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第二部・第1話 光の残響

 

 ――どうして、私が。

 目を覚まして最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。

 高麗屋の夜半過ぎ、屋敷の中にはまだ焦げるような匂いが薄く残っていた。

 火事になったわけではない。梁も柱も立っている。けれど、鼻の奥にまとわりつく、焼けた香の残り香が、昨夜のことを何度でも思い出させる。

 風はほとんどなく、灯の火は小さく、頼りなげに揺れている。行灯に映る火の形が、少し揺れるたび、胸の奥で何かがきゅっと縮こまった。

 十五夜から、まだ幾日も経っていない。

 ほんの少し前まで、店先の話題は「月見団子がどうの」「隣の店の団子は固いだの」といった、他愛もないことばかりだった。


 ――また、だ。

 息を整えようとすると、胸の真ん中がじんと痛む。

 深く吸えば、焦げた匂いと、ほんのわずかな甘い香りが混じって入ってくる。

 吐き出しても、その感覚は消えてくれない。

 私は寝所から体を起こし、帯を締め直してから、そっと廊下に出た。畳に手をつくと、指先に触れる感触が、いつもよりざらついているように思える。昨夜、あの光の中で波打っていた畳を、目が覚めてもまだ見ているせいかもしれない。

 障子の向こうには、まだ人の気配はない。

 朝というには早すぎて、夜というには遅すぎる、間のびしたような刻限。

 東の空は白みかけているはずなのに、屋敷の奥はまだ深い水の底みたいに青く暗い。

 私は廊下を歩き、お圭が寝ている部屋の前で立ち止まった。

 障子の桟にそっと指を置く。木の冷たさが、指先から腕へ、そして胸の奥まで、じわじわと染み入ってくる。



「……あ、花」

 先に中にいたのは母だった。

 障子を開けた途端、母の声が低く、しかし柔らかく響いた。

 昨夜から、母の声は少し変わったように思う。以前は、私に向けられるとき、どこかでほんのわずかに、厚い布一枚ぶんの距離があった。

 それが今は、布の端を指でつまんで、こちらへそっと近づいてきているような。

 部屋の隅には、お圭が眠っている。

 肩口にきちんと布が当てられ、その上から新しい布で巻かれ、紐で軽く留められていた。血はもう止まりかけていると、さっき医師が言っていた。けれど目はまだ閉じたままで、まつ毛が時折震えるだけだ。

 母はお圭の額に布を当て直し、それから、私の方を振り向いた。

「ちゃんと眠れた?」

「……よく、わからないわ」

 正直に答えると、母はふっと目を伏せ、そして「そう」とだけ言った。その「そう」の中に、心配、安堵、戸惑い、いろんなものが混じっているようで、私はどこを見ていいか分からなくなった。

 私はお圭のそばに膝をつき、そっとその手を握る。

 ほんの少し冷たいけれど、死んでしまった人の冷たさではない。ひんやりとした土の上に置いた石のような、それでもひそかに昼の温度を芯にもっているような、そんな温度だ。

「お圭……」

 名前を呼ぶと、胸がつまって、言葉が続かなかった。

 ――あのとき。

 灯の火が乱れ、影が幾重にも伸びた。

 男たちの怒鳴り声、刃の光、落ちる血の赤。お圭が私をかばってくれたのに。固まって動けなかった私。

 それらが、目の裏側にまだ焼きついている。

 


