表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/37

第二部第2話 薫衣草の残香


 だが、時の流れは妙にまったりとしていて、昨日と今日の境が曖昧なままだ。

 夜の侵入から2晩が過ぎようとしていた。

 東都の空はもうすぐ明けようとしているはずなのに、家の中はどこか薄い靄がかかったような、しんとした静けさに包まれていた。

 私は縁側に座り込み、ぼんやりと庭を見ていた。白い木槿の花が風もないのに揺れ、陽の当たらない部分だけ色が濃く見える。焼けた香りは薄れてきているのに、胸の奥ではまだ(くすぶ)っていた。


 ――私は、何者なのだろう。

 問いは、昨日よりも、昨夜よりも、深く沈んでいる。

 お圭はまだ目を開けていない。父と母は寝不足のせいか顔色が悪い。お縁は廊下を静かに行き来し、何も言わない代わりに、風の流れを読むように家の柱を撫でていた。

 みんながそれぞれの方法で“昨日の続きを生きている”のに、私だけが取り残されているようだった。

 掌の焦げ跡は薄くなりつつあるけれど、完全には消えない。その痕を見るたびに、胸の真ん中がじん、と痛んだ。あの夜、私が叫んだ瞬間に溢れた光は、いったい何だったのだろう。

 香が死んだのではなく、眠っているだけ――とお縁は言った。

 けれど、眠っているものをどう扱えばいいのか、私には分からない。


 そのとき、柱の上から影が落ちた。

「みゃ(また考えてる)」

 ブランだった。

 白い毛並みが朝の光を受け、淡く光っている。母が近くにいないので、彼の声は言葉としてはっきり届く。

「……考えずにはいられないわ」

「にゃ(そりゃそうだろうけど)」

 ブランは私の膝の上にひらりと飛び乗り、丸くなる。

 重さはほとんどないのに、心の重さだけが少し軽くなった気がした。

「昨日、あのあと……お圭の様子、見た?」

「みゃう(見たよ。眠ってた)」

「……そう」

 辛くなるから言葉がそこで途切れた。その沈黙に、ブランは尻尾でそっと私の手を叩いた。

「にゃ(あの子は戻ってくるよ。香の風が止まってない)」

「止まってない……?」

「うん。焦げた香りってのはね、完全に消えたんじゃなくて、形を変えただけ。

 にゃー(まあ、花の場合は“怖いから閉じてる”って感じだけど)」

「……言わないで」

 図星で、胸の奥がちくりと痛んだ。

 その瞬間だった。

 庭の向こうから、風がひと筋、すっと流れ込んだ。

 金木犀の香りではない。 薫衣草の、淡くて落ち着いた香り。

 胸の奥で、何かが小さく震えた。


 ――あの人だ。

 襲撃の直後、意識が途切れかけた中で聞いた声。

 額に触れた、迷いのない指先。

 眠れ、と囁いたあの低い声。

 思い出そうとした瞬間、胸がきゅっと痛んだ。

「……橘様」

 小さく名前を呟くと、ブランが片目を開けた。

「にゃ(ああ、あいつ。風の匂いがうるさいやつ)」

「うるさいって……」

「んにゃう(だって、あいつの周りだけ風がざわざわするんだもん)。にゃー(真面目すぎるんだよ、あれは)」

 ブランの言い方が面白くて、思わず笑ってしまった。


 笑ったのは、二日ぶりかもしれない。

「橘様は……来てくれているの?」

「みゃ(来たけど、花には見えてない。あいつ、自分の香りだけ置いて帰った)」

「香りだけ……?」

「うん。にゃ(“心配してる”って匂い)」

「…………」

 胸の奥で、何かが溶けるように温かくなった。

 けれど、それと同時に、罪悪感もじわりと顔を出す。

「私……守られただけ、なのね」

「違うよ」

 ブランが急に真面目な声になった。

 金と青の瞳が、まっすぐ私を見つめる。

「にゃ(あいつが来たのは、花を“助けるため”じゃない。“見届けるため”だよ)」

「見届ける……?」

「うん。花がどこに立って、どこへ行くのか。それを知りたかったんだよ、あいつは」

 何のことか分からなかった。

 でも、胸の奥の焦げ跡に、微かに風が触れた気がした。


「……私って、何なの?」

 気がつくとその言葉がこぼれていた。

 昨日から何度も胸の中で形になり、ようやく声になった。

 ブランはゆっくり瞬きをして、ぽつりと答えた。

「みゃ(それはね、花が一番知りたいことだろうけど――まだ教える時じゃない)」

「また、それ……」

「にゃ(でも、ヒントはあげる)」

 ブランは私の胸元をそっと前脚で触れた。

「“焦げた香は、生きている証”だよ」

 その言葉が胸に落ちたとき、遠くで鐘の音が鳴った。

 ゆっくりと、二日目の朝が始まった。



 今朝は、昨日よりもさらにざわついていた。

 近所の者たちが、半鐘の余韻を噂し、「武家の者が倒れた」「抜け殻のままだ」と口々に言っている。

 店の前に立つと、どうしても耳に入ってしまう。

「なあ、あの武士たち、本当に生きてるんだよな」

「医者が言うには、病も怪我もないそうじゃ。だのに、心だけどっか行っちまったらしい」

「怖ぇ話だ……誰がやったんだ?」

 誰が。

 その言葉が胸の中で重く響く。

 ――私だ。

 言えない真実が、内側でじんじんと痛む。

 けれど、誰も気づいていない。

 父も、母も、番頭の勘兵衛も、「花がした」とは言わない。

 お縁お祖母様はーーー気づいているのかもしれない。

 ーーーこれからどうしたらよいのだろう?

