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第一部第25話 夜の侵入者

 暮れ六つを回り、東都の空はすっかり夜の色に沈んでいた。


 昼間の賑わいは影も形もなく、往来の戸はどこも早々に閉ざされ、行き交う人々の足音さえ、どこか急いている。遠くの路地で犬が二声ばかり吠え、それきりまた、街は息を潜めた。高麗屋の軒下にも薄い霜気のような冷えが漂い、暖簾は風のない闇の中で、重たく垂れ下がっている。張り詰めた静けさは、目に見えぬ薄い膜のように家々を包み、音という音を吸い込んでいくようだった。


 帳場では、宗右衛門が火鉢に炭をくべ、赤くなった火の色をじっと見つめていた。炭がぱちりと弾け、小さな火の粉が飛ぶ。番頭たちは膝を崩し、帳面をまとめて紐で括りながら、今日の売り上げを小声で確かめ合っている。紙が擦れる音、算盤の珠が転がる音。行灯の光は弱く揺れ、壁に映る影は長く伸びては揺らぎ、店中の隅々まで暗さがじわりとしみ込んでいた。


 誰もが、あと少しで暖かな寝所に潜り込み、いつものように、静かで穏やかな夜を迎えるはずだった。

 ――そのとき。

 コツ、コツ、と表の戸が叩かれた。

 最初は、夜風が木戸を揺らしただけかと思われた。冬の入口の風は、時々いたずらのように戸を鳴らす。それでも皆の耳が自然とそちらへ向いてしまうのは、夜という時間の心細さのせいかもしれない。

 だが、間を置いて、もう一度。先ほどよりもわずかに強く、ためらいのない音。

「夜分に恐れ入ります。志摩屋より参りました」

 番頭の勘兵衛が怪訝そうに戸を開くと、冷えた外気が一筋、帳場へ流れ込んだ。灯の火がかすかに揺れ、炭火が赤さを増す。戸口には、深く頭を垂れた男がひとり立っていた。旅装束のように見えるが、肩にかかる布は上等な織りで、薄汚れているようでいて生地の張りは落ちていない。背筋は妙に真っ直ぐで、腰の位置も高い。

 顔つきの端々には、町人とは違う鋭さが潜んでいた。目元の皺の寄り方、口の結び方、そのどれもが、武家の屋敷で人に頭を下げ慣れた者のものだった。しかし、店の中を見回す視線だけはただの奉公人には似つかわしくないものだった。

「結城家のご内室様より、お言伝てを賜りまして。橙子様を介して、お嬢様にお渡しせよとのこと」

 その言葉が落ちた瞬間、場の空気が変わった。

 “ご内室様”――奉公先の主の妻。武家の奥向きの頂点に立つ女性。その名を口にするだけで、町家の者には背筋が自然と伸びる。

 商家が断るなど、考えられない。断ることが、どれほどの不敬に繋がるか、誰もが肌で知っている。

 宗右衛門は目を瞬かせ、手を止めた。お咲の顔は強張り、膝の上で重ねた指が白くなるほど握りしめられる。脇で茶を片付けていたおみつは、茶碗を持つ手を止め、息を呑んだまま動けなくなっていた。


「……奥へ、お通しして」

 お咲の声はかすかに震えていた。自分でも抑えきれない緊張が、その一言にまとわりついていた。

 お圭が「はい」と短く答え、灯を掲げて前に立つ。行灯の淡い光が、使いの男の頬と袖を照らし出した。粗末な身なりに見えるのに、その袖口に覗く糸は絹。刀の柄の重さも、どう見ても町人のそれではない。

 お圭は異和に気づいたが、何も言わず、ただ視線を伏せて足を進めた。余計な言葉は、今は毒になる。長年の奉公で身につけた嗅覚がそう告げていた。

「お嬢様、文を」

 促されて、私は奥から進み出た。

 歩く間にも、心臓の音が大きくなっていくのが分かる。足袋越しに畳の感触を確かめるように一歩、また一歩。膝がわずかに震え、裾がかすかに揺れた。

 差し出された文箱の上には、白い封書がひとつ。

 その封に指先が触れた瞬間、ふっと香がした。

 焚き染められた香の匂いに似ている──けれど、どこか濁っている。甘さの奥に、微かな苦味。まるで、よく仕立てられた衣の裏に、見えない継ぎが潜んでいるような、不自然な調子。

 私の胸に、きゅっと細い針が刺さったような感覚が走る。

(……これ、本当にご内室様の文なの?)