「花、怪我は本当にないのね?」

 母の声がして、私は現に引き戻された。

「ないわ。どこも」

 そう答えると、母はゆっくりと近づいてきて、私の頬をやさしく触った。今まで、母にこんなふうに触れられたことがあっただろうか。思い返そうとして、うまく思い出せない。

「……怖かったでしょう」

 小さな声だった。

 私は何と答えていいか分からず、ただ首を縦にした。

 母の指先が、私の髪を軽く撫でる。

 その仕草は、幼い頃に熱を出したときと、どこか似ている。けれどあの頃とは違い、母の目は、今の私をまっすぐに見ていた。

 “神隠しから戻ってきた、どこか知らない娘”ではなく、ここに座っている、怪我なく朝を迎えた私そのものを。「花」

「はい」

「……あなたは、私の娘よ」

 まっすぐにそう言われると、胸の中に何かがじんと広がる。温かいような、苦しいような、何かを許されたような、同時に責められているような、不思議な感覚だった。

 ――でも。

 私は唇を噛んだ。

 私の掌には、昨夜からずっと、焦げ跡のような紋様が残っている。

 香が暴れたあとに残された、その痕。

 あれは、どう見ても普通の娘の手ではない。

 金木犀の香り。

 光の花びら。

 男たちの目から、命の色が抜けていく瞬間。

 私が叫んだあと、世界は止まり、そして塗り替えられた。

 ――私って、何?

 ずっと胸の底で薄く燻っていた問いが、昨夜の騒ぎで一気に形を得た気がした。

 みんなは私を「花」と呼ぶ。

 高麗屋の娘、宗右衛門とお咲の次女。

 よくできた橙子姉様の妹。

 神隠しから戻ってきた、少し変わった子。

 でも、本当に私は、その「花」なのだろうか。

 お圭を傷つけた刃を止められなかった私が、男たちの心だけを空にしてしまった私が、母の「娘」と名乗ってよいのだろうか。


 部屋の入口で、ふわりと白い影が揺れた。

「……みゃあ」

 ブランだ。

 梁の上から、音もなく畳に降り立つ。白い毛並みは、昨夜の光をまだ少しだけ纏っているように見えた。体を丸めて伸びをし、尻尾をゆらりと一度だけ揺らす。

 母がそちらを見て、「猫様」と小さく呟いた。

 その声には、ほんの少しだけ、助けを求めるような響きが混じっている。

 けれど、母にはブランの言葉は、ただの鳴き声にしか聞こえない。

「……ブラン」

 私が名を呼ぶと、金と青の双つの瞳が、すっとこちらを向いた。

「にゃ(起きたね)」

 猫の鳴き声の形をしているのに、私の耳にははっきりと言葉として届く。

 ――それだって、おかしい。

 普通なら、猫の言葉なんて聞こえるはずがない。

 なのに私は、ブランが何を言っているのか分かってしまう。昼のぶっきらぼうな姫君のような口ぶりも、夜の少年みたいな声音も、全部。

「ブラン、昨夜……私は……」

 言いかけると、ブランはすっと私の膝元まで近づいてきて、ちょこんと座った。

 母にはただの猫が寄ってきただけに見えるのだろう。けれどブランの瞳は、まっすぐ私を射抜いている。

「みゃー(後でゆっくり話そうよ)。にゃ(今は、まだ)」

 彼はちらりとお圭の方を見た。

 私はその視線の意味を、なんとなく理解して、口をつぐんだ。

 ――どうして、私だけが。

 問いは、やっぱり胸の中で形を崩さなかった。

 私は自分の掌を見つめた。焦げ跡のような紋様は、夜が明けても消えていない。

 香の匂いはもうしない。けれど、確かに何かがそこに痕が残っている。

 私の中で、何かが終わり、何かが始まってしまった。

 そのことだけは、はっきり分かっていた。


 通りはざわついていた。

 半鐘の余韻がまだ町のどこかに残っているのか、人々は何かにつけて空を見上げる。銀座の方角へ首を伸ばし、「高麗屋だ」「いや、火事ではないらしい」と小声で言い合う。

 夜襲に来た男たちは、皆、生きていた。

 けれど誰も言葉を発せず、虚ろな笑みを浮かべて座っていた。

 ただ、心がどこかへ行ってしまったように、空を見上げるだけ。

 瞳には、昨夜の金木犀の光が薄く膜のように残っているように見える。

 半鐘の音に驚いて駆けつけた町方の者たちが、「これはどういうことだ」と口々に言う。医師が来て脈をとったが、身体は健康そのものだという。ただ、心がどこかへ行ってしまったように、空を見上げるだけ。誰も言葉を発せず、虚な笑みを浮かべて座っていた。

