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第一部第24話 幸福な夢

夜の深みに、家の気配が静まっていく。帳場の灯は落とされ、廊下の端で油がひとつだけ小さく揺れている。花は寝所に戻り、横になっても、まぶたの奥が冴えていた。胸には昼間のざわめきがまだ残り、言葉にできぬ熱が、波のように寄せては引いた。


障子の桟の隙間から、風が細く通る。糸をそっと撫でていくような気配。耳を澄ますと、遠くで水音がして、さらに遠くで、誰かが笑い声を忍ばせた気もした。現か夢か判じ難い境に、白い影がふっと現れる。


「眠れないの?」

 布団の端に、ブランが丸くなる。夜のブランの声は、少年のように軽い。花は小さく笑い、うなずいた。

 「眠りたくないのかも」

 「じゃあ、少しだけ借り物の道を通ろう。戻れるように、ぼくが尻尾を結んでおく」

 「尻尾を?」

 「見えない紐ってやつさ。ほどけない結び方、ぼくは昔から上手い」


ブランが寄り添ってくる。温かいひと呼吸ののち、部屋の輪郭が淡く揺れ、灯が遠くなる。障子の紙がやわらかな光に溶けていく。落ちるでもなく、浮かぶでもなく、人は“あわい”の波の真ん中に立てるのだと、からだが思い出していく。


風は澄み、色が増えた。金と青が層をなし、薄いガラス片を舞わせたようなきらめきが空いっぱいに散っている。空には二つの月。ひとつは蜂蜜を溶かしたように丸く、もうひとつは刃のように細く冴え、互いの光をそっと受けあっていた。息をすると、胸の奥で何かがかすかに震え、粒子となって光った。


足もとの草は踏むたびに音のない笑い声を立てる。花が指を差しのべると、葉脈を走った光が先端でふくらみ、白いつぼみがひとつ開いた。開いたはなびらは、薄い螺鈿のように色を変え、風の向きに合わせて微かな音を返してくる。


「おかえり」

 鳥の声とも、人の声ともつかない響き。花は振り返る。森の縁に、やわらかな人影がひとつ——。背丈は花より少し高く、髪は光を吸って艶を持つ。顔は見えない。だが、そのたたずまいの温度は知っている。影は近づくと、花の手を取るかわりに、手の周りの空気ごと包むような仕草をした。


「よかった」

 たったそれだけの言葉が、胸の底にそっと落ちる。涙が出るほど嬉しいのに、泣き方を忘れてしまったようだった。花は笑ってうなずき、影と並んで歩き出す。二つの月の下、道はどこまでもやわらかく伸び、木々の葉裏で粉をまぶしたような光がさやさやと行き交う。


水の面に近づくと、粒子はさらに細かくなって呼吸に混ざった。指を水に浸すと、肌の上で小魚の群れのように光が走る。水の中から「大好きだよ」と聞こえ、風もそれを繰り返した。どの声も、花が忘れてしまっていた言葉を思い出させるように、やさしく確かだった。


影が先に立って丘をのぼる。丘の上には小さな石の台があり、古い器がひとつ置かれている。器の縁には細い金の線が走り、欠けを継いだ跡が美しかった。影は器に水を汲み、花に差し出す。花が受け取ると、水はひとりでに光を増し、器の底に小さな月をつくった。


「綺麗」

 花が微笑むと、影は目尻で笑ったように見えた。器の月はふわりと大きさを変え、花の両掌の間へ移る。胸の奥で「ありがとう」という音が鳴った。誰にともなく、すべてに向けて。


森の方から子どもたちの笑い声が重なる。草むらで跳ねる小動物が、花の足首に鼻先を押しつけては駆けていく。遠くで笛の音が試される。風の高さそのものをなぞる音色。花も歩幅を合わせ、その音の間へ足を踏み入れた。


いつのまにか、影は花の隣で歌っていた。どこかで聞いたような旋律。花も自信なげに声を添えると、歌は二重になって丘の向こうへふくらんでいく。花の声に合わせて、草地のあちこちから小さな花が開いた。白、蜜の黄、雨上がりの海のような青——どれもが「大好きだよ」をひとつずつ持っていた。