 疑いの言葉を、喉から外へ出すことはできない。そんなことを言えば、家ごと風向きが変わる。けれど、胸の奥に刺さった針は抜けてはくれなかった。


 そして……

 ――店の戸が、爆ぜるように破れられた。

 乾いた木片が舞い上がり、廊下に複数の影が雪崩れ込んだ。戸板が倒れる音と同時に、冷たい夜気が一気に奥へ流れ込み、行灯の火が激しく揺れる。

 足音、怒号、刃の金属音。複数の声が重なり合い、床板が軋む。明かりが揺れて、畳に影が乱れた。薄暗い座敷の空気が、一瞬でざらりと荒くなる。


「控えよ!」

 鋭い声が座敷を切り裂いた。

 お咲が喉を裂くような悲鳴を上げ、お圭が私を庇うように立ちふさがる。お栄は思わず壁の方へ身を寄せ、手近な柱にしがみついた。

 足音の波が押し寄せ、灯に照らされた刃のきらめきが、ひとつ、ふたつ、三つ……と数え切れないほど目に飛び込んでくる。

「結城家ご内室様の命により、この娘を召し出す!」

 男のひとりが、高らかに叫んだ。

 その言葉が落ちた瞬間、お咲の膝が崩れた。畳に手をつき、苦しげに息を吸う。

「突然に、そ、そんなご命令、あるはずが……!」

 声は震え、ほとんど掠れていた。

 けれど否定の言葉を出してしまった以上、もう後戻りはできない。

「下知を疑うか。女子は黙れ!」

 怒声とともに、灯が倒れた。台座を失った行灯が横倒しになり、油が畳に広がり、赤い火がゆらりと揺れ出す。紙が焦げる匂いが鼻を刺し、熱気が空気に広がる。

 闇と火の明滅のあいだで、人の影が伸びたり縮んだりし、座敷は別の世界のように歪んで見えた。

「お圭!」

 私の叫びが掠れた。喉の奥が焼けるように痛い。


 お栄の肩が、びくんと震えた。

 その顔は、急に土気色になっていた。目が大きく見開かれ、その奥で何か暗いものが揺れる。

 鼻を刺す──金木犀。

(あの夜と……同じ香り……)

 まだ花嬢様が幼かったあの夜。闇と、香りと、冷たい手の感触。記憶の底に沈んでいた景色が一気に浮かび上がり、背筋に、氷のような冷気が走った。

 お栄の唇が震え、「いやだ……また……」と呟きかけて、急いで口を閉ざした。言葉にしてしまえば、何かが戻ってきてしまう。そんな恐怖が、彼女の喉を締めつけているようだった。


「花嬢様、下がって!」

 お圭が叫んだ、その一瞬後。

 武士のひとりが私の髪を乱暴に掴み上げた。頭皮に痛みが走り、視界がぐらりと傾く。

「これが“香を持つ女”か。血が混じれば、家は繁栄するという」

 濁った笑み。唇の歪んだ線。刃の反射が私の視界に閃いた。近くで見る鉄の光は、氷よりも冷たく、薄く震えているように見える。

「放せ!」

 お圭は簪を抜き、男の手を突いた。

 白かった簪の先に、灯の火が一瞬映え、鋭い線を描く。次の瞬間、別の刃が閃き、お圭の肩が裂かれた。

 血が灯の明かりに弾けた。

 布が裂ける音。立ちのぼる生々しい匂い。血が畳にこぼれ落ち、じわりと染みを広げる。

「お圭!」

 お圭を抱き寄せる私を見て、武士たちは嗤った。足元で畳がきしむ。

「町衆、それも女が、武士に逆らうなど──笑止!」

 刃が月明かりを裂いた。窓の外から差し込む淡い光と、灯の赤い光とが、刃の上で交じり合う。


「やめて──!!!」

 私の声が座敷を揺らした。

 喉の奥からほとばしった声は、自分のものとは思えないほど鋭く、荒く、必死だった。

 次の刹那、世界が──止まった。


 風が凍り、音が消え、灯の揺れが空中で固まったように見えた。火の形でさえ、まるで絵に描かれた炎のように、同じ形のまま動かなくなったように感じた。男の下卑た笑い顔も、刃を持った男の腕も、刃の軌跡さえも、すべてが、何かに縫い止められたように。

