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第19話 風を渡る音


 浅汐川を渡る朝の風は、夜気の名残をわずかに抱いていた。

 影向寺の竹林は、露を帯びた葉の先で光を折り、風の通り道をきらりと示す。

 橘一大は、香落庵の裏手から細い石畳をたどり、竹の影を縫うように歩いていた。


 香の乱れは、目には見えない。だが、風が教える。

 薫衣草――自分の結界の香が袖の内で淡く立ち、そこにときおり、金木犀の甘い気配が交じる。

 さらに、名のない、もっと柔らかな匂いがふっと触れては遠のく。


(これは……どこで?)


 耳の奥で、古い龍笛の音がかすかに鳴った気がした。

 音ではない。気配の形が、龍笛の管の奥に残った息のように胸の内で共鳴する。

 一大は歩みを止め、目を閉じた。

 風は東から西へ、川すじを撫でて寺へと上がり、また竹の間を抜けて町へ返っていく。

 その往き来のどこかに、ひとつだけ、あの香が混じっている。

 石段を下れば、静けさをたたえる「水月の間」がある。

 だが一大は扉に手をかけず、境内の端まで歩いて、竹の切れ目から浅汐川を見下ろした。

 霞ノ橋が小さく見える。昨夜、白い猫と軽口を交わした橋だ。


(押さえない。追わない。触れて、確かめる)

