表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/34

第16話 風蘭の香


 朝霧は、海の気を含んでいた。

 浅汐川から上がる白い霞が町を包み、銀座の通りはまだ店の戸が開いていない。

 魚屋が桶を運び、菓子屋の軒先で甘い香りがのぼり始める。


 静けさの中を、白塗りの駕籠が音もなく進んでいった。

 駕籠の簾の奥に、黒衣の男がいた。頬にかかる髪は深い墨色、瞳は鈍く光る鉄のよう。

 衣の内から漂う香りは、淡い甘さを帯びた――風蘭。南の島々から運ばれる、夜にだけ咲く蘭の香である。


 通りの人々が思わず道をあけた。

 志摩屋の主人・政蔵まさぞうが暖簾を上げ、駕籠を迎える。

 「お待ちしておりました、結城家のお客人様――」

 声をかけながらも、目の奥に微かな警戒を宿す。金の匂いを嗅ぎ分けることにかけては東都でも指折りの男だが、“香”という言葉だけは、どこか恐れているようだった。


 ふじ界之介かいのすけが、駕籠の中からゆっくりと姿を現した。

 二十歳に満たぬ若さでありながら、老練の武士のような静けさをまとっている。

 「香の町は変わらぬな。風がよく回る」

 その声は低く穏やかで、どこか遠くの海鳴りを思わせた。

 政蔵はうなずき、奥の座敷へ案内する。

 奥座敷の障子が閉じられると、界之介はゆっくりと懐から香匙を取り出した。

 匙の先には、淡い銀粉のような香が付いている。


 「風が乱れている」

 政蔵が息を呑む。「風……でございますか」

 「香は風を宿し、風は香を映す。

 市中に漂うこの甘さ――自然ではない。

 誰かが“渡り香”を呼び起こした」

 「まさか……」

 「いや、あり得る。世は動くとき、まず香が乱れる。香が乱れれば人も乱れ、人が乱れれば世が変わる。

 ――ゆえに、香を掌に載せる者が、世を掴むのだ」

 政蔵には言葉の意味が半ばも届かない。

 ただ、若い客人の放つ気配に、ひそかな寒気を覚えていた。


 界之介は盃を手に取り、酒を口に含んで言った。

 「結城家の奥方に伝えてほしい。

 明日、上屋敷に伺う。奉公に出る娘のことを――確かめたい」

 「は、はい……」

 政蔵が頭を下げると、界之介は何事もなかったように微笑んだ。その笑みは薄く、風のように冷ややかで美しかった。

 けれど、その奥にかすかな寂しさがあったことを、誰も気づかなかった。



 影向寺の地下「水月の間」では、紫藤玄達が一人、書を開いていた。香が微かに揺れ、灯が揺らめく。

 そこへ、界之介が音もなく現れる。

 「お久しゅうございます、権僧正」

 紫藤は顔を上げ、眼差しを細めた。

 「南方の風をまとって帰るとは。……随分と遠くへ行っていたようだな」

 「風に従ったまで。

 香は流れを求めます。流れぬ香は、ただ腐るだけ」

 「お前の父上を思い出すな。隠世門を捨て、潮を追って出奔した』

 界之介の表情が、僅かに陰を帯びた。

 「父は香を恐れたのです。

 香は人を縛ると――そう言って海へ出た。けれど、縛られずに形を成す香など、どこにもない」

 紫藤は筆を置き、卓上の香を見つめる。

 「形を求める者ほど、香に試される。

 お前が得ようとするものも、やがてお前を試すだろう」


 界之介は微笑んだ。

 「試されるなら、受けてみたい。

 この香を“掴める”のは、理ではなく意。――そのことを証明したいのです」

 その言葉に、紫藤は声を立てずに笑った。

 「上はお前を見ている。風を読む目を」

 界之介は深く頭を下げた。

 その背に、風蘭の香がふわりと流れる。清らかで、しかしどこか艶のある香だった。




 翌日。 結城家の上屋敷――表向きの客座敷。

 藤界之介は静かに座していた。

 迎えに現れたのは、用人の成瀬忠則。

 五十を越えた穏やかな面立ちだが、その眼差しは長年の奉公で磨かれた鋭さを宿す。


「奉公に上がる娘御の件、志摩屋を通じて伺いました」

 成瀬の声は柔らかでありながら、探るような調子を含んでいた。

 界之介は盃を傾け、微笑んだ。

「風が乱れておるときに、新たな香が立つのは吉兆。 しかし、新たな香が立つとき、世が揺らぐこともある。

 その香を少し、確かめさせていただきたく」

 界之介の言葉には、穏やかさの裏に不思議な威があった。


 「香……でございますか」

 成瀬は目を細め、静かに問う。

 界之介は淡々と続けた。

「香は血と心の合わさるところに生まれる。

 血を繋ぐ者と、想いを分かつ者――その二つが一つになったとき、 香は真に流れを得る。……姉妹とは、まことに興味深い」


 成瀬のまなざしが、わずかに揺れた。

 「……奉公の件、奥向きともよく相談のうえ、お返事を致します」

 界之介は軽く頭を下げた。

「では、その折に。風の流れに、乱れなきことを」

 その微笑の奥には、確信にも似た光があった。


 

 香落庵の方角に向かい、界之介は文をしたためていた。

 一筆――「香を掌に」。

 風蘭の香が紙に移り、淡い痕跡を残す。

 夜風が吹き、竹林がざわめいた。界之介は庵の門の上を見上げた。

 〈淵深莫測〉。

 ――淵のように深く、測り知ること能わず。

 香落庵の教えであり、門の戒めでもある。


 一瞬、風が止み、竹の影が静まった。

 界之介はその言葉を胸の内で反芻する。

 「測らねば、香は形を持たぬ」

 風蘭の香が、まるで意志を帯びたように風に乗り、浅汐川へと流れていく。

 その先に、金と青の光が遠くかすかに揺れていた。

毎日、12時頃、更新中。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