「抜け殻だ」

 誰かがそう言った。

 その声を、私は廊下の奥から聞いていた。

 聞こえないふりをしようとしたのに、耳が勝手にその言葉だけを拾ってしまう。

 抜け殻――。

 それは本来、私自身にこそふさわしい言葉ではないか。

 中身が別の場所に行ってしまって、からだだけがここに残っているような、そんな感覚を抱えているのは、むしろ私の方なのに。

 

 光が爆ぜたあと、世界が静まり返った。息はあるのに、命の匂いがなかった。あの沈黙が、いまも胸の奥に残っている。

 気がついたとき、私は座敷の床に手をついていた。

 掌には、もう光も香もなかった。ただ、焦げたような跡だけが残っていた。

 それが何なのか、分からなかった。

 けれど、心の奥で何かが静かに終わったような気がして、どうしてもそこから目を離せなかった。


 高麗屋では、男たちが倒れ、お圭が運ばれ、母が泣き、父が怒鳴り、家中が慌ただしく動き出した――そのあとのことは、ところどころ記憶が抜けている。 ――いや、本当は、もっと覚えている。

 あの光のあと。

 私は、完全には気を失っていなかった。

 体は動かず、目も開けられず、声も出なかったけれど、耳と鼻だけが、どこか遠くの場所から戻ってきたみたいに働いていた。

 焦げた香の匂い。

 金木犀の甘さ。

 血と油と、畳の焼けた匂い。

 その全部が混ざり合って、鼻の奥のどこかに重く沈んでいた。

 そして、その中に、もうひとつ違う香りが混じった。

 薫衣草。

 どこか懐かしくて、胸を締めつける香り。

 ――薫衣草の香り。あの人の香り。

 幼い頃の記憶と重なるような、けれどはっきりとは思い出せない、薄い霧のような記憶が、ふっと胸の中をよぎる。

 たしか、誰かが近づいてきた足音がした。

 普段聞き慣れた高麗屋の者とは違う歩き方。軽いのに、迷いがない。畳を踏む音が、なぜか“風の音”に似ていた。

 影が、私とお圭を覆った。

 その気配は、刀を抜いた者のものではなく、怪我人の様子を窺う医者とも違っていた。

「……無茶をしたな」

 誰かの声が、耳のすぐそばで低く響いた。

 怒っているようでいて、責めているようでいて、でも一番強いのは、痛みと心配だった。

 指先が、私の頬に触れる。

 ごつごつしてはいないけれど、柔らかすぎもしない、ほどよく節のある指。その指が、私の額からこめかみへ、耳の後ろへとゆっくり動く。まるで、熱の具合を確かめるように。

 私は目を開けたかった。

 この声の主を確かめたかった。

 けれど、まぶたが重くて、どうしても持ち上がらない。

「……今は、眠れ」 さっきよりもさらに低い声で、そう囁かれた気がした。

 その瞬間、薫衣草の香りが少し強くなり、私の周りの空気がやわらかく包まれる。

 風が一度だけ揺れた。

 金木犀の香と薫衣草の香が混ざり合い、世界がひと呼吸ぶん、沈黙した。