「わたしは——」

 言いかけた花に、影は静かに首を振る。“言わなくていい”という合図のように。花はそれに従い、そっと影の肩に額を寄せた。触れたのは空気だけなのに、不思議なほど温かかった。


月がわずかに傾く。金の方が細くなり、青が冴える。風の匂いが森から海へ、海から空へと移ろった。花は丘の上に腰を下ろし、影と並んで二つの月を見上げる。目を閉じなくても、まぶたの裏に光が生まれ、目を開けても胸に夜が宿った。


「忘れないで」

 風が言ったのか、影が言ったのか。あるいは両方かもしれない。花はうなずく。「忘れない」。その瞬間、世界の輪郭がゆっくりと遠のいた。器の月が波紋をつくり、粒子はきらめきながら散っていく。


影が、もう一度だけ花の手を包む仕草をした。それが合図だった。風は背中を押さず、足もとから道を照らした。ブランの尻尾が、確かに結び目を守っているのが分かる。花は微笑み、影も微笑んだ。声はなかったが、その笑みが別れのすべてだった。


光は薄片になって夜空へ戻り、二つの月は元の高さへと別れていく。丘の石台だけが温かさを残し、やがてそれも風に溶けた。ふと、甘やかな香がわずかに通り過ぎる。金木犀ではない。この瞬間だけに生まれた香りだった。花は胸の真ん中でそれを受け取り、目を閉じた。


目を開くと、部屋の天井があった。朝の光が障子に薄く押し寄せ、庭の笹が揺れている。戸口の陰からお圭が顔をのぞかせた。

 「……お嬢様?」

 花は身を起こし、少し照れたように笑った。

 「いい夢を見ていたの」


縁側に出ると、ブランが伸びをしていた。白さが日向に溶け、庭と縁側がひと続きに見える。

 「ありがとう」

 花が言うと、ブランは片目だけ細めた。

 「礼は半分、夢に言って。半分は私がもらうけど」


庭の気配を吸い込む。風はみずみずしく、土は眠気を残していた。白萩の葉裏が銀色に光る。耳の奥で、まだ微かな「大好きだよ」が響いている。思い出そうとすると遠のき、耳を離すと近づく——そんな距離に。


花は手のひらをひらく。何も乗っていないはずなのに、一瞬だけ細かい粒子が光った。朝の悪戯かもしれない。けれど、それだけではない確かさがあった。


「ねえ、ブラン」

 「ん?」

 「また、行ける?」

 ブランは前足を引き、背を丸めた。

 「夢は一度で十分なときもある。二度欲しがると、だいたい下手になる」

 「意地悪」

「忠告。ぼく、忠告はタダでしてる」


花は笑ってうなずいた。欲しがるより、残しておく。残ったものは、日中の光にも耐える。庭で鶏が鳴き、家が動き出す気配がする。帳面の音、お澄の小言。どの音も、今朝は少しだけやさしかった。


縁側の隅で露がひと粒跳ね、葉裏に転がった。ふふ、と花が笑うと、ブランが横目で見る。

 「あなたは目の撫で方が上手い」

 「目の、撫で方?」

 「そう。見すぎないのに、ちゃんと見てる。だから、ものが育つの」


花は空を見上げる。昼の月が薄く残り、紙の裏の水跡みたいな淡い色をしていた。届かない距離が、今朝は心地よかった。届かないものを無理に追わず、ただ見守ることのできる朝。


「行ってきます」

 誰にともなく告げ、花は家の中へと歩きだす。きのうと同じように始まる朝。けれど胸の奥には、きのうとは違う小さな灯が宿っていた。触れれば消えてしまう熾火のような光。それを両手で囲むようにして、花は息を合わせた。


「お嬢様、朝餉を——」

 お圭の声に、花は返事をする。返事の音が、廊下の木目にやわらかくしみ込んでいった。外では、もうすぐ咲きそうな金木犀が、遠くでわずかに揺れた。朝の空気は澄み、二つの月の名残をほんの少しだけ含んでいた。

毎日、12時頃、更新中。

明日が第一部最終話です。

明後日、ブランが主人公の外伝を投稿。

その後、第二部を始めます。

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