第2話 昼下がりの光の中で
昼の光が障子を通り、奥の茶室に柔らかな矩形をいくつも落としていた。畳は青く、香のほのかな匂いが空気に溶けている。母・お咲は座の中央に端然と座り、扇を膝前に置いた。左右には器物が整えられ、菓子器、盆、茶碗、帛紗――どれもが少しも傾かず、呼吸しているかのように静かだ。
「それでは、お手前を見せてごらんなさい」
母の声は涼しく澄み、座敷の隅々まで濁りなく届く。橙子は頷き、膝をわずかに寄せてから、盆を両手で取る。袖がふくらまず、指先が美しく揃う。置く角度も、高さも、音ひとつ立たない。見ているだけで、胸の中の糸がぴんと張り直される気がした。
「よろしいわ」
母の眼差しがやわらぎ、扇が小さく鳴った。
私の番になる。息を整え、盆縁にそっと指を掛ける――つもりだったが、胸の中の拍子が半拍ずれる。袖が衣擦れの音を立て、盆がわずかに揺れた。音はほとんどしなかったと思う。それでも自分の耳には大きく響く。
背後で、花付きの女中お圭が控えめに息を呑む気配がした。
視線を感じ、私は慌てて左手に力を込めた。自分の息が浅い。心の中で数える一、二、三が、三と四の間でうっすらと途切れ、拍子がずれる。母の視線が一度だけこちらに止まり、それから何事もなかったように離れていった。
――拍子が合えば、形はあとから付いて来る。そう言われたことがある。けれど、拍子のほうが私から逃げていくのだ。
作法がひと段落すると、菓子器と茶の順序を確かめる。橙子は所作の形だけでなく、間の取り方がこわいほどに美しい。間が美しいと、言葉はいらないのだと知る。母は満足げにうなずき、私はその横顔を、どこか遠いもののように見つめた。
「本日のお品書きは控えに記しました。お内儀様」
お栄が恭しく控えを差し出し、母が目を通す。お栄は橙子の斜め後ろ、まるで影のように揺らぎもせず立つ。お圭は私のすぐ後ろで、気づかれぬほどの気配で袖口を直してくれていた。その指先の温かさが、胸の強張りを少しだけほどく。
「いいわ。今日はここまでにしましょう」
母の一言で座が緩む。私は深く息を吐いた。畳に落ちる光の形が、さっきより淡い。
昼餉の後、母の指示で橙子と私は、小間物の包みを持って近くの得意先まで足を運ぶことになった。もちろん、橙子付きのお栄も一緒だ。町へ出る支度をすると、お栄は橙子にスッと羽織を差し出し、私にはいつもついてくれているお圭が帯を整えてくれた。
鏡に映る自分の顔は色白で、少し猫っ毛の髪が耳元でふわりと跳ねていた。橙子が髪の乱れを指先でそっと直してくれる。
「ありがとう、お姉様」
「いいのよ。……行きましょう」
表へ出る。昼下がりの通りは、光が白く揺れ、影が濃い。威勢のよい呼び声が掛け合いのように往来を渡っていく。醤油樽の香り、干物の塩気、焼き餅の甘い焦げ、それに混じって、どこか異国の香辛料の匂いが鼻腔をくすぐった。遠くで馬が鼻を鳴らし、近くで子どもが笑う。音も匂いも触れればほぐれる織物のように、町全体が一枚の布になって私の耳目に流れ込んでくる。
「橙子お嬢様、いつもながらお美しい」
通りすがりの女将が声を弾ませる。橙子は穏やかに会釈し、笑みを添えた。礼に始まり礼に終わる、その軽やかな流れは見ていて気持ちがよい。動きは大きくないのに、通りの空気が自然に整うのがわかる。
「花嬢様、足元にお気をつけくださいませ」
お圭の声で足元を見る。道には小さい水溜りがあり、そこに陽が差して銀のきらめきを見せていた。私は包みを少し持ち直し、頷いた。
得意先の屋敷へ向かう途中、川風がひと筋、通りを抜けた。名も知らぬ店の暖簾がふわりと浮き、提灯の房がわずかに揺れる。
その瞬間――胸の奥に、言葉にならないざわめきが走った。
見知らぬ香りと、見知らぬはずの懐かしさ。記憶のどこにもないはずなのに、なぜか心の奥が小さく波打つ。
空気の手触りが、ほんのわずかに“ずれている”ような感覚だった。
東都は、きっと何かが変わっている。
