつ」
「夜が明ける前に」
その刹那、帳場側のほうから、父・宗右衛門の足音が近づいた。いつもの柔らかな物腰ではなく、商い場で取引を行っているときの、揺るぎない歩幅だった。
「母上」
低い声だった。家の柱を支える木の軋みと似た、太く落ち着いた響き。
「この娘を京へやるというのは、避けられぬことなのか」
お縁は深く頷く。
「香が沈んでおります。近くに置けば、いっそう乱れましょう。……遠ざけるほか、ございますまい」
その言葉に、私の胸はずきりと痛む。東都しか知らない私が、遠ざけられるのだ。怖い……。
宗右衛門はしばらく沈黙した。拳を握り、視線を落とし、それから息を吐く。
「行かせるならば、護りを整えねばならぬ。
女中一人、手代一人、人足二人はつけなければ。高麗屋の名に関わる」
母もすぐに続いた。
「若い娘です。旅をしなくていけないのなら、長い道中、用心棒も必要でしょう?」
母の唇が震えがらもはっきりと告げた。いつもはお縁には逆らわない人なのに。
私は黙って父と母を見つめた。二人とも、私を守ろうとしてくれているのだとは思う。しかし、高麗屋の名……。その言葉が、ちくりと私を刺す。
だが、お縁はゆっくりと首を振った。
「宗右衛門。護りは、すでに“立っております”」
父の眉が動いた。
「……誰なのです?」
「名をお示しするのは、この場では叶いませぬ。けれど、ただの人足や用心棒とは違います。
花には“香の道”で繋がる護りがついております」
宗右衛門はきっぱりと言い放った。
「ならば、会わせてくれ。
娘を預けるのだ。顔も知らぬ護りに委ねるほど、私は無分別ではない」
その言葉から、父の想いを受け取った。父は頑固で、不器用で、けれどーー私を守ろうとしてくれているのだ。
父の眼差しは、商いの相手との駆け引きの時と同じ。言葉は硬く、簡単には退かない。
祖母は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……承知いたしました。
すでに待っているはずです。――西の門の前に」
その声音は、私に向けられたものではなかった。
父に対しても、母に対してでもない。
ただ“事実”だけを告げる、深い底を持つ声。
お縁は私の肩に羽織をかけ、一瞬、私に熱を与えるかのように触れた後、手を離した。
「風が覚えていれば、必ず戻れます」
その言葉はあたたかくも、冷たくもなかった。ただ、胸の奥へすとんと落ちた。
私はお圭の手を握り、目を閉じた。
もう、お圭の名は呼ばない。呼べば、また香が暴れてしまうかもしれない。
けれど私の奥底で、別のものが確かに動いた。
――このままではいけない。
守られるだけではいたくない。
怖れているばかりでは、誰の助けにもならない。それどころか、足手纏いだ。
西へ向かうのなら、私にもできることがあるはずだ。
その気持ちを言葉にはしなかった。だが、その決意の芽は、夜気の中でひそやかに熱を持ちはじめた。
お縁が立ち上がると、褪せた襦袢の袖がふわりと揺れた。
その動きに合わせて、部屋の空気が微かにざわめく。
香は沈んでいる。
沈んでいるのに――ひどく静かではなかった。
夜の座敷の奥、誰もいないはずの方角から、“風の捩れ”のようなものが、かすかに漂ってきた。
お縁は足を止め、振り返った。
廊下を抜けた風の底に、香よりもっと細い、もっと冷たい“揺れ”。
揺れが、ほんのひと筋だけ、高麗屋の屋内に忍び込んでいた。
「……誰かが、動いたね」 呟きは闇に沈んだ。
名を知るわけではない。ただ、“風の向こう”にいる誰かが手を伸ばしただけだと、お縁には分かった。
宗右衛門やお咲はまだ気づいていない。
私もーー今の状態では……
香を扱えぬ者には、ただの風の気まぐれとしか映らない。
だが、お縁は知っていた。
この揺れは、それは必ず“何かが起きる前触れ”だと。
一方その頃、台所の裏手では、お栄がひとり、うずくまるように腰を下ろしていた。掌が湿り、震えが止まらない。花を京へ出すこと。それは“お方様”への忠義でもあり、あの夜の罪に対する償いのようでもあった。
だが――。
庭に面した戸の向こうで、何かが揺れた。白い影でも、黒い影でもない。
色も形も掴めない、ただ“気配の欠片”。
お栄は息を呑んだ。
「……誰、です」
返事はない。
代わりに、風がひゅうっと抜けていく。
ごく薄く甘い残り香がした。
お栄はその香りの意味を知らない。
だが、その香りの“冷たさ”だけは直感した。
――この家の外に、もっと大きな流れが動いている。
それにーーとお栄は思い出していた。
ーー俺はもう一度、あんたと組みたいんだ。それだけは覚えとけよ……
あの男の言葉、あの目つき、そして、あの男が頬に触れた熱。
お栄は両手を胸に当てた。
花の名は呼ばなかった。
呼べば、守りたいのか、恐れているのか、自分でも分からなくなる。
私はまだお圭の手を握り、動けずにいた。
お縁はそっと見守り、その背に向けて静かに語りかけた。
「花。
胸の沈黙は、何かが終わったわけではありませんよ。
動き出す前には、必ず深い静けさがあるものです」
花は顔を上げた。お縁の瞳が優しく、それでいてどこか遠かった。私は、ただまっすぐに、お縁の言葉を受け止めようとしていた。
「……私は弱いままです」
「弱い者が風を知るのです。
強すぎる者は、風を掴もうとして折ってしまう」
花の胸に、界之介のことがかすかに掠めた。
けれど香が沈んでいる今、その意味を深く感じることはできない。
弱いままでもいいのだろうか。前に進めるだろうか。
ーー行かなければ。
夜が明ける前、薄明かりの中で宗右衛門は立ち上がった。
その横顔は威厳に満ち、商い場で千の駆け引きを制してきた男の表情だった。
「花、行け。
戻れなくとも悲しむでない。
お前が元気なら、それで良い」
それは不器用な言葉だった。けれど、どんな飾りよりも父の愛情そのものだった。
花は黙って頭を下げた。心の底で、ひとつの予感だけがさざめいていた。
――誰かが、見ている。
――誰かが、風の向こうから手を伸ばしている。
その“誰か”が一大なのか、それとも界之介なのか、それともまだ名も知らぬ誰かなのか。
分からないまま、夜が静かに終わり始めた。
明け前。浅汐川には霧が立ちこめ、風がまだ眠っている。橋の中央に、一大が立っていた。袖の中の薫衣草は香らず、沈黙のまま形を保っている。
「……遠ざけることが、護るというのか」
その言葉は風に乗らず、水面に落ちた。霧が揺らぎ、浅く裂ける。遠くで竹が鳴った。
風はまだ吹かない。
けれど、香のない世界にも、夜明けの気配は確かにあった。
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