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第23話 誘いの香

 昼下がりの光が、格子を抜けて座敷に落ちていた。

 高麗屋の表では、いつもと変わらず米俵や反物が行き交い、帳場では番頭が声を張り上げている。けれど、奥座敷にいる者の心持ちは、ほんの少しだけ違っていた。

 橙子が奉公に出てから、初めて「文が届いた」のだ。


「志摩屋の政蔵様が見えております」

 そう告げに来たのは、おみつだった。緊張と好奇心がないまぜになった声だった。

 母のお咲は針目を止め、小さく息を整えると、襟元を撫でつけた。

「志摩屋さんが……? 何のご用事かしら」

 おみつが続ける。 

「橙子様より、花お嬢様宛のお手紙をお預かりしております、とのことで」

 部屋の空気が、少しだけ動いた。

 私は思わず顔を上げる。鼓動が一段高くなった。

「花、あなたが受け取りなさい」

 お咲が静かに言う。その声の中には、娘ふたりを思う複雑な揺らぎがあったが、私にはまだ読み取れない。

 縁側から覗いた表の間では、志摩屋の政蔵が、いかにも「よそ行き」の笑みを浮かべて腰をかけていた。その横に、見慣れぬ若侍が控えている。結城家に出入りしているのだと語った。

 名は、藤界之介――。


「高麗屋様には、いつも主人が大変お世話になっております」

 界之介は、そう前置きしてから深く頭を下げた。声は穏やかで、低く、どこか遠い潮の音を孕んでいる。

「結城家様への出入りの折、橙子殿より文をお預かりいたしました。女中衆では……と結城家では考えたようで、私が直接お持ちするよう仰せつかりました」

 政蔵が「いやはや、ありがたいことで」と相槌を打つ。言葉の半分は本心、半分は、奉公先と高麗屋の両方に顔を立てようという打算のようだ。

 母に軽く促され、私は前へ出た。でも、若い男性と座敷で向かい合うなど、初めてのこと。ー膝が少し震えてしまう。

「……花でございます。姉からの文、確かに頂戴いたします」

 界之介の視線が、ふっとこちらに向いた。

 見る、というより「測る」という方が近い。

 私は、その目に冷たさと柔らかさが同居していることに戸惑った。

「では、奥でゆっくりと」

 お咲が気を利かせ、界之介ひとりを座敷へ通すことにした。政蔵は「私は宗右衛門さんと商いの話がありますのでと理由をつけて、店の方へ行ってしまった。


 座敷では、灯がひとつ、静かに揺れていた。

「目が少し悪い」と話した界之介のために、お咲が女中に灯させたものだ。

 界之介は黒羽織に浅紅の襟を忍ばせ、膝を崩さずに座している。

 膝の上に置かれた手は細く白いが、節に硬さがあった。武家とも僧ともつかない、どこか「境目」に立つ者の所作だった。

 私は畳の縁の少し内側に座り、姉からの文を両手で受け取った。封はきちんと結ばれているが、確かに橙子が私に教えてくれた特別な折り方で閉じられていた。

 封に触れた瞬間、指先に熱が宿った。

 淡く、湿った空気が肌を撫でる。

 香の名を知らずとも、それが“何か”を呼び起こす力を持つと分かった。

(お姉様……)

