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第18話 風の記憶


 屋敷は、どこか祝いの朝のようだった。

 橙子の奉公支度が進むにつれ、帳場のそろばんは小気味よく鳴り、奥では母が女中たちに矢継ぎ早に指示を出す。

 おひさは埃の立たぬように家中を掃除し、おみつは紅い紐を抱えて走り、お澄は静かな目で全体の流れを整えている。

 その賑わいの輪の外に、自分だけが立っている――そう感じていた。


 姉の横顔は晴れやかで、まぶしい。私も嬉しくないわけではない。けれど胸の底に、穴が開いたような空白が、昨夜からずっと埋まらない。

 「花、針箱を」

 母に声を掛けられ、思わず背筋を伸ばす。

 「はい」

 差し出すと、母は受け取りながらも花の顔を見ず、視線は橙子の衣紋へ落ちていた。

 お栄が「帯は銀鼠がよろしゅうございます」と静かに添え、橙子はうなずく。


 機嫌のよい囁きと、微かな緊張の匂い。家全体がひとつの方向を向いている朝。

 ――息が、しづらい。

 そう思ったとき、ふと、あの浪人風の青年のことがよぎった。

 影向寺の場所を尋ねてきた人。

 「どうして、あの人は寺を?」

 答えは出ない。けれど、胸苦しさを抱えたまま立っているのがつらくて、私はそっと縁側に出た。


 お圭が気づいたように目だけで問う。私は小さくうなづいて、草履をつっかける。

 「すぐ戻ります」

 誰にともなくそう告げて、門を出た。


 浅汐川へ出る道には川風がのぼり、柳の葉先がさらさらと鳴る。

 白い霞が土手のあたりに薄く漂い、通りの端では魚屋が桶を洗っている。

 銀座の通りはまだ店先の戸が半ば、眠たげに閉じられていた。

 歩きながら、花はふと立ち止まる。

 見覚えがある、と思った。

 どこか、既に歩いたことのある景色。

 石垣の欠けた場所、ひしゃげた雨樋、角を曲がるときの風の向き。


 ――神隠しの夜のあと、家に戻る途中に通った道だ。

 胸の奥で、薄い膜がぱりっと鳴って剥がれる。

 その直後、風がひとつ抜けていった。

 あの青い花に似た、柔らかな香りがかすかに混じっている。名は知らない。けれど、その香は、音を連れてくる。

 (……優しい風の音)