 自分で決めたやり方を、もう一度、胸の奥で言葉にして結び直す。

 風が、眠っていた記憶をそっと撫でた。



 ーーあれは、まだ背が欄干にとどくかどうかの頃だった。

 養子に出された盛井家では龍笛を吹くことを、いつからか禁じられていた。

 養父母にその音に交わると学びが揺らぐ、と言われたからだ。

 禁じられていても吹きたかった。音を出したかった。風に乗せたかった。

 風に音を渡したら、心の中のざわめきが少し鎮まる――そんな気がして。


 ある朝、一大は龍笛を袂に隠し、ひとり屋敷を抜けた。

 目当ては川すじの、だれも来ない小さな橋。霞ノ橋と名を知るのは、ずっとあとになる。


 橋の上で、白い光が揺れた。猫だった。

 淡く光る長い毛並み。欄干に立ち、すっと背中を伸ばし、珍しい金とうす青の瞳でこちらを見ている。


 その足もとから泣き声がする。 橋の陰に、女の子が丸くなって座り込んでいた。

 日差しの下で見ると、黒に近い茶の髪が淡く光り、肌は川霧のように白い。

 手に力を入れすぎたのか、手の甲の薄い皮に小さな切り傷が見える。


「どうしたの」

 声をかけると、女の子はさらに首をすくめる。

 言葉が出ないのだろう。

 白い猫が、するりと降りてきて、一大の足首を尾で軽く叩いた。――しゃべるな、という合図みたいに。

 一大は頷いて、龍笛を取り出し、竹の管をそっと温めた。

 父母の形見。母の指がふれていた管の冷たさが、手のひらに確かにあった。

 最初の音はうまく出なかった。朝の水と同じで、音も冷えていたのだ。

 息を整え、二度目。細い音が、橋の下へすべって落ち、川面でいったん撓んで、空へ返った。

 一大は音を追いかけず、ただ息を渡した。

 風が拾えばいい。拾えなければ、それまでのことだ。

 胸の奥で、何かがほどけたような気がした。


 女の子の泣き声が、だんだんと小さくなる。

 白い猫が、欄干の上から身を折って、音の行方を見送っていた。

 次の音を置いたとき、女の子が顔を上げた。

 涙の跡の向こうで、瞳が僕を映した。


「……優しい風の音みたい」

 一言だけだった。けれど、一大の胸の内で、何かがほどけて、形を変えた。

 音は音のまま、やわらかく橋の両側に広がっていく。風が頷いた、と思った。


 花が泣きやんだころ、風の中に淡い香りがひろがった。

 一大が胸元にかけていた布袋がほころんだのか、何かがこぼれ落ちる。

 それは、父母にもらった守り袋に入っていた薫衣草だった。


 枯れていたはずの花が土に触れ、うす青の小さな穂が、ぽつ、ぽつ、と現れる。

 草の隙間から顔をのぞかせるように。


「きれい……」

 花が呟いた。一大はただ見つめていた。

 胸の奥に、なにか温かいものがひらく。

 風の音が龍笛のように響き、薫衣草の香りが二人のまわりを包んだ。


 後に学びで花の名を知る前に、香りのほうが先に一大の鼻先へ届いた。

 そして、煌めく日向のようなやわらかな香り。深い秋に流れるようなあたたかい香り。


 泣き腫らした目が、笑いに似た形を作る。

「痛いの、ちょっと減った」

 女の子がそう言って、手を見せた。

 小さな切り傷の赤さが、薄くなっているようなーー。

 白い猫が、欄干の上で短く鳴いた。――やるじゃない。そんなふうに聞こえた。


 一大は龍笛を下ろし、女の子にたずねる。

「どこから来たの」

 女の子は、答えようとして――言葉の扉の鍵をなくしたみたいに、眉を(ひそ)めた。

 目の奥に、遠い空の光が一瞬、きらりと走った気がした。

 白い猫が、二人の間をふわりと横切る。

 いまは、それ以上聞くな――風がそう言うので、一大は従った。

 代わりに、袂の紙包みを取り出す。干し柿の切れ端。朝の抜け出すときのお供だった。

 女の子は遠慮がちに受け取り、ひとかけら齧る。甘さが舌に広がったのだろう、夢中になっていた。


 どれほどの時間がたったのか、よく覚えていない。

 龍笛の音は三度か四度、風に渡し、女の子は泣くのをやめて、風の中の音を目で追っていた。


「また、吹いて」

 別れ際、女の子はそう言った。

 名を問う前に、盛井家の者の声が遠くでして、一大は龍笛を包み、橋から離れた。

 振り返ると、白い猫だけが欄干に残り、金とうす青の瞳でこちらを見ていた。

 ――忘れるなよ。そんな目だった。



 竹林を渡る風が、今、同じ匂いを運んでいる。

 ――それは、あの朝の少女の記憶と、確かに重なっていた。

 薫衣草――自分の香は、守るために育ててきた。

 けれど、あの朝、花が咲いたのは、自分の意志ではない。


 誰かの涙と、風の機嫌と、あの猫の沈黙が重なって、偶然に見えた必然が起きた。


(守るだけでは、風はとどまらない)

 昨夜の白い影のせりふが、のどの奥に残る。

 からかわれた、と思っていた言葉が、ゆっくりと骨まで沁みてくる。


 浅汐川から、魚の匂いがかすかに上がった。

 濡れた縄、炭の名残、遠くで聞こえる太鼓。町が起きる。

 川面の光がほどけ、霞ノ橋の影が濃くなっていく。


 一大は橋へ向かって数歩進み、立ち止まった。

 袖の内で、薫衣草の香が浅くなる。意図して、力を弱めたのだ。

 押さえない。追わない。――触れて、確かめる。


 金木犀が、一瞬だけ濃く香った。

 風の縁に、甘さがふっと乗って、すぐに消える。

(近くにいる)

 言葉にするまでもなく、胸の奥がそう頷いた。

 あの朝の瞳の光。やわらかい声。白い猫の横顔。

 ぜんぶが、風の中でひとつの形を取りはじめる。


 龍笛を出すか、迷った。

 音は遠くへ届く。今ここで吹けば、誰かの耳を呼ぶだろう。

 しかし、今日の風は音を望んでいない。

 そう判断して、龍笛に触れた指をそっと離した。


 ーー焦るな。自分に言い聞かせる。

 香落庵の扁額〈淵深莫測〉を思い出す。

 測りにかけようとすれば沈むものがある。

 風を掴もうとすれば逃げることも知っている。

 けれど、風がこちらへ寄る時機は、必ずある。

「また会える気がする」

 自分でも驚くくらい素直な声が、竹の影に落ちた。

 答えの代わりに、川面が細かく波立ち、小舟の舳先がきしむ音が渡ってくる。

 市場の方角から、威勢のよい掛け声が低く響いた。


 朝が完全に開く前の、町の最初の息。

 その息に、薫衣草と、金木犀と、――名もなき香が重なった。

 柔らかく、けれど確かに、二つの世界を繋ぐように。


 一大は歩き出した。

 京橋へ向かう路地は、夜の湿りを吸っていた。

 足元の土がしっとりと沈み、まだ灯っている灯りが水たまりに細い帯を落とす。

 香を追うのではなく、風に任せる。


 足取りは軽い。胸の奥に、昔の橋の音がごく微かに鳴っている。

 ――優しい風の音みたい。

 あのときの言葉が、いまようやく確かな場所を得たように、一大の胸の中に息づいていた。

毎日、12時頃、更新中。

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