第22話 流れの印
影向寺の奥、「水月の間」。
円形に穿たれた石床の中央には水盤が据えられ、その水面には天井が静かに映っている。今は集いときであり、香は焚かれてはいない。
本来この水盤は、香落庵にのみ伝わる古い道具であった。むかし香月和尚が「彼の地」からただひとつ持ち帰った器だと伝えられているが、今ではその由来を正しく語れる者も少ない。
長く覗き込めば心を削られる――そんな言い伝えがあった。軽々しく扱ってよいわけもなく、上位のものしか、触れることは許されぬ。
風の揺らぎをうつす水盤を、実利派を率いる権僧正・紫藤玄達は長い指でなぞるように見つめていた。
「……香が、乱れておる」
低く洩らされた声に、側で文を写していた律師・日野玄文が筆を止めた。まだ若いが、隠世門きっての学識派と呼ばれる男である。
「異界の兆し、ということですか?」
「いや、異界ではない。もっと近い。“人の香”だ」
玄達は掌を水面にかざし、指先を一節沈めた。本来はむやみに触れてはならぬとされる水面に、ほんの刹那だけ。静かな波紋がひろがり、その揺らぎの中に、玄達はひとつの文字を読みとった。
――高麗屋。
その名が水の上にぼんやりと浮かび上がった瞬間、奥に控えていた大僧都・鴨井覚信がわずかに眉をひそめた。 鴨井は、隠世門のなかでも「理念派」と呼ばれる一群の長である。
「市井の商家が、どう動くというのです。高麗屋は、お縁殿の家系とはいえ……」
「商いではない。娘だ」
玄達は目を細めた。
「姉が結城家へ奉公に出たという。結城は奥の道筋に繋がる。香の流れを乱しておるのは、そこだ」
「娘の奉公ひとつに、香の乱れを重ねるのは早計では」
鴨井の静かな抗いを、玄達の笑みが切った。
「お前は“見守れ”と言うだろうが、見守るだけでは流れは掴めぬ。潮は引き、香は散る。……掴んでこそ、形をなす」
言葉の温度は低い。だが、その奥には「実利派」としての確かな熱があった。
そのとき、襖の外から扇を閉じる乾いた音がした。
「お呼びと聞きました」
淡い紅を縁に走らせた薄墨の羽織をまとい、藤界之介が姿を現した。袖口には小さな木札が差してある。香木を薄く削り、七宝の印を焼きつけた符――隠世門の上位命を伝える“香木札”だ。七つの円環が重なり、灯にかざすと淡く七色に光った。
「南より戻っても、潮の香が抜けておらぬな」
玄達が目を細めると、界之介は静かに一礼する。
「潮の香は、そう簡単には抜けませぬ。……香もまた然りかと」
「理屈はよい。命を伝える。――“香”が動く」
玄達は水面に映る文字を顎で示した。
「高麗屋の花。その周囲に、ふたたび流れが生じておる」
界之介は水盤を一瞥し、香木札を指先で弄んだ。
「“ふたたび”、ですか」
「そうだ。渡の者どもは昔、変調ありと報せてきた。だが、その源を誰も掴めなかった。……今度こそ見定める」
玄文が口を開く。
「渡の者・烏丸宗至よりも、報せがありました。姉・橙子殿は香を持たぬ。かわりに、結城家で“香を聞く才”を示したと」
「香を持たぬ者……」
玄達は、ことさらその言葉をなぞるように呟いた。
「ならば、持つ者も近い」
風蘭の香が、界之介の懐から淡く立ちのぼる。
「界之介。お前が見た“姉妹の香”――報せよ」
促され、界之介はわずかに笑みを深めた。
「姉は香は、まだ血の底に眠ったままですが、よく整った糸を感じました。流れは穏やかで、乱れが少ない。……香そのものは発っておりません。けれど、あれは“香の通り道を持つ血”です」
鴨井がわずかに目を見開いた。
「発現していないものまで“香”と呼ぶのか」
「香は焚いたときだけでは測れませぬ、鴨井様。“いつでも焚ける木”もまた、香の一部。あの娘は、火を入れずとも、周囲の空気を静める」
界之介は、結城家の回廊で見た橙子の姿を思い返した。
薄い浅葱の小袖に、慎ましい腰の引き方。女中頭に歩みの速さを諭されても、呼吸ひとつ乱さずに頭を下げた横顔。そのとき、界之介が甘い香りで空気を撫でた。
――「香の綻びを感じたことがあるか」
軽く投げた問いに、橙子は目を伏せて「いいえ」と答えた。香など知らぬ、というように。だが、その瞬間、胸元の香袋がわずかに温もり、ほんの微かな香が浮かんでは消えた。
(あれは、自分では触れていない香だ)
界之介は、その確信だけをここに持ち帰っていた。
「妹は……」
界之介は視線を水面に落とす。