 その瞬間、空気も変わった。金木犀の甘い香りに熟しすぎた果実のような匂いが加わり、高麗屋を満たしていく。

 風が止まり、音が凍る。掌が熱を帯び、七色の紋が浮かび上がった。

 ――守る!

 ーー許せない!!

 ――お圭! お圭!! お圭!!!

 心の奥で何かが爆ぜた。


 金木犀の香りが、空間すべてを変えた。空気が熱を持ち、灯が弾け、香が光へと変わる。座敷の畳は波を打ち、土壁が軋む。障子が風もなく吹き飛び、花弁が舞い散る。

 髪が風に揺れ、瞳は光を映して七色に煌めく。呼吸のたびに空気が震え、香が音を立てた。まるで硝子が割れるような高い音が耳の奥で聞こえている。

 七色の粉塵が漂い、肌に触れるたびに微熱を残す。

「な、何だ……!?」

 武士たちが叫び、刃を構える。

「ば、化け物……!」

 武士たちの声が恐怖に震える。

 恐怖は怒号を飲み込み、喉の奥で掠れた呻きへと変わっていく。

 私の髪が風に揺れた。灯の光と七色の光を受けて、一本一本が別の色を帯びる。空気そのものが脈打ち、胸の内と外の境が曖昧になっていく。

 呼吸一つで、世界が震えた。吸うたびに光が集まり、吐くたびに香りが広がる。

「お嬢様……」

 お圭が血に濡れた手を伸ばす。

 私はその手を掴もうとしたが、力が入らない。

 けれど、私の掌からこぼれ落ちた光が、お圭の肩口を照らした。傷がわずかに閉じ、血が止まりかけている。


 その光を、ただ一人、恐れず見つめていた者がいた。奥の陰にいたお縁が、花とお圭へそっと身を寄せる。目を細めながら、二人を守るように立つ。

 祈りにも似た声音で、お縁がかすかに呟いた。

「……大丈夫だよ、花。もう少し……もう少しだけ」

 祈りに触れた七色の光は、ふっと震え、やがて静かな奔流となって座敷にあふれ出した。光は空気を飲み込み、音を奪い、風を凪がせ、空間そのものに細かなひびが走っていた。


 武士たちの目が凍りつき、動きが止まる。

「……触れたい」

「ご加護を……」

「なんて尊い……」

 彼らは呟きながら、ひとり、またひとりと膝を折り、音もなく倒れた。

 静寂が高麗屋を支配する。ただ、いつもの金木犀の香りではなく、香の焦げた匂いが漂っていた。


 私は膝をつき、お圭の体を抱き上げる。鉄に似た血の香りが、焦げた香りに溶けていく。

「……生きて……お願い……」

 お圭の頬に私の涙が落ちる。お圭の胸が、かすかに上下していた。


 高麗屋の騒ぎは、夜半の東都を瞬く間に駆け巡った。

 遠くの辻で見張りをしていた町方の者たちが半鐘に驚き、戸を開けて首を出す。

「火事か?」「あれは……銀座の方か」

 ざわめきが輪を描くように広がり、暗い通りに小さな灯りがひとつ、またひとつと増えていく。

 火の手は上がってはいない。屋根の上に赤い光は見えない。

 けれど、金木犀の香りが、夜風に混じって町の通りを漂っていた。ふだん嗅ぐとは違う。いつもは甘く香るはずの香りが、今日はどこか熟しすぎた果実のような不穏な匂いも纏っていた。