それを知らないのは、私のほうなのか――風が通り過ぎたあとも、その感覚だけが胸の奥に残った。
「どうかしたの、花」
橙子の声が横から降りる。
「ううん、何でもない」
言いながら、胸の奥でかすかな波が泡立った。
得意先での挨拶は滞りなく済んだ。橙子の頭の下げ方、扇の収め方、言葉の選び方――どれも無駄がなく、心地よい。相手方の奥向きの者も、橙子に視線を留める時間が自然と長くなる。私は包みを置き、邪魔にならないように気配を薄くする。用が終わって店を退くときに、番頭と思しき男が廊下の向こうからこちらを見た。視線は私を通り抜け、橙子で止まる。ほんの瞬きほどの間。そして何事もなかったように、彼は帳場へ戻っていった。
帰り道、川沿いを回る。水面は陽を撥ね返し、白い線となってゆらめいている。船着き場には荷が積まれ、異国の意匠が施された小箱が幾つも見えた。東都は開いている。けれど、開いているということは、知らぬものが入り込むということでもある――そんな考えが一瞬、脳裏をかすめる。誰かに教わったわけでもないのに、胸の奥で細い糸がぴんと張られるような感覚があった。
「花」
橙子が歩調を緩めた。川風に簪が揺れる。
「さっきの、お作法。……焦らなくていいのよ」
「……うん」
返事はした。姉の言葉はありがたい、けれど私の心には辛さが連なっていく。姉の声はやわらかいのに、やわらかさの分だけ、自分がそこに届かない事実がはっきりする。誇らしく、少し寂しい。二つの感情はぶつからず、重なって胸の底で静かに沈む。
高麗屋へ戻ると、表は昼過ぎの賑わいで、帳場の声が重なっていた。手代が小走りに伝票を運び、番頭の筆が乾いた音を立てる。暖簾の向こうで、誰かが「高麗屋の姉娘は立ち姿が良い」と囁いた。別の誰かが「なるほど」と相槌を打つ。声は直接こちらに向けられたわけではない。大きな声でもない。なのに、耳の奥にするっと入ってくる。
「お帰りなさいませ」
店の女中のおみつが橙子の羽織を受け取り、埃を払う。
「花嬢様も、お疲れ様でございました」
いつも私と一緒にいてくれるお圭が私から包みを受け取り、そっと手を温めるように添えた。ほんの少しの体温が、現実へ戻る標になる。
奥へ向かうと、母がすでに座し、その向かいに茶が二椀置かれている。私と橙子が座につくのを待っていたかのように、母は扇を静かに置いた。
「用事は滞りなく?」
「はい」橙子が答える。
母は橙子を一瞥し、私に目を寄越す。その視線は厳しくもなく、ぬるくもない。温度のない水面のような眼差しだ。そこに、私の形が薄く映る。私自身が、薄いのだろうか――ふと、そんな考えが過ぎる。
「花嬢様、こちらを」
お圭が茶をすすめてくれる。湯呑み茶碗を両手で受けると、掌がじんと温まる。温かさが皮膚から骨へ染みていく。拍子がひと呼吸だけ、私に寄って来た。
そのとき、座敷の外を風が通った。香り――ほんの一瞬、金木犀がしたような、しないような。母の扇が小さく鳴り、橙子の横顔が光を受ける。私の掌の中で、茶碗の縁が、七色を帯びて見えた気がした。瞬きをすると、ただの光の反射となり、消えた。
――この家の何かが、時折、知らないもののように感じられる瞬間がある。
茶をひと口含む。熱が喉を滑り、胸のざわめきをいくらか鎮めてくれる。座敷の空気は何事もなかったように平らかで、午後の光は静かに傾いていった。
夕餉の支度が始まる頃、私は廊下でふと立ち止まった。庭の向こうの金木犀はまだ青く、花の気配などどこにもない。それでも風がふっと悪戯をするように葉を鳴らすと、耳の奥で、確かに何かが小さく囁いた気がした。
――聞き分けられない。けれど、たしかに何かが。
振り向けば、そこにはいつもの家の廊下と、行き交う女中たちの足音があるだけだった。私は何事もなかったように歩き出す。拍子は少しずつ、夜のほうへ寄っていく。
花の違和感が分かっていただけたでしょうか?
不器用とは少し違った拍子のずれ。
次話では橙子の微妙な立場に話が進みます。




