第二部第2話 薫衣草の残香
だが、時の流れは妙にまったりとしていて、昨日と今日の境が曖昧なままだ。
夜の侵入から2晩が過ぎようとしていた。
東都の空はもうすぐ明けようとしているはずなのに、家の中はどこか薄い靄がかかったような、しんとした静けさに包まれていた。
私は縁側に座り込み、ぼんやりと庭を見ていた。白い木槿の花が風もないのに揺れ、陽の当たらない部分だけ色が濃く見える。焼けた香りは薄れてきているのに、胸の奥ではまだ燻っていた。
――私は、何者なのだろう。
問いは、昨日よりも、昨夜よりも、深く沈んでいる。
お圭はまだ目を開けていない。父と母は寝不足のせいか顔色が悪い。お縁は廊下を静かに行き来し、何も言わない代わりに、風の流れを読むように家の柱を撫でていた。
みんながそれぞれの方法で“昨日の続きを生きている”のに、私だけが取り残されているようだった。
掌の焦げ跡は薄くなりつつあるけれど、完全には消えない。その痕を見るたびに、胸の真ん中がじん、と痛んだ。あの夜、私が叫んだ瞬間に溢れた光は、いったい何だったのだろう。
香が死んだのではなく、眠っているだけ――とお縁は言った。
けれど、眠っているものをどう扱えばいいのか、私には分からない。
そのとき、柱の上から影が落ちた。
「みゃ(また考えてる)」
ブランだった。
白い毛並みが朝の光を受け、淡く光っている。母が近くにいないので、彼の声は言葉としてはっきり届く。
「……考えずにはいられないわ」
「にゃ(そりゃそうだろうけど)」
ブランは私の膝の上にひらりと飛び乗り、丸くなる。
重さはほとんどないのに、心の重さだけが少し軽くなった気がした。
「昨日、あのあと……お圭の様子、見た?」
「みゃう(見たよ。眠ってた)」
「……そう」
辛くなるから言葉がそこで途切れた。その沈黙に、ブランは尻尾でそっと私の手を叩いた。
「にゃ(あの子は戻ってくるよ。香の風が止まってない)」
「止まってない……?」
「うん。焦げた香りってのはね、完全に消えたんじゃなくて、形を変えただけ。
にゃー(まあ、花の場合は“怖いから閉じてる”って感じだけど)」
「……言わないで」
図星で、胸の奥がちくりと痛んだ。
その瞬間だった。
庭の向こうから、風がひと筋、すっと流れ込んだ。
金木犀の香りではない。 薫衣草の、淡くて落ち着いた香り。
胸の奥で、何かが小さく震えた。
――あの人だ。
襲撃の直後、意識が途切れかけた中で聞いた声。
額に触れた、迷いのない指先。
眠れ、と囁いたあの低い声。
思い出そうとした瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
「……橘様」
小さく名前を呟くと、ブランが片目を開けた。
「にゃ(ああ、あいつ。風の匂いがうるさいやつ)」
「うるさいって……」
「んにゃう(だって、あいつの周りだけ風がざわざわするんだもん)。にゃー(真面目すぎるんだよ、あれは)」
ブランの言い方が面白くて、思わず笑ってしまった。
笑ったのは、二日ぶりかもしれない。
「橘様は……来てくれているの?」
「みゃ(来たけど、花には見えてない。あいつ、自分の香りだけ置いて帰った)」
「香りだけ……?」
「うん。にゃ(“心配してる”って匂い)」
「…………」
胸の奥で、何かが溶けるように温かくなった。
けれど、それと同時に、罪悪感もじわりと顔を出す。
「私……守られただけ、なのね」
「違うよ」
ブランが急に真面目な声になった。
金と青の瞳が、まっすぐ私を見つめる。
「にゃ(あいつが来たのは、花を“助けるため”じゃない。“見届けるため”だよ)」
「見届ける……?」
「うん。花がどこに立って、どこへ行くのか。それを知りたかったんだよ、あいつは」
何のことか分からなかった。
でも、胸の奥の焦げ跡に、微かに風が触れた気がした。
「……私って、何なの?」
気がつくとその言葉がこぼれていた。
昨日から何度も胸の中で形になり、ようやく声になった。
ブランはゆっくり瞬きをして、ぽつりと答えた。
「みゃ(それはね、花が一番知りたいことだろうけど――まだ教える時じゃない)」
「また、それ……」
「にゃ(でも、ヒントはあげる)」
ブランは私の胸元をそっと前脚で触れた。
「“焦げた香は、生きている証”だよ」
その言葉が胸に落ちたとき、遠くで鐘の音が鳴った。
ゆっくりと、二日目の朝が始まった。
今朝は、昨日よりもさらにざわついていた。
近所の者たちが、半鐘の余韻を噂し、「武家の者が倒れた」「抜け殻のままだ」と口々に言っている。
店の前に立つと、どうしても耳に入ってしまう。
「なあ、あの武士たち、本当に生きてるんだよな」
「医者が言うには、病も怪我もないそうじゃ。だのに、心だけどっか行っちまったらしい」
「怖ぇ話だ……誰がやったんだ?」
誰が。
その言葉が胸の中で重く響く。
――私だ。
言えない真実が、内側でじんじんと痛む。
けれど、誰も気づいていない。
父も、母も、番頭の勘兵衛も、「花がした」とは言わない。
お縁お祖母様はーーー気づいているのかもしれない。
ーーーこれからどうしたらよいのだろう?
