第16話 風蘭の香
朝霧は、海の気を含んでいた。
浅汐川から上がる白い霞が町を包み、銀座の通りはまだ店の戸が開いていない。
魚屋が桶を運び、菓子屋の軒先で甘い香りがのぼり始める。
静けさの中を、白塗りの駕籠が音もなく進んでいった。
駕籠の簾の奥に、黒衣の男がいた。頬にかかる髪は深い墨色、瞳は鈍く光る鉄のよう。
衣の内から漂う香りは、淡い甘さを帯びた――風蘭。南の島々から運ばれる、夜にだけ咲く蘭の香である。
通りの人々が思わず道をあけた。
志摩屋の主人・政蔵が暖簾を上げ、駕籠を迎える。
「お待ちしておりました、結城家のお客人様――」
声をかけながらも、目の奥に微かな警戒を宿す。金の匂いを嗅ぎ分けることにかけては東都でも指折りの男だが、“香”という言葉だけは、どこか恐れているようだった。
藤界之介が、駕籠の中からゆっくりと姿を現した。
二十歳に満たぬ若さでありながら、老練の武士のような静けさをまとっている。
「香の町は変わらぬな。風がよく回る」
その声は低く穏やかで、どこか遠くの海鳴りを思わせた。
政蔵はうなずき、奥の座敷へ案内する。
奥座敷の障子が閉じられると、界之介はゆっくりと懐から香匙を取り出した。
匙の先には、淡い銀粉のような香が付いている。
「風が乱れている」
政蔵が息を呑む。「風……でございますか」
「香は風を宿し、風は香を映す。
市中に漂うこの甘さ――自然ではない。
誰かが“渡り香”を呼び起こした」
「まさか……」
「いや、あり得る。世は動くとき、まず香が乱れる。香が乱れれば人も乱れ、人が乱れれば世が変わる。
――ゆえに、香を掌に載せる者が、世を掴むのだ」
政蔵には言葉の意味が半ばも届かない。
ただ、若い客人の放つ気配に、ひそかな寒気を覚えていた。
界之介は盃を手に取り、酒を口に含んで言った。
「結城家の奥方に伝えてほしい。
明日、上屋敷に伺う。奉公に出る娘のことを――確かめたい」
「は、はい……」
政蔵が頭を下げると、界之介は何事もなかったように微笑んだ。その笑みは薄く、風のように冷ややかで美しかった。
けれど、その奥にかすかな寂しさがあったことを、誰も気づかなかった。
影向寺の地下「水月の間」では、紫藤玄達が一人、書を開いていた。香が微かに揺れ、灯が揺らめく。
そこへ、界之介が音もなく現れる。
「お久しゅうございます、権僧正」
紫藤は顔を上げ、眼差しを細めた。
「南方の風をまとって帰るとは。……随分と遠くへ行っていたようだな」
「風に従ったまで。
香は流れを求めます。流れぬ香は、ただ腐るだけ」
「お前の父上を思い出すな。隠世門を捨て、潮を追って出奔した』
界之介の表情が、僅かに陰を帯びた。
「父は香を恐れたのです。
香は人を縛ると――そう言って海へ出た。けれど、縛られずに形を成す香など、どこにもない」
紫藤は筆を置き、卓上の香を見つめる。
「形を求める者ほど、香に試される。
お前が得ようとするものも、やがてお前を試すだろう」
界之介は微笑んだ。
「試されるなら、受けてみたい。
この香を“掴める”のは、理ではなく意。――そのことを証明したいのです」
その言葉に、紫藤は声を立てずに笑った。
「上はお前を見ている。風を読む目を」
界之介は深く頭を下げた。
その背に、風蘭の香がふわりと流れる。清らかで、しかしどこか艶のある香だった。
翌日。 結城家の上屋敷――表向きの客座敷。
藤界之介は静かに座していた。
迎えに現れたのは、用人の成瀬忠則。
五十を越えた穏やかな面立ちだが、その眼差しは長年の奉公で磨かれた鋭さを宿す。
「奉公に上がる娘御の件、志摩屋を通じて伺いました」
成瀬の声は柔らかでありながら、探るような調子を含んでいた。
界之介は盃を傾け、微笑んだ。
「風が乱れておるときに、新たな香が立つのは吉兆。 しかし、新たな香が立つとき、世が揺らぐこともある。
その香を少し、確かめさせていただきたく」
界之介の言葉には、穏やかさの裏に不思議な威があった。
「香……でございますか」
成瀬は目を細め、静かに問う。
界之介は淡々と続けた。
「香は血と心の合わさるところに生まれる。
血を繋ぐ者と、想いを分かつ者――その二つが一つになったとき、 香は真に流れを得る。……姉妹とは、まことに興味深い」
成瀬のまなざしが、わずかに揺れた。
「……奉公の件、奥向きともよく相談のうえ、お返事を致します」
界之介は軽く頭を下げた。
「では、その折に。風の流れに、乱れなきことを」
その微笑の奥には、確信にも似た光があった。
香落庵の方角に向かい、界之介は文をしたためていた。
一筆――「香を掌に」。
風蘭の香が紙に移り、淡い痕跡を残す。
夜風が吹き、竹林がざわめいた。界之介は庵の門の上を見上げた。
〈淵深莫測〉。
――淵のように深く、測り知ること能わず。
香落庵の教えであり、門の戒めでもある。
一瞬、風が止み、竹の影が静まった。
界之介はその言葉を胸の内で反芻する。
「測らねば、香は形を持たぬ」
風蘭の香が、まるで意志を帯びたように風に乗り、浅汐川へと流れていく。
その先に、金と青の光が遠くかすかに揺れていた。
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