 人々は顔を見合わせ、鼻をひくつかせながら、「なんだこれは」と小声で言い合った。


 宗右衛門は、目の前の光景に膝をついた。

 倒れた畳、すすけた襖、灯の砕けた匂い。焦げた油と、甘い香と、血の匂いが、ひとところに渦を巻いている。

 さっきまで火鉢をいじっていたのと同じ夜とはとても思えず、世界が別の場所へねじれてしまったかのようだった。

「……これは、いったい……」

 かろうじて漏れた声は、自分のものとは思えないほど弱々しかった。

 その横で、お咲は震える指で口元を押さえていた。頬は青ざめ、唇には血の気がない。

「花……花は……! お圭……!」

 視界の端で、倒れた武士たちが息をしている。胸がわずかに上下していた。死んではいない。だが身動きせず、目を開いたまま人形のように力なく横たわっていた。刀は手から離れ、畳の上で光を失っている。


「旦那様! こちらに!」

 番頭の声に振り返ると、倒れた屏風の陰で、お縁が花とお圭を庇うように抱き寄せていた。

 お縁の手は震えていたが、その瞳には確かな覚悟が宿っている。長年この家の奥で、言葉にできぬものを見てきた者の目だった。

「……花は……」

 宗右衛門が恐る恐る近づいたとき、お縁はかすかに首を振った。花の頬にかかった髪をそっと払う指先は、年齢に似合わぬほどしっかりとした力を持っていた。

「息はあります。けれど……これは、人の手でどうこうできることではありません」

 その声音には、隠世門の血筋としての確信めいたものがあった。

 単なる怪我や病ではない。もっと別の“何か”が、ここで働いたと知っている者の声。

 お咲はお圭の肩に触れ、その指先に濡れた赤色を見つけて息を呑んだ。

 袖の下で、まだ生温かい血が指先にまとわりつく。

「お圭……どうしてこんな……」

 お縁がそっとお咲の手を握った。

 節の浮いた手と、まだ大店のお内儀らしく手入れされたお咲の手が、血と香の中で重なる。

「命は……つながっています。あの子が、繋いだのでしょう」

「花が……?」

 お咲の表情に、安堵と恐怖が混じる。

 愛と不安と、もう一つ言葉にできぬ感情――それは、ずっと胸の奥で燻ってきたものだった。娘を見つめるたびに、ふと視線をそらしたくなるような、しかし目を離せないような複雑な思い。

 お咲は震える指で花の手を握っていた。

 指の先は冷えきっているのに、花の手のひらには、まだ微かな温みが残っている。その温度を確かめるように、何度も何度も、花の手をさすっていた。

「お願い……どうか……」

 その願いは、花を手放したくないという母の祈りであった。神隠しから戻った花への拭えなかった違和感。自分でも花へ時に冷たくなってしまったことがわかっていても、止められなかった。しかし、今の花を見ていると、いつも間にか、一緒に過ごした年月がその違和感を上書きしていたようだった。


 そのとき、白い影が梁の上を歩き、ひょいと降りてきた。

 梁の上でしなやかに背を弓なりにし、細い足で音もなく畳に降り立つ。その足取りは軽いが、尾の先は緊張でわずかに揺れている。毛並みは相変わらず整っていて、灯の残り火を受けてほのかに光った。