 ――あれは、夢だったのだろうか。

 目を覚ましたあと、自分の掌の焦げ跡を見つめながら、何度もそう自問した。


「花?」

 母が呼ぶ声で、私は現在へ戻ってくる。

「ぼんやりして、どうしたの」

「……ごめんなさい」

 謝りながらも、頭のどこかで、あの香りと声の主を探してしまう。

 薫衣草の香り。

 影向寺の裏門から駆けつけた、あの人――橘一大。

 直接、目を開けて見たわけではない。

 けれど、体が覚えている。

 あの夏の日、川沿いの道で出会った、浪人風の青年の気配と、昨夜感じた気配が、重なっているように思えてならない。

 私の中で、過去と現在がぐらりと揺れ、足元が少しだけ不安定になる。

「花」

 母が、私の頬にそっと触れた。

 その指先は、いつもより少しだけ強く、しかし確かだった。

「大丈夫よ。……あなたは、ちゃんとここにいるわ」

 母がそう言ってくれるたび、胸の奥がぎゅっと痛くなる。

 本当に、私はここに「いる」のだろうか。神隠しに遭った夜から、私の中には、ずっとその疑いがあった。

 金木犀の森、二つの月、掌からこぼれた光。

 思い出そうとすると、頭の中に霧が立ちこめる。

 そこへ、ブランがふいと歩み寄り、私の膝に額を押しつけた。

「みゃ(考えすぎ)」

「……考えずにはいられないわ」

 小さな声で答えると、ブランは「にゃー」と少し大きく鳴いた。

 母にはただの猫の鳴き声にしか聞こえない。その証拠に、母は少しだけ力の抜けた笑みを浮かべて、「猫様も心配してくださっているのね」と呟いた。ブランを嫌っていた母も、ブランにやっと心を許したように。

 ブランは、母の言葉など気にも留めず、私だけを見上げる。

「みゃあ(他の人には聞こえないんだよ、これ)」

「……知っているわ」

「にゃ(だから、普通じゃないのは確かだけどさ)」

「……ブラン」

 胸の奥で、「普通じゃない」という言葉が重く沈んだ。

 私は、他の人には見えない光を見て、他の人には聞こえない声を聞いている。人とは半拍子ずれている感覚。金木犀の香りが季節外れに漂うとき、世界が少しだけ色を変えるのを感じている。

 昨夜はそれが、大きな形であらわれた。

 男たちの心を空にし、お圭を傷だらけにし、家中を震え上がらせる形で。

 ――私って、やっぱりおかしい。


 母は家に籠もり、灯を絶やさぬよう見張っていた。

 いつもは女中たちに任せる火の番を、自らの手で行っている。

 灯心を整え、火が弱くなると油を足し、時折ふっと炎を見つめる。その横顔には、まだ拭いきれない恐怖と、何かを決意したような強さが同居していた。

 父は帳場の帳簿を開いたまま、しばらく動かない。高麗屋の主人として、花の父として、考えを巡らしていた。 数字を追う目は、今日だけはどこか焦点を結んでいない。それでも掌は算盤を撫で、長年染みついた習い性が、かろうじて父を支えているようだった。