座敷では、お圭が相変わらず目を閉じている。
おみつが手拭いを絞り、額の汗を拭っている。
その姿を見ているだけで胸が痛んだ。
「……お圭」
小さく名前を呼ぶと、まつ毛がわずかに震えた気がした。
けれど、目はまだ開かない。
母はその横で、静かに手を合わせていた。
昨日より表情に影はあるが、以前よりも私を見る眼差しが柔らかい。
不思議なことに、あの夜以降、母は私に触れる回数が増えた。
この距離の近さが嬉しい。
同時に、怖い。
――私は、本当に“娘”でいていいのだろうか。
胸の奥で問いが巣を作り、膨らんでいく。
母の手が伸び、頬に触れた。
「花。無理をしてはだめよ」
その声が、ひどく優しくて、泣きそうになった。
そこへ、お縁が廊下の向こうから近づいてきた。
いつものように背筋は伸び、足音は静かだが、どこか急いでいるようにも見えた。
「お義母様……?」
母が立ち上がると、お縁はゆっくりと息を吐いた。
「風が、西へ流れた。……あの方が動くかもしれん」
「あの方?」
まただ。
昨日も、お縁はその言葉を使った。
お縁は私の方をちらりと見て、言い直した。
「いや……まだよい。花、外の空気を吸いに行ってはどうじゃ。風の色が変わっておる」
言われるまま、私は廊下を歩き、裏庭へ出た。
空は澄んでいるのに、空気は妙に重かった。
昨夜の名残のような焦げた香りがまだ漂っている。
それは逃れたくなる匂いなのに、なぜか恋しくもある。
庭の端で、猫の影がひょいと現れた。
「にゃ(外に出るのは賛成よ)」
いつの間にか、姫君のブランになっていた。
「ブラン……」
「にゃあ(でも、ぼーっとしてるとまた倒れるわよ)」
「倒れないわ」
私が言い返すと、ブランは細い目でじろりと見た。
「にゃあ(なら、立ってみたらいかが)」
「え?」
「にゃん(立ってみれば分かってよ)」
言われるまま立ち上がると、胸の奥で何かがずきりと痛んだ。
座っていたときは気づかなかったが、焦げ跡の部分が熱を帯びている。
「っ……」
「にゃ(ほーら)」
ブランはしっぽを揺らし、私の足元で丸くなった。
「みゃ、みゃうん。(香は死んでない。眠ってるだけ。けどね――風は花のことを忘れてないよ)」
「風が……?」
「うん。風が、“花を探してる”って感じ」
胸がざわりと震えた。
「……それって、どういうこと?」
「みゃあ(そのうち分かるよ)」
ブランはくるりと背中を向けて歩き出した。
まるで私をどこかへ誘導するように。
庭の隅の大石のところで、ブランは立ち止まった。
その先の、竹垣の向こうから――風が吹いた。
香りの混じる風。
微かな季節には早い金木犀の香り。
そして、薫衣草の香り。
二つが同時に香った瞬間、心の臓がどくんと鳴った。
「っ……!」
体が一瞬だけ熱を帯び、焦げ跡がぴりりと光った気がした。
「ブラン……今の……」
振り返ろうとした瞬間、ブランは跳ねるように後退った。
「にゃ(来た)」
「来た?」
「にゃあ(風だよ。花を呼んでる風)」
かすかに薫衣草の気配が残った。
遠く、影向寺の方角だった。
その日の昼過ぎ。
家の中は静まり返っていた。
お圭はまだ眠り、父は帳場に座ったまま動かず、母は火の番を続けている。
私は座敷の柱にもたれて、風の行き先を考えていた。
――影向寺。
あの場所には何があるのだろう。
お縁は「あの方」と言った。
ブランも「風の匂いがうるさいやつ」と言っていた。
