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第17話 ブランと一大


 夜の浅汐川。川の中ほどに架かる小さな橋――霞ノ橋(かすみのはし)。水面には灯が滲み、橋の下を渡る風が薫衣草の香をわずかに運んでいた。

 東都の喧噪と寺の静寂のあいだにあるこの橋は、人とこととの境をゆるやかに結ぶ場所だった。


 橘一大は橋の上に立ち、流れを見下ろしていた。昼間の会合で交わされた言葉が、まだ胸に残っている。

 「香を掴む者は滅びる」――鴨井の忠告が耳の奥にこびりついて離れない。だが、それよりも強く残るのは、あの夜感じた金木犀の気配。柔らかくも力強く、風を変えるほどの気を帯びていた。

 その香の主を思うたび、胸の奥に微かなざわめきが生まれる。


 橋のたもとを白い影が横切り、欄干に跳びのった。ひらりと、雪のように。尾をふわりと立てた猫――ブラン。金と青の瞳が灯にきらめき、風にひげを震わせていた。


 「……お前、そんなところで風を嗅ぐとは、趣味がいいな」

 「君こそ、人の香を嗅ぐなんて、ずいぶん趣味が悪い」

 「猫が喋る夜とは、また上出来だ」

 「猫が喋る夜は、たいてい人の方がうるさいんだよ、ラベンダーのひと」


 「ラベンダー?」

 「薫衣草のことさ。向こうではそう言ってた。風の中でも分かる。君の香りはまっすぐで、堅い……」

 「誉め言葉ではなさそうだ」

 「まぁ、悪くはないよ。でも、遊びが足りない」

 ブランは尾を揺らし、灯の反射を瞳に映す。

 「君の香、風を通さない。守りに使いすぎだ」

 「守るための香だ」

 「風は守られるより、信じられるほうが好きだよ」


 一大は思わず笑った。

 「理屈っぽい猫だな」

 「理屈を言ってるのは君の方さ」

 ブランは欄干を歩き、夜風に背を押された。

 「でも、あの娘は君の香を気に入ると思う。あの子の香、君のと似てるんだ」

 「似ている?」

 「半分はこっち、半分は向こう。……まだ、どっちにもなりきれない」

 一大は眉を寄せた。

 「……半分?」

 「そう。風が分かってる。だから君は、あの子のそばに立つと、少し戸惑うんだ」

 ブランは前足で一大の袂を軽く叩き、にやりと笑う。

 「でもね、あの子――撫で方が上手いんだ」

 「撫で方?」

 「そう。猫でも人でも。触れる時、力が抜けてる。見てるだけで眠くなる」

 一大は短く息を呑んだ。夜風が二人の間を渡り、薫衣草と金木犀の香が一瞬交わった。

 「君は、彼女を守っているのか?」

 「守る? ううん。見ているだけさ」


 ブランは人間なら肩をすくめるような気配を見せた。欄干の上で尻尾を揺らしながら、じっと一大を見上げる。

 「君は、彼女を試すの?」

 一大は少しだけ間を置き、静かに首を振った。

 「試さない。押さない。追わない。……ただ、香に触れて確かめる」

 ブランの瞳がかすかに細まる。

 「ふうん、それ、悪くないね。風も、そうされるのが好きだよ」

 一大は口の端をわずかに上げた。

 「風に好かれるなら、少しは救いがある」

 「うぬぼれないこと。気まぐれなのが風だから」


 ブランは笑い、欄干から軽く跳び降りた。

 「なら、風に任せることも覚えな。風は理屈で縛れない」

 「忠告、ありがとう」

 「忠告じゃない。あの子を泣かせたら――ガブリっていくよ」

 「噛むのか」

 「全力でね」

 一大が声を出して笑う。ブランは欄干の端まで歩き、振り返った。

 「君、面白いね。……近いうちに、またあの子に会うよ」

 一大は眉を上げた。

 「風の知らせか?」

 「さあ? そんなものかな。魚の匂いがする場所みたい」

 ブランは尻尾を一振りし、闇へ溶けた。

 一大は苦笑して、その残り香を吸い込む。

 「――風は、気まぐれで賢い」


 薫衣草の香が淡くほどけ、橋の上を静かに渡っていった。

毎日、12時頃、更新中。

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