 お圭は目を閉じたまま、呼吸だけを続けている。

 脇にはぬるま湯を入れた桶が置かれ、ときどきおみつが額を拭き、袖口を整え、布団の皺を伸ばす。

 誰もが口に出さないけれど、「戻ってきてほしい」と祈りながら、その手を動かしている。

 私はその傍らで、自分の掌を見つめていた。

 焦げ跡のような紋様は、夜が明けても消えなかった。

 指でなぞると、そこだけ皮膚が少し硬くなっている気がする。熱はない。痛みもない。けれど、そこには確かに何かが触れた痕があった。

 そして、香の匂いもしなかった。


 ――香が、死んだのだ。

 そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。

 今まで私の周りで、勝手に花が咲いたり、猫が元気になったり、細々とした「いいこと」が起こっていたのは、全部あの香のおかげだったのかもしれない。

 もしその香が死んだのだとしたら――私はただの「おかしな娘」だけが残ることになる。


 昼を過ぎても、屋敷は音を失っていた。

 母は祈るように湯を沸かし、父はただ静かに座っていた。

 お圭のまぶたは動かない。

 灯だけが、淡く部屋を照らしている。

 そのとき、廊下を渡る衣擦れの音がした。

 お縁である。

 彼女は何も言わずに座敷を見渡し、焦げた香の名残を感じ取るように目を細めた。

 皺だらけの手が、空気を撫でるようにかすかに動き、その指先に何かを探るような仕草をする。

「……風が変わりました」

 その声に母が振り向く。

 母の顔には疲れが濃く出ているが、瞳だけは真剣だ。

「お義母様……」

 お縁は灯の火を見つめ、静かに言った。

「花や。香は死んでなどおりません。いまは、眠っているだけです」

 私は返事ができなかった。

 香が、ただ怖かった。

 再び、誰かを壊してしまいそうで。

「……本当に?」

 かろうじてそれだけを問うと、お縁は私に歩み寄り、膝をついて目の高さを合わせた。

「本当に、じゃ」

 皺だらけの手が、私の掌を包む。

 焦げ跡の上に、祖母の手の温もりが重なる。

 じんわりと、そこだけが温かくなった。

「香というものはのう、眠ることもあれば、暴れることもある。人の心と同じじゃ。……昨夜は、あまりに早く、あまりに強く目を覚ましてしもうた」

 お縁の声は静かだが、一つ一つの言葉が胸に沈んだ。

「でも、私……」

 私のせいで、と言おうとして、言葉が喉に引っかかる。

 お圭の肩の傷。

 男たちの空っぽの目。

 あの光と香りの奔流。

「わたしが、あんなふうに……」

「花」

 お縁は少しだけ声を強くした。

「おまえは“香を使った”のではない。おまえの香が、おまえを守ろうとしたのじゃ。守るものがあるとき、香は勝手に働くことがある。それが、昨夜のことじゃ」

「でも……」

「怖いかい」

 問われて、私はうなずくしかなかった。

 怖い。

 自分の中にあるものが、見知らぬ誰かを壊し、親しい誰かを傷つけ、世界を変えてしまう。それが自分の意志とは関わりなく起こるのが、一番怖い。

「香が怖いか。……それとも、自分が怖いかい」

 お縁の言葉は、心のいちばん奥に踏み込んでくる。

 ――自分が怖い。

 そう言ってしまったら、何かが決定的に変わってしまう気がして、私は唇を噛んだ。

 沈黙が落ちる。

 やがて、お縁は立ち上がり、障子を開けた。

 外の風が流れ込み、金木犀のような匂いがわずかに漂った。

「風はまだ覚えています」

 お縁は、廊下を見つめたまま言った。

「昨夜の香も、あの方の香も。……忘れぬうちに、動かねばなりません」

「あの方……?」

 私が問うと、お縁は一瞬だけ振り向き、何かを言いかけて、それでも口をつぐんだ。

「今は、まだいい。少し、部屋で休みなさい」

 それだけを告げ、彼女は静かに部屋を出ていった。


 私が自分の部屋に戻ると、廊下の向こうで、白い影がふわりと揺れる。

 ブランだ。

 お縁が通り過ぎるのを見届けてから、すっと柱の陰から姿を現した。

「大人って、ほんと肝心なとこで黙るわよね」

「ブラン……」

 猫は音もなく近づき、私の膝に飛び乗った。

 体重は思ったより軽いのに、その存在は不思議と重い。

「で、花はどうしたいの」

「どう、って……?」

「怖いまま、固まってるのか。それとも、“怖いけど生きる”のか。

 私はどちらでもかまわないけど。」

 言われて、私は言葉を失った。

 怖いまま固まってしまえば、もう誰も傷つけないかもしれない。

 でも、私の中で眠っている香は、いつかまた勝手に目を覚ますかもしれない。そのとき、私はまた誰かを壊してしまうのだろうか。


「私、普通じゃないのよね」

 ようやく絞り出した言葉に、ブランは尻尾を一度だけ打ちつけた。

「今さら何言ってるの。普通だったら、猫と喋れないでしょ」

「そうね……」

 思わず苦笑が漏れた。

 自嘲気味の笑い。けれど、その笑いがこぼれたこと自体に、少しだけ驚いた。

「でも、私が普通じゃないせいで、お圭が……」

「それは違うわよ」

 姫君の声が、いつもより少しだけ低くなった。

「あいつらが刃を向けたから、お圭は斬られたの。あなたが、刀を振り回したんじゃないでしょう?