橘一大。
あの人が動いている。
胸の奥で、焦げ跡がまたちくりと熱を放った。
そのとき、廊下の向こうから衣擦れの音がした。
お圭の部屋の前で、母が静かに立ち尽くしている。
「……花」
母が呼んでいた。
「どうしました、お母様」
「お祖母様がおっしゃっていたの。
“風は忘れぬ。花は、動かねばならぬ”と」
その言葉が、まるで胸の奥の焦げ跡に触れたように響いた。
「私は……動けるのかしら。こんな私が」
「花」
母はゆっくりと私の髪を撫でた。
その仕草は、いつもの母ではなく、まるで“初めて娘を抱いた母”のような慎重さに満ちていた。
「あなたが何者でも、私の娘よ」
「…………」
その言葉が苦しくて、そして嬉しくて、私は泣きそうになった。
しかしその直後、母の手が一瞬だけ震えた。
母は私の焦げ跡を見て、わずかに表情を動かす。
「花……その手は」
「これは……ただの傷よ」
「傷ではないわ」
母の瞳に、不安と確信が同時に宿った。
私の胸の奥が跳ねた。
――やっぱり、母は気づいている。
“私が、普通ではないことを”。
その瞬間、廊下から白い影が飛び込んできた。
「みゃあ!(花、出るよ!)」
「えっ……?」
「にゃっ(風が呼んでる!)」
ブランは私の裾を噛んで引っ張った。
母にはただの「猫の鳴き声」にしか聞こえないので、驚いたように目を瞬いている。
「みゃっ(花!早く外!)」
「ま、待って……!」
私は母の手をそっと振りほどき、ブランの後を追った。
庭を抜け、裏門の方へ走る。
風が強く吹き、焦げ香の残りを攫っていく。
その風の中に、確かにあった。
――薫衣草の香り。
胸がぎゅっと締まる。
焦げ跡が熱を帯びる。
世界が少しだけ揺れる。
「ブラン……これ……」
「にゃ(あいつの香り)」
「どうして……?
「みゃ(見に来てるんだよ、花の“風の色”を)」
私は息を呑んだ。
風が頬を撫で、焦げ跡に触れた瞬間、胸の奥の香がかすかに揺らぐ。
眠っているはずの香が――風に呼ばれたかのように。
「っ……く……!」
痛みと似た感覚が走った。
ブランが振り返る。
「にゃ!(無理に開こうとしないで!)」
「わ、私……開いてない……!」
「にゃあ(勝手に揺れてるんだよ!)」
風が一度だけ強まった。
金木犀の香りと薫衣草の香りが混ざり、庭の上を走り抜ける。
私は膝をついた。
「花!」
背後から母の声が聞こえた。
走って追ってきたのだ。
「大丈夫……よ……」
言葉とは裏腹に、胸の奥は激しく脈打っていた。
焦げ跡が光を宿したように、かすかに熱を発している。
母が駆け寄り、私の肩を抱いた。
「花……!」
その腕が温かかった。
その温かさで、私はふっと意識が軽くなる。
風が止んだ。
薫衣草の香りが遠ざかった。
ブランが一度だけ尻尾を揺らし、静かに言った。
「にゃ(動き出したね。花の風も、あいつの風も)」
母にはただの鳴き声として聞こえただろう。
しかし私には、その言葉が胸の奥に深く響いた。
――私は、何者のだろう。
どうなるのだろう。
焦げ跡はまだ熱い。香の音はまだ静か。
でも、風は確かに変わり始めていた。
そして私は、この時まだ知らなかった。
″何者かわからないまま生きる”ということを、
これから私が学んでいくことになる――ということを。
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