「抑えているのか、あふれているのか、判じがたい。ただ、周囲がそれに応じる。まるで呼吸のように。本人が意図せず、人も草も、彼女を中心に“整う”。――ただ、それがなぜかは、まだ掴めておりません」
玄達は顎に手を当て、ゆるりと頷いた。
「香を掴む者は滅びる――鴨井の言葉だったな」
「そのようなことを申しましたかな」
鴨井は苦い笑みを浮かべる。
「掴もうとすれば、香は抗う。われらがなすべきは“境を護ること”だと、昔から申してきたはずですが」
「だが、掴まぬままでは、いずれ誰かに奪われる」
玄達の声は低く、しかし確実に熱を帯びていく。
「結城家は幕閣筋。さらにその奥には、大奥がある。姉を通じて、香の流れが奥へ通じるやもしれぬ。……それを許してはならぬ」
墨が、一瞬濃くなった気がした。
「界之介。香を“繋げ”。その立場に恥じぬ働きをせよ」
界之介は静かに扇を開き、薄く笑んだ。
「“掴まずに繋ぐ”――心得ております。南の潮は、引くときほど、遠くへ届くものですから」
「ふん。まだ潮を信じておるか」
玄達が鼻を鳴らすと、界之介は軽く目を伏せた。
「香もまた、風と潮のうちにございますゆえ」
淡い答えを残し、界之介は水月の間を辞した。
界之介とともに玄達が襖の向こうに消えると、玄文は筆を置き、鴨井に目を向ける。
「権僧正は急ぎすぎておられるように見えます」
「急がねば奪われる、とお思いなのだろう」
鴨井は水鉢を見つめたまま、静かに応じた。
「紫藤玄達――あれは“実利派”の顔だ。香を利で束ね、世を動かそうとする者。界之介は、その先鋒として選ばれた」
「では、我らは」
玄文の問いに、鴨井は小さく笑う。
「我ら“理念派”は、理で境を見張る。掴まず、押し流しもせず、ただ流れの形を覚えておく。……そのために、橘一大を置いた」
鴨井の視線が、壁に掛けられた別の香木札に移る。そこには〈風〉の字が刻まれていた。
「一大は今、南の野寺で“守りの香”を調えている。風を張り、香を閉じぬ術を。……時が来れば、高麗屋の娘のそばに立たせるつもりだ」
玄文は深く頷く。
「界之介は“流れを掴む者”。一大は“香を護る者”……というわけですね」
「そして我らは、そのどちらにも肩を貸しすぎぬ者だ」
鴨井は水盤の水面に目を落とした。
「風を掴もうとする者は、いずれ風に呑まれる。だが、風を恐れるだけの者もまた、流れから取り残される。……香落庵とは、もとよりその狭間に立つ場所よ」
誰に聞かせるでもないその言葉は、水盤の底でひそやかに溶けていった。
そのころ、高麗屋の座敷には、静かな灯がともっていた。
夜更け、宗右衛門は帳面を閉じ、煙管を手にしている。向かいに座るお咲が湯を注ぎ、湯気の向こうから夫の顔色をうかがった。
「志摩屋より知らせがありました。橙子様、結城家にて奥方様に気に入られた様子、と」
帳場から戻った番頭の声がまだ耳に残っている。宗右衛門はゆっくりと煙を吐いた。
「さすがだな。あの家は将軍家にもつながる血筋――。そこへ名を通せるのは、並の商いでは叶わぬ」
声には、晴れやかさと、一抹のぎらついた強さが混じる。
「橙子は外で輝き、花は内で栄える。どちらも、この家の力だ」
お咲は黙ってうなずいてみせた。
夫の言葉の中に潜む温度を、長年の感で読み取っていた。
(家のため……それだけではない)
この人は“名”を残そうとしている。結城家との縁、高麗屋の格式、娘たちを通じて、己の代を形として世に刻もうとしている。
「これで、高麗屋は一段と深く根を張れる」
宗右衛門は満足げに続けた。
「橙子が奥で立つなら、花には店を任せられる。あの子はまだ頼りないが……、あの子がいるだけで、人は和む。なかなかに得難い才。商売にも利があろう」
その言葉に、ほんのわずかに、お咲の眉が動いた。
(花を……店に)
胸の奥が、安堵と不安で同時に揺れた。娘を家に置いておける安堵と、その娘が本当にこの家の“根”となれるのかという不安と。
廊下の陰では、お栄が密かに立ち聞きをしていた。灯の光が、わずかにその頬を照らす。
(橙子様は、結城家で道を開かれる……よかった……)
お方様の言葉が、何度も胸に甦る。「橙子様には道を閉ざされぬように」。それが“誰のための道”なのかを問うこともなく、お栄はただ信じてきた。
(あの夜、花様をあの男に渡そうとしてまでも、橙子の道を作りたかった……)
胸のどこかで、鋭い痛みが走った。
――では、自分の道は?