 胸がきゅっと締めつけられ、花は思わず目を伏せた。

 まさか、姉が細工をしたはずもない。しかし、何かが奇異だった。


「お姉様は……お元気でしたか」

 沈黙に耐えきれず、口からこぼれてしまった。いつもの自分より掠れた声。

 界之介は、ゆっくりと微笑んだ。

 その笑みは、店先で客に向ける商人のそれとも、寺で信徒を迎える僧のそれとも違う。距離を保ったまま、こちらに一歩だけ近づいてくる笑みだった。

「ええ。よく学び、よく働かれている。……けれど、少し“風の通り”が悪い」

「風の通り?」

 花は顔を上げる。

 界之介は、灯の揺らぎを見るような目で彼女を見た。

「心は風と似ています。閉ざせば濁り、開けば流れる。

 結城家の奥向きは、風を通すには、少々重い場所でしてね」

 そこまでは、奉公先の様子を語る丁寧な使者のことばだった。

 けれど、次の一言で、座敷の空気が変わる。


「貴女は――風を呼ぶ側の方ですね」

 障子の隙間から風が差し込み、灯がかすかに揺れた。

 界之介の視線に誘導されるように、私もその灯を見てしまった。

 熱くもないのに、頬が紅くなる。

 界之介の声が近づくたび、温度が上がっていくようだった。

「……何を、仰るのですか」

 思わず袖口を握りしめる。自分でも分からない何かが、胸の奥で膨らんでいく。

「見れば分かります」

 界之介の視線が、花の掌を掠めた。そこに浮かぶ七色の残照が、わずかに光る。

 ほんの一瞬、光が灯の明かりと混ざり合い、座敷の空気が柔らかく歪んだ。

 私は息を呑み、慌てて袖を押さえた。

「その色。風が呼んでいる。

 貴女の香は、人の心を撫でてしまう。撫でられたものや人は心地よいかもしれない。でも……それがどれほど危ういか、ご存じですか」

 声が柔らかく、しかし刃のように鋭い。

 逃げようとしても、風が身体を包み込む。

 自分の中から立ちのぼる何かが、彼の言葉に呼応してしまうのが分かった。

(危うい……? 誰も傷つけていないのに)

 心が波打ち、景色の輪郭がぼやける。


 姉の文の重みさえ、一瞬、指先から離れそうになる。

 界之介はさらに身を乗り出し、ほんの僅かな距離で囁いた。

「放っておけば、誰かがその香を“掴む”。

 けれど、掌に載せるのが私であれば――壊しはしない」

 言葉は甘露のようでいて、芯に冷たいものを忍ばせているのが、私でも感じとれた。胸が早鐘を打ち、指先の感覚がなくなる。

 香のせいなのか、言葉のせいなのか、朦朧としていて、よく分からない。

(掌に……?)