「人の家で暴れるなんて、やっぱり東都の連中は無粋だねぇ」

 ブランは、ふう、とひとつ長く息を吐き、花の方へと歩み寄る。

 その口から紡がれた言葉は、花の耳には確かな言葉として届く。けれど今の私は、深い眠りの底にいた。まぶたひとつ震わせられない。

 お咲や宗右衛門の耳には、ただ「みゃあ」と短く鳴いたようにしか聞こえなかった。

 緊張の糸が切れたのか、おみつが「猫様……」と呟き、か細くつぶやいた。


 ブランの瞳は、花に吸い寄せられていた。

 金と青の双つの光が、倒れた少女の顔をじっと見つめる。

「にゃんーん(なんてひどい反動だ。あれだけ暴発したら、しばらくは起きられない)」

 低く漏らした声は、畳の上にだけ落ちた。人の言葉としてそれを拾える者は、今この場にはいない。

「これはどうしたというのか……?」

 宗右衛門は、誰にともなく呟いた。耳に残った「みゃあ」という鳴き声と、花の周囲に残る温度の変化を、うまく結びつけることができない。

 問いかけは空気に溶け、返事はない。ただ猫が尻尾を一度、ぱたりと振っただけだった。

「みゃあーん(説明したって分かんないよ。人の香じゃないから)」

 ブランは肩をすくめるようにして、背中の毛をふるりと揺らした。その仕草は、外から見ればただの猫の気まぐれにしか見えない。

「みゃう、みゃう(ただ……花は“欠けてる”。足りないまんま、無理に守ろうとするから、こうなるんだ)」

 ブランの声は、眠る花のすぐそばで、かすかな風となって揺れた。言葉そのものは、花の意識の縁を掠めていく。

 お咲には、猫が短く鳴いているようにしか聞こえない。だが、その鳴き声の調子に、なぜか胸の奥がざわついた。


 お咲がはっと顔を上げた。

「何が……?」

 問いは、お縁に向けてか、自分自身に向けてか分からない。

 お縁は一度だけ目を伏せ、答えぬまま花の髪を撫でた。長年沈黙してきたものが、今まさに形をとろうとしているのを、どうにか押しとどめるかのように。

 ブランは言葉を選ぶように、しっぽを一度揺らした。ブランの口の形は鳴き声を出そうとしているが、鳴き声は出ない。

「(この子の“欠片”は、別の場所にいる。どれだけ力を持ってても、いや、力が大きいからこそ、片側だけじゃ支えきれない。

 ――だから、必要なんだよ。俺やなんかが)」

 それは、誰より花自身に向けられた言葉だった。そして、ブランは心の中で愚痴ってもいた。

(向こうからの厳しい戒めがなければ、助けてやれたんだけど……)


 眠りの底で、花の眉がかすかに寄る。夢と現の境目で、何かを聞き取ろうとするように

 花は微かに眉をひそめ、夢の中で誰かの名を呼ぶように唇を動かした。

「……だれ……も……」

 掠れた声が漏れた。実際に音になったのかどうか、誰にも分からないほどの微かな震え。

 その小さな動きに、お咲が息を呑む。だが、花の目はまだ開かない。

「にゃ!(しっ。今は眠らせておきなよ)」

 ブランは、そっと花の髪に頬擦りをする。柔らかな毛並みと少女の髪が、かすかに擦れ合う。

 その仕草は常になく優しい。

「ふにゃっ(ふん、誰の仕業なんだか。ー―分かってないなぁ)」

 その声は静かで、どこか哀しかった。

 障子の外、風が戻る。遠くで犬が吠え、半鐘の音が夜を裂いた。

 私はお圭を抱いたまま、凍りついたように動けなかった。

 手の中の光はもう消えていたが、香だけが、なお暖かく漂っていた。  

「みゃあーう(向こうで足止めされてる守り人も……たぶん、もうすぐ来る。

 あの人、一度決めたらしつこいしね)」

 お縁が、ふと目を細めた。

 猫の鳴き声しか聞こえないはずなのに、その尾の揺れ方と、鼻先の向く方向に、何かを感じ取る。

「……“薫衣草”の香り。さっき、風に混じっておりました」

 お縁の呟きは、この場に落ちた。

 ブランは鼻を鳴らした。金と青の瞳が、一瞬だけお縁の方を振り向く。

「にゃん(そ。あれがあの人の『守りの香』。もう近いよ)」

 再び猫の声だけが響き、誰もそれを言葉とは思わなかった。

 ただ、お縁の唇からは、長く詰めていた息がひとつ、静かにこぼれた。


 

 浅汐川から吹き上げる夜風の中で、一大が影向寺の裏門を勢いよく飛び出した。

 焦げた香の残滓が風に混じり、胸を刺す。

「……まさか、ここまで――」

 香木札が手の中で焦げ落ちた。

 風が乱れ、月が二つに揺らいで見える。

 石畳を蹴る足音が、寺の高い壁に反響する。袴の裾が夜風を切り、羽織の裾が大きく翻る。

 焦げた香木札の破片が袖からこぼれ落ち、地面に散るたび、石の上で小さく乾いた音を立てた。胸の奥の薫衣草の香は乱れ、まるで切れた糸を必死に手繰り寄せるように、風を呼び続けていた。