 花の香は、むしろ“間に合った方”だと思うわ」

「……間に合った?」

「全部、壊す前に止まったもの。お圭も、まだ息をしてる。あれで“間に合ってない”なんて言ったら、こっちの身がもたないわよ」

 猫に励まされている自分がおかしくて、でも、ありがたくて、胸の奥がまたじんと熱くなった。いつもは、あまり話しかけてくれない姫君が私と話してくれているのもうれしかった。

「……ねえ、ブラン」

「みゃ?」

「どうして、私には……あなたの声が聞こえるの?」

 ずっと聞いてみたかった問いを、ようやく口にすることができた。

 ブランは少しだけ首をかしげ、金と青の瞳で私をじっと見つめる。「それはね」

 そこで一度言葉を切り、わざとらしく欠伸をした。

「教えたら、面白くないわ」

「……ひどい」

「でも一つだけ言うとね」

 ブランは私の胸のあたりを、鼻先でつついた。

「“普通”の人間の耳には、世界の音が多すぎるの。花は、自分の音が分からないくらい、世界の音を拾っちゃうから――こういう声も、紛れ込んじゃうだけ」

 よく分かるような、分からないような説明だった。

 けれど、「世界の音」という言葉に、なぜか心が少しだけ軽くなった。

 私が聞いているのは、ただの“異常”ではなく、世界のどこかに確かにある音のひとつなのかもしれない。

 そう思うと、「私って何?」という問いの色が、ほんの少しだけ柔らいだ気がした。

 もちろん、答えにはまだ辿り着けない。

 私は人なのか、そうでないのか。

 高麗屋の娘なのか、どこか別の世界から紛れ込んできた“誰か”なのか。

 でも――。

 お圭の呼吸の音、母が火を扱う微かな音、父の算盤の珠がかすかに触れ合う音、廊下を抜ける風の音。それらの全部と同じ場所に、ブランの声も、薫衣草の記憶も、金木犀の香もあるのだとしたら。

「……私、たぶん、まだ生きていていいのよね」

 ぽつりと漏らした言葉に、ブランは大きく目を瞬いた。

「当たり前でしょ」

 尻尾で私を軽く叩き、姫はぷいと顔をそむけた。

「生きててもらわないと、こっちが困るし」

「困る?」

「私の相手をしてくれる花がいなくなったら、暇でヒマで仕方ないわ」

 その言い草に、私は思わず笑ってしまった。

 今度の笑いには、さっきより少しだけ力があった。

 陽がそろそろ落ち、夜がまたやってくる。

 けれど、あの夜のあとの世界は、もうこれまでの世界ではない。

 香は流れを変え、

 風は行先を変え、

 ブランは耳を伏せ、風の香りを確かめていた。

 東都は、いやこの世界そのものが、静かに、だが確実に、別の時を迎えようとしている。

 

 まだ誰も、その変わり目に自分たちが立ち会っていることを、はっきりとは知らない。

 ただ、金木犀と薫衣草と、幾筋もの香りが、見えぬ川となって町の上を流れ始めていることだけが、確かな事実として息づいていた。

 私は自分の掌をもう一度見つめ、そっと指を握りしめた。


 ――私って何?

 その問いは、やっぱり消えない。

 けれど、その問いを抱えたまま、それでも誰かを守ろうとした昨夜の自分を、少しだけ許してみてもいいのかもしれない。

 “何者かわからないまま生きる”ということを、ここから学んでいくことになるなど、このときの私はまだ知らなかった。

「ブラン」

「みゃ?」

「また話をしてくれる?」

「仕方ないわね。よろしくてよ」

 白い猫はゆっくりと身を丸め、私の隣で目を閉じた。


 寄りかかってくる重みと温度を感じながら、私は遠い空に思いを馳せる。

 ――いつか、あの薫衣草の香りの人とも、ちゃんと目を開けて話せるだろうか。

 遠い空では、まだ薄く残る二つの月の記憶が、かすかに瞬いていた。

毎日、12時頃、更新中。


あの夜から続く、花の世界は、どうなっていくのでしょうか?

第二部では今後、外伝でチラ見せしたキャラも登場する予定です。

お楽しみいただければ、幸いです。

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