 脳裏に、一瞬、見知らぬ景色が閃いた。

 低い空、透明な風。二つの月が重なり合う光。

 誰かの手が、自分の手をそっと包み込む感触。

 そのとき――。


「……それ以上、言うな」

 障子の上から、声が落ちた。

 白い影が灯の中に滑り込み、音もなく畳に降り立つ。

 ブラン。

 金と青の双つの瞳が、夜よりも冷たく光る。

 毛並みはいつものようにふわりと整っているのに、背筋には鋭い棘が立っているように見えた。

「花に触れるなら、あんたの目を抉ってやるよ。この爪で!」

 界之介はわずかに目を細めた。猫の言葉が分かっても、驚いてもいない。

「猫とは思えぬ口ぶりだ」

「猫じゃない。友達だよ。昼の顔では姫君、夜の顔では――ケンカ上等の(おとこ)だよ。

 お前なら、昼でも俺が相手をしてやるよ」

 ブランはわざと前足を伸ばし、花の膝の上にふんぞり返る。

 白い尻尾の先が、ぴんと立って震えた。

 私は我に返り、息を吸った。

 熱が引き、香が風に散る。

 指先の痺れがゆっくりと退いていく。


 界之介は、白猫を見つめたまま、静かに立ち上がり、扇を閉じた。

「……なるほど。守りがいるとは聞いていなかった」

「守ってるんじゃないよ。目を覚まさせるのさ。風蘭の香は、夢を見せすぎる」

 ブランは毛を逆立て、尾を高く掲げた。

 界之介は軽く笑みを残し、踵を返す。

「夢を見るのも、時には薬になるんだが……」

 そう言い残して、障子の向こうへ去っていった。

 去り際、私の肩のあたりにかすかな風が触れた。そこには「また」という気配が混じっている。

 残された空気は、妙に冷んやりとしていた。


 私は膝を硬くして座ったまま、動けずにいた。

「……いまの人、何者なの」

「風を操る人。風を、香の流れを、好き勝手にしたがるーー」

 ブランは小さく鼻を鳴らし、花の膝に乗った。

「アイツは花に近づくべきじゃない。“今の”君は、完全じゃないんだよ」


 ーーー“今の”君は、完全じゃないんだよ

 その言葉が私の中にひっそりと響いた。

 責められているのではない。事実をそっと差し出された、そんな感覚。

「向こうに、君の“欠片”が残ってる。東都の君は、その欠けたぶんだけ風に揺れやすい。

 だから見ている必要があるんだ。風に揺れすぎると、香は散らされてしまうから。傷つかないための“備え”としてね」

 私は息をのみ、指先をぎゅっと握った。

 欠けている──その言葉はつらい。けれど、不思議と拒む気持ちはなかった。

 むしろ、ようやく名前をつけてもらえたような、少しだけ心が軽くなる感覚があった。

「わたしが……弱いから、じゃないの?」

「違うよ」

 ブランは、夜の少年の声で即答した。

「弱いから誰かが要るんじゃない。本当の花になってほしいから。

 君自身が君を見つけるまで、僕たちが横にいる。それだけ」

 その言葉は、寄りかからせてくれる甘さではなかった。むしろ、励ましてくれてくれているように感じた。


「ラベンダーの人は、足止めされてるし…」

 ブランがムッとしている。

「ラベンダー?」

「花、覚えてない? 向こうでは、薫衣草のことをラベンダーって呼んでたんだ」

 ーーー薫衣草

 十五夜の夜、群衆の向こうで一瞬だけ合った目。そのとき感じた青い香り。

 ブランは答えず、尻尾だけをゆらりと振った。

「ラベンダーのヤツがいる寺の石は硬いからね。あいつがどれだけ踏ん張っても、しばらくは動けない。だから、代わりに僕がやっつけてやりに来た」

「やっつける」その言い方が可笑しくて、私は笑いとも涙ともつかない息を漏らした。


 界之介が去ったあと、お咲がそっと襖を開けた。

「花。文は……」

 私は慌てて、何事もなかったように笑みを作った。

「大丈夫。少し、緊張してしまって」

 膝の上の封書は、まだ開かれていない。

 お咲はその様子に一瞬眉をひそめたが、言葉にはしなかった。

「姉様は元気だそうよ。界之介様も、お褒めくださったわ。奥方様のお側でよく働いておられるって」

 私は自分で橙子姉様のことを口にしながら、改めて結城家に行ってしまった姉様のことを思う。

 すると、安堵と言いようのない寂しさが、私の中へ流れ込んできてしまった。


 自分の部屋に戻り、ようやく手紙の封を切る。

 淡い墨の香りと、橙子の筆圧。

 一文字ごとに、姉の息づかいが宿っているような文字だった。

「高麗屋の皆は元気か」「お父さまは無理をしていないか」「お母さまは夜更かしをしていないか」

 書かれていることは、当たり前の家のことばかりだった。

 けれど、その一つ一つが胸にしみる。

 行間に、結城家の空気がかすかに滲んでいる。

「風がよく通る御殿です」「言葉を選ばねばならない場所です」

 橙子の筆は、その先を書こうとして、しかし止まってしまったようだった。

(お姉様も、風の通りに迷っている……)

 花は文を胸に当て、目を閉じた。

 川辺に咲くうす青の花。笛の音。白い影。

 さっきまで座敷で揺れていた空気とは別の、もっと遠い風が胸の中を通り抜けていく。


「考え事?」

 いつの間にか、ブランが枕元に移動していた。

「……うん。なんだか、遠いところにいるみたい」

 ぼんやりと、風に気持ちを任せていた。

 目を開けているのに、別の空気が胸の奥を通り抜けていく。

 霞む視界に、色が差す。金、青、白――まじりあう雲母の光。

 空が低く、風が透明にきらめいている。

 鳥が歌い、草花が揺れ、花々が一斉にこちらを見た。

 どの声もやさしく、柔らかく、心の中に響く。

 ――「大好きだよ」

 胸の奥が波打ち、涙がこぼれそうになる。

 懐かしいのに、名前を知らない。

 それでも、その場所があることは確かに知っている。

 風と光と、あの声のある世界。

 そのとき、金木犀の香がほのかに漂った。

 現の世界へ戻る合図のように。


 花はそっと目を開けた。

 障子の外では、夕風が通り抜け、白い尾が一瞬、影の中を横切った。

 香も、風も、すべてはもう、静かに去っていた。

 けれど胸のどこかには、界之介の声と、知らない世界の風が、細く棲みついたままだった。


 その頃、浅汐川のほとりを、藤界之介は影向じへ向かっていた。

 懐から香木札を取り出す。七宝印が風を受け、ほのかに光を返した。

 さきほどまで座っていた座敷の空気――白い猫と、少女の香りを思い出す。

(姉の香は静かだ。まだ眠っている。だが、妹のほうは……)

 目を閉じると、金木犀と、淡い何かが絡み合う。

 人の心が自然に寄ってしまうような、奇妙な呼吸。

「掴めば壊れる。けれど、放っておけば、もっと厄介だ」

 界之介は、風蘭の香を少しだけ指先にまぶし、夜風に放った。

 香はすぐにかき消えたが、その残り香は静かにどこかへ届いていく。

「守りの香も、目覚めかけている。……さて」

 笑みは静かだったが、その目には確かな熱が宿っていた。


 高麗屋の灯と、川面の月と、野寺の石。

 それぞれの場所で、それぞれの風が動き始めていた。

 私はまだ知らなかった。

 自分が、いろいろなものを引き寄せてしまっていることを。

毎日、12時頃、更新中。

第一部は第25話で完結します。

完結翌日には、ブランが主人公の外伝を短編として投稿。

翌々日から第二部を、また毎日、更新していく予定です。

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