 風は応えるように一大の周囲を巡り、袖や髪を揺らす。けれど、その中心にはなお、空いた穴のような感覚が残ったままだ。

「……花」

 その声は誰に聞かれるでもなく、ただ夜気に溶けた。

 口に出した瞬間、自分の胸の内側に、痛みとも焦りともつかぬ感覚が走る。


 お縁は座敷の隅で、目を閉じて手を合わせた。

 細い肩が、小刻みに震えている。

「……あの子は、誰のものでもありません。

 なのに、あの子を、あの子の香、あの子の力を奪おうとする者たちが、動き出している」

 その言葉には、長年隠してきた真実の影があった。

 言えぬことを抱え続けてきた者特有の重さが、ひとつひとつの音に宿る。


 高麗屋の外に、風が集まった。薫衣草の香りが、闇を裂くように流れ込む。花の香とは違う柔らかく静かな香り。

 その香りと共に、一つの影が座敷の前に立った。

 橘一大だった。

 額にはうっすらと汗がにじみ、息は乱れている。それでも背筋は伸び、目の奥は冴えた光を失っていない。

 ブランが、ふっと目を細めた。梁の上からその姿を見下ろし、尻尾の先を静かに揺らす。

「ほら。言ったでしょ」

 誰にも届かぬ小さな声でつぶやき、白い身体を丸めて座り直した。

 橘一台が屋敷に辿りついたとき、すべては終わっていた。障子は倒れ、畳は焼け、灯は砕けている。血と香が溶け合い、空気そのものが甘く焦げていた。

 その中央で――花が膝を折っていた。お圭を抱き、動かない。

 一大は息を呑み、そっと近づく。足元に落ちた光の欠片が、まだ微かに震えていた。

「……暴発か。だが、これは……」

 触れた指先に、熱が残っていた。焦げ跡の下に、柔らかな香の層がある。誰かを傷つけた後に、なお「癒そうとする」気配。

 一大の喉が鳴った。

「……おまえは、どこまで……」

 花の頬に手を伸ばし、呼吸を確かめる。微かに温い。生きている。

 その瞬間、風が揺れた。薫衣草の香と金木犀の香が混ざり、夜が息を呑む。世界が、ほんの一拍、沈黙した。

「……無茶をしたな」

 そこには、焦げた香の残滓と、柔らかな温度が入り混じっていた。荒れ狂ったあと、どうにか静まりかけた風のような、かすかな震えが指先に伝わる。

 小さく呟いた声には、怒りよりも痛みがあった。

 叱りつけたいのに、叱る相手はすでに意識の彼方にいる。そのもどかしさが、言葉の端をかすかに震わせる。

 ――護るということは、閉じることではない。

 胸の奥で、誰かの声がした。一大は目を閉じ、指先で空気を撫でた。香が薄く漂い、光が消えていく。風はやがて凪ぎ、夜が落ち着いた。

「……今は、眠れ」

 彼は囁くように言い残し、灯を避けて立ち去った。


 お咲は、一大の姿を見て一瞬戸惑い、それから深く頭を下げた。

 お縁は静かに目をこらし、一大と花のあいだに漂う香の揺らぎを感じ取っていた。

 灯はすでに落ち、夜は深い。

 しかし、この夜の出来事を境に――

 香は流れを変え、

 風は行先を変え、

 東都は、いやこの世界そのものが、静かに、だが確実に、別の時を迎えようとしていた。

 まだ誰も、その変わり目に自分たちが立ち会っていることを、はっきりとは知らない。

 ただ、金木犀と薫衣草と、幾筋もの香りが、見えぬ川となって町の上を流れ始めていることだけが、確かな事実として夜気の底で息づいていた。


 屋敷の中では、花の手のひらから小さな光がこぼれた。まるで夢の名残のように、温かく。

 遠い空では、二つの月が重なり、静かに瞬いていた。



 ─────────第一部・完─────────

おかげさまで第一部は、この第25話で完結です。

明日12時頃から、ブランが主人公の外伝を、短編としてアップします。短編は3部まで。

本編とちょっと趣きの違った作品ですが、楽しんでいただけたら、幸いです。

そして、明後日から、本編の続きを第二部として更新していきます。

よろしくお願いいたします。

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