 耳のどこかで、かつての自分が呟いた気がした。


 私は土手に下り、川面を見た。水は浅く、光が細かく砕けている。

 その光の粉が、まぶたの裏へ跳ね返り――景色が、ゆるやかに別の朝へ繋がった。


 ――あれはいつだったのだろう。

 見知らぬ町の外れを、泣きながら歩いていた。 疲れ切って、橋の袂に座り込んでしまった。

 言葉も場所も分からない。胸の中には、きらめく粒のようなものがちらついて、痛いほど懐かしいのに、誰のものか掴めなかった。

 足もとに白い影が寄り添っていた。猫。ふわりとした、月みたいな毛並み。

 けれど、その時の私に声は届かず、ただ温かさだけが心細さを少し和らげてくれていた。


 「泣いてるの?」

 呼びかける声がして、顔を上げた。

 そこに、ひとりの少年がいた。年は自分よりは少し上のようだった。

 袂に何かを抱え、少し不器用に、けれどまっすぐに立っていた。


 少年は、私の少し先、川に向いた石に腰を下ろした。

 「ここで吹くと、風が変わるんだ」

 そう言って、抱えていたものーー飾りのついた棒のようなものーーを口もとへ運ぶ。

 最初のひと息は、音にならないほど小さかった。

 二つめの息で、音が生まれた。


 真っ直ぐで、冷たすぎない風の筋が、花の頬を撫でる。

 柳の葉が音に沿ってさざめき、濁った水の表がわずかに静まる。

 花の喉の奥にひっかかっていたものが、音の形にほどけていった。


 「……優しい風の音みたい」

 言葉は零れるように落ちた。自分の声が、自分のものではないように感じた。

 少年は少しだけ笑った。

 「この笛は龍笛。父と母の形見なんだ。これを吹くと、寂しいのが遠くへいくんだ」

 話をしてくれている少年の目にも寂しさが見え隠れしているのに、私を気にかけてくれていた。

 そんなことを感じて、私が泣き止んだ頃、足下からは淡く青い穂が土から顔を出した。一本、また一本。

 まるで土が思い出したように、花の穂は一斉にそこへ生まれ出てきた。


 私は息を呑み、指先で触れた。指の温度に応えるように、小さな香りが立つ。知らないのに懐かしい、落ち着く匂い。

 少年が龍笛を吹くたび、穂はふるえ、香は深くなる。

 「すごいね」

 「いい風は拍子が調う。そういう風は守るために吹くって、教わった」

 少年は照れくさそうに目を伏せた。


 その目の奥に、光が映っていた。音の光、風の光、花の光。

 名前は知らない。けれど、いつかどこかで、きっとまた会う――

 そんな予感だけが、幼い胸に静かに落ちた。


 白い猫が、少年の足首に尾を巻きつけた。

 少年は驚いて目を丸くし、すぐに笑った。

 龍笛の音に合わせて、猫の喉の奥で小さく音が鳴る。

 それは、今の私が知っている“ブラン”の喉の音と、たしかに同じだった。


 風が止む。私は、浅汐川の土手に立つ自分に戻っていた。

 朝の光は少し高くなり、船大工の槌の音が遠くで響く。

 足もとの草むらに、あの音を思い出す前はなかった小さな青い穂が三つ。

 きっと誰かが植えたものではない。風が問いかけるように穂をを揺らしていた。


 花はしゃがみ込み、そっと顔を近づける。

 香は弱い。けれど確かに、その芯に、あのときの“風の音”が残っていた。

 指先で穂を撫でると、胸の奥で何かがほどけ、同時にきゅっと締め付けられる。

 (あの男の子は――)

 たどりつく前に、記憶は霧のふちでほどける。


 名は知らない。顔だけが、水面の光の粒の中に散ってしまう。

 ただ、細い男の子の影と、優しい風の筋と淡く青い花の香りだけが、いまも胸に残っている。

 そして、花が思うと、そこに顕れる。


 土手の上の道を、天秤棒の音が通りすぎた。

 振り向くと、魚売りの男が花に会釈をしてゆく。

 その背に混じって、ごく微かに別の香が風に紛れた――夜に開く蘭の甘さ。

 一瞬、胸がざらりとして、すぐに消えた。

 (……誰?)

 探そうとするが、香は町のざわめきに溶けていった。


 花は立ち上がり、浅く息を吐いた。二つの香が、短いあいだ重なった気がした。

 思い出の中のうす青と、現の庭に咲く金色の粒。

 重ねてしまえば嘘になる。けれど、並べて眺めるなら、たしかにどちらもある。

 「……帰ろう」

 言葉にしてみると、足は自然に家の方角へ向いた。


 玄関先まで戻ると、内から人の気配が波のように押し寄せてくる。

 廊下の先で、母のお咲が奉公先への手土産を手にしている。私に気づいて目を細めた。

 その目には責める色も、憐れむ色もない。ただ、ひんやりとしていた。

 「どこへ行っていたの」

 「川まで」

 「皆が忙しくしているのに」

 それだけ言って、母は視線を戻す。


 橙子の髪は美しく結い上げられ、銀鼠の帯が静かに光っていた。

 お栄の指先が帯の端に触れて止まり、父の太い声が帳場から響く。

 花は一歩引いて、その光景を見ていた。

 手の中には、さっき摘んだ小さな青い穂が一本。それを袂にしまう。

 香は薄く、ほとんど分からない。でも、そこに“ある”ことだけは、たしかに分かる。


 ――風の音は、まだ続いている。

 ――あの朝から、ずっと。


 ふいに、廊下の柱陰から白い影がのぞいた。

 ブランだ。昼の顔。花と目が合うと、何事もなかったようにひとつ瞬き、ゆっくりと踵を返す。

 (分かってる、という合図みたい)

 花は思わず笑ってしまう。胸の穴に、薄い紙が一枚、そっと置かれた気がした。


 花の耳の奥では、さっきの龍笛の音が細く鳴り、風がそれを運んでいた。

 屋敷の外で朝の光がほどけ、浅汐川の方角へ、どこまでも澄んで流れてゆく。

 廊下の端で、ブランがもう一度だけこちらを見た。夜の顔で笑う子どものように、片方の瞳をいたずらっぽく細めて。

 その仕草が、花には心強かった。


 姉の支度は進む。家は浮き立つ。

 それでも――花の中には、確かに残っていた。夢ではない。

 確かな風の音と、指先に触れる小さな青い穂。

 それは、これから何かが始まる前ぶれのようで、怖くて、そして少し嬉しかった。

毎日、12時頃、更新中。

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