橙子が遠くへ行けば、そばにはいられなくなる。高麗屋の中でも、花の近くには、里に帰したお圭の縁者である今のお圭がついている。そして、また別の者も集うだろう。
(自分のいる場所は……どこにあるのか)
その痛みを押し隠すように、お栄は柱の陰で小さく手を合わせた。
――お方様。どうか、橙子様を。花お嬢様にも何事も起きぬように。
お栄にとってお方様はすでに信仰とも近い。祈りとも、呪いともつかぬ言葉が、唇の内側で溶ける。
結城家の奥向き。
橙子は控えの間で、ひとり膝を折っていた。すっかり夜になり、障子越しの庭は黒い塊のように沈んでいる。
静まり返った座敷の空気が、肌に触れた。
(“風は静かなところを流れる”――千歳様はそう仰った)
女中頭の千歳に教えられたのは、歩みと礼だけではない。言葉に出さずとも「奥向きの風は、乱さぬ者の上を通る」と、まなざしで告げられていた。
それでも、胸の奥は静まりきらない。
回廊で、成瀬様と並んで歩いていた若い男の姿が蘇る。薄墨の衣、深い眼差し。甘い花とも、潮ともつかぬ香りが、すれ違いざまにふっと漂った。
――「香の綻びを感じたことがあるか」
低く澄んだ声が、耳の奥に残っている。
橙子はそのとき、わずかに首を傾げて「いいえ」と答えた。香など、礼の場を飾るためのものとしか知らない。そう言うべき場だとも思った。
だが、答えた瞬間、胸元の香袋がほのかに温もり、甘い香が一息ぶんだけ浮かんでは消えた。
(あれは……何だったのだろう)
界之介と名乗ったその男の目は、笑っているのに、どこか冷たかった。けれど、香の問いを向けられたときだけ、その瞳の奥に、別の光が閃いた気がする。
(香りも風も、私には、ただの香りで、ただの風で……)
雲龍堂で見た青い羽織の背――名も知らぬ青年の“静かな光”を思い出し、橙子は小さく息を吐いた。
界之介の甘い香りと冷たい目。雲龍堂の青年の、香りのない温度。二つの像が胸の中で交錯し、目には見えない渦をつくる。
「静かでいなければ。けれど……」
唇から零れた言葉が、座敷の中に流れていった。
自分がどこへ向かおうとしているのか、橙子にはまだ分からない。ただ、結城家という風の流れの中で、自分の歩幅だけは乱さぬようにと、膝の上で指を組んだ。
浅汐川のほとりを、藤界之介が歩いていた。
懐から香木札を取り出す。七宝印が夜風を受け、ほのかに光を返した。
(香を持たぬ姉。――ならば、もう片方は)
界之介は目を閉じる。風蘭の香が、夜気に混じった。
姉は“静の器”。香はまだ血の底に眠っている。だが、器だけが先に形を成しているのなら、いずれそこに何かが注がれる。
(では、妹は――)
高麗屋の庭先で、一度だけ遠くから見た花の面差しが脳裏をかすめる。まだ直接言葉を交わしたことはない。それでも、渡の者の報せから、彼女の周りには何かあると分かっている。
「香を宿す者と、香を通す者。その二つが同じ家に生まれたとしたら――」
界之介の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
「掴む者が形を与える。それが理だ」
彼の足元で、川面の月が細かく砕ける。
風蘭の香は、どこかで金木犀と薫衣草の残り香に触れ、新しい流れを生み出していく。
東都の夜は静かに流れていた。
七つの円が交わり、まだ誰も知らぬ“香”の流れが、できはじめていた。
毎日、12時頃、更新中。
第一部は第25話で完結します。
完結翌日には、ブランが主人公の外伝を短編として投稿。
翌々日から第二部を、また毎日、更新していく予定です。