 座敷では、お圭が相変わらず目を閉じている。

 おみつが手拭いを絞り、額の汗を拭っている。

 その姿を見ているだけで胸が痛んだ。

「……お圭」

 小さく名前を呼ぶと、まつ毛がわずかに震えた気がした。

 けれど、目はまだ開かない。

 母はその横で、静かに手を合わせていた。

 昨日より表情に影はあるが、以前よりも私を見る眼差しが柔らかい。

 不思議なことに、あの夜以降、母は私に触れる回数が増えた。

 この距離の近さが嬉しい。

 同時に、怖い。

 ――私は、本当に“娘”でいていいのだろうか。

 胸の奥で問いが巣を作り、膨らんでいく。

 母の手が伸び、頬に触れた。

「花。無理をしてはだめよ」

 その声が、ひどく優しくて、泣きそうになった。

 そこへ、お縁が廊下の向こうから近づいてきた。

 いつものように背筋は伸び、足音は静かだが、どこか急いでいるようにも見えた。

「お義母様……?」

 母が立ち上がると、お縁はゆっくりと息を吐いた。

「風が、西へ流れた。……あの方が動くかもしれん」

「あの方?」

 まただ。

 昨日も、お縁はその言葉を使った。

 お縁は私の方をちらりと見て、言い直した。

「いや……まだよい。花、外の空気を吸いに行ってはどうじゃ。風の色が変わっておる」

 言われるまま、私は廊下を歩き、裏庭へ出た。

 空は澄んでいるのに、空気は妙に重かった。

 昨夜の名残のような焦げた香りがまだ漂っている。

 それは逃れたくなる匂いなのに、なぜか恋しくもある。

 庭の端で、猫の影がひょいと現れた。

「にゃ(外に出るのは賛成よ)」

 いつの間にか、姫君のブランになっていた。

「ブラン……」

「にゃあ(でも、ぼーっとしてるとまた倒れるわよ)」

「倒れないわ」

 私が言い返すと、ブランは細い目でじろりと見た。

「にゃあ(なら、立ってみたらいかが)」

「え?」

「にゃん(立ってみれば分かってよ)」

 言われるまま立ち上がると、胸の奥で何かがずきりと痛んだ。

 座っていたときは気づかなかったが、焦げ跡の部分が熱を帯びている。

「っ……」

「にゃ(ほーら)」

 ブランはしっぽを揺らし、私の足元で丸くなった。

「みゃ、みゃうん。(香は死んでない。眠ってるだけ。けどね――風は花のことを忘れてないよ)」

「風が……?」

「うん。風が、“花を探してる”って感じ」

 胸がざわりと震えた。

「……それって、どういうこと?」

「みゃあ(そのうち分かるよ)」

 ブランはくるりと背中を向けて歩き出した。

 まるで私をどこかへ誘導するように。

 庭の隅の大石のところで、ブランは立ち止まった。

 その先の、竹垣の向こうから――風が吹いた。

 香りの混じる風。

 微かな季節には早い金木犀の香り。

 そして、薫衣草の香り。

 二つが同時に香った瞬間、心の臓がどくんと鳴った。

「っ……!」

 体が一瞬だけ熱を帯び、焦げ跡がぴりりと光った気がした。

「ブラン……今の……」

 振り返ろうとした瞬間、ブランは跳ねるように後退った。

「にゃ(来た)」

「来た?」

「にゃあ(風だよ。花を呼んでる風)」

 かすかに薫衣草の気配が残った。

 遠く、影向寺の方角だった。


 その日の昼過ぎ。

 家の中は静まり返っていた。

 お圭はまだ眠り、父は帳場に座ったまま動かず、母は火の番を続けている。

 私は座敷の柱にもたれて、風の行き先を考えていた。

 ――影向寺。

 あの場所には何があるのだろう。

 お縁は「あの方」と言った。

 ブランも「風の匂いがうるさいやつ」と言っていた。

 橘一大。

 あの人が動いている。

 胸の奥で、焦げ跡がまたちくりと熱を放った。

 そのとき、廊下の向こうから衣擦れの音がした。

 お圭の部屋の前で、母が静かに立ち尽くしている。

「……花」

 母が呼んでいた。

「どうしました、お母様」

「お祖母様がおっしゃっていたの。

 “風は忘れぬ。花は、動かねばならぬ”と」

 その言葉が、まるで胸の奥の焦げ跡に触れたように響いた。

「私は……動けるのかしら。こんな私が」

「花」

 母はゆっくりと私の髪を撫でた。

 その仕草は、いつもの母ではなく、まるで“初めて娘を抱いた母”のような慎重さに満ちていた。

「あなたが何者でも、私の娘よ」

「…………」

 その言葉が苦しくて、そして嬉しくて、私は泣きそうになった。

 しかしその直後、母の手が一瞬だけ震えた。

 母は私の焦げ跡を見て、わずかに表情を動かす。

「花……その手は」

「これは……ただの傷よ」

「傷ではないわ」

 母の瞳に、不安と確信が同時に宿った。

 私の胸の奥が跳ねた。

 ――やっぱり、母は気づいている。

 “私が、普通ではないことを”。


 その瞬間、廊下から白い影が飛び込んできた。

「みゃあ!(花、出るよ!)」

「えっ……?」

「にゃっ(風が呼んでる!)」

 ブランは私の裾を噛んで引っ張った。

 母にはただの「猫の鳴き声」にしか聞こえないので、驚いたように目を瞬いている。

「みゃっ(花!早く外!)」

「ま、待って……!」

 私は母の手をそっと振りほどき、ブランの後を追った。

 庭を抜け、裏門の方へ走る。

 風が強く吹き、焦げ香の残りを攫っていく。

 その風の中に、確かにあった。

 ――薫衣草の香り。

 胸がぎゅっと締まる。

 焦げ跡が熱を帯びる。

 世界が少しだけ揺れる。

「ブラン……これ……」

「にゃ(あいつの香り)」

「どうして……?

「みゃ(見に来てるんだよ、花の“風の色”を)」

 私は息を呑んだ。

 風が頬を撫で、焦げ跡に触れた瞬間、胸の奥の香がかすかに揺らぐ。

 眠っているはずの香が――風に呼ばれたかのように。

「っ……く……!」

 痛みと似た感覚が走った。

 ブランが振り返る。

「にゃ!(無理に開こうとしないで!)」

「わ、私……開いてない……!」

「にゃあ(勝手に揺れてるんだよ!)」

 風が一度だけ強まった。

 金木犀の香りと薫衣草の香りが混ざり、庭の上を走り抜ける。


 私は膝をついた。

「花!」

 背後から母の声が聞こえた。

 走って追ってきたのだ。

「大丈夫……よ……」

 言葉とは裏腹に、胸の奥は激しく脈打っていた。

 焦げ跡が光を宿したように、かすかに熱を発している。

 母が駆け寄り、私の肩を抱いた。

「花……!」

 その腕が温かかった。

 その温かさで、私はふっと意識が軽くなる。


 風が止んだ。

 薫衣草の香りが遠ざかった。

 ブランが一度だけ尻尾を揺らし、静かに言った。

「にゃ(動き出したね。花の風も、あいつの風も)」

 母にはただの鳴き声として聞こえただろう。

 しかし私には、その言葉が胸の奥に深く響いた。

 ――私は、何者のだろう。

 どうなるのだろう。


 焦げ跡はまだ熱い。香の音はまだ静か。

 でも、風は確かに変わり始めていた。

 そして私は、この時まだ知らなかった。

 ″何者かわからないまま生きる”ということを、

 これから私が学んでいくことになる――ということを。

毎日、12時頃、更新中。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