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第15話 理念派と実利派


 影向寺の境内は、夜の霧に沈んでいた。

 浅汐川の流れが遠くでかすかに響き、竹林の葉を渡る風が油灯を揺らしている。

 その奥に、僧たちが詰める御用寮がある。

 地下へ続く石段を下れば、円形の会合室――「水月の間」がひそやかに息づいていた。


 黒漆の壁。灯をわずかに抑えた油皿。

 その中心の石卓を囲むのは、隠世門の要となる者たち。

 大僧都・鴨井覚信、権僧正・紫藤玄達、律師・日野玄文、渡の者・烏丸宗至。

 末席には、若き理念派の橘一大が控えていた。


「――香の乱れが続いております」

 沈黙を破ったのは鴨井だった。


 穏やかな声に、微かな重みが宿る。


「市中にて、高麗屋を中心に噂が広まっております。

 花が咲き、病が癒え、災いが遠のく。――だが、それを誰も説明できぬ。

 香の流れが乱れている証と見てよいでしょう」


 鴨井は筆先を見つめながら続けた。

「……古き記録には、これに似た香の現れを“馨の方々(かおるのかたがた)”と呼ぶ例がございます。

 香が人の世と異の世のあわいを渡るとき、その流れが生まれる、と。市井にも伝承の類として残っておるようで」


 紫藤が口端に笑みを浮かべた。

「乱れ、か……それを福と呼ぶ者もおりましょうな。

 だが、福が度を越せば世の理を壊す。放ってはおけませぬ」


 宗至が報告書を静かに置く。

「香は確かに金木犀に似ております。

 しかし、それとは異なる柔らかい気配。

 触れればほどけ、追えば遠ざかる。――まるで、渡り香のように」


 灯の揺らぎが、壁を薄く照らした。

 そのとき、日野玄文が筆を止める。

「古き記録に“渡り香”の記述があります。

 香りをまとい、風と共に異界より現れる力。

 名を伝えず、姿を持たぬ――」


 紫藤が手を上げて遮った。

「……つまり、放ってはおけぬということだな。

 お館様も同じお考えであろう。

 理念派の理想は尊い。だが、理想だけでは香は収まらぬ」

 その声には、静かな圧があった。


 鴨井が目を伏せ、一大が息を飲む。

「権僧正。――もし香を掌に載せようとする者が現れたら?」


 紫藤は一瞬、灯を見つめた。


「すでに、動いておる。」


 卓の上を風がかすめた。

 誰かが、地上から扉を開けたのだろう。

 その隙間から、一筋の香が滑り込む。

 花ではなく、風の香――夜にだけ咲く蘭の匂い。


 鴨井が眉をひそめる。

「……風蘭。誰の手か」

 宗至が低く答えた。

「南方より戻った客人にして、お館様に仕える者。

 名はまだ伏せられておりますが、影は――風蘭の香をまとっております」


 会合の空気がひとつ、深く沈む。

 紫藤がわずかに目を細めた。

「香は流れを持つ。流れは形を求める。

 その形を与えるのが、香を知る者の務めであろう」


 鴨井は首を振る。

「香は人の心と同じです。掴めば散り、守れば宿る。

 掌に載せようとすれば、たちまち零れ落ちる」


 紫藤がゆっくりと笑んだ。

「掴むか、守るか――結局は同じこと。

 いずれにせよ、香を見失えば世が乱れる。

 今夜のことは、香落庵に上げておけ」


 ――香をめぐる議論の果てに、誰が何を守ろうとしているのか。

 一大にはまだ、その答えが見えなかった。

 香は理ではなく、呼吸のように流れている――ただ、それだけは確かだった。


 宗至が「は」と答え、筆を巻き取った。

 灯が一つずつ落とされ、会合は静かに終わった。


 最後に残った一大は、香の残り香に鼻を寄せた。

 香を炊いてはいない。しかし、風蘭の甘香が複雑な余韻を残していた。


 一大は一人、竹林の道を歩いた。

 庵へ向かう道は闇に沈み、ただ灯ひとつ。

 竹の影の向こうに、香落庵の瓦がかすかに光っている。


 庵の門の上には〈淵深莫測〉の文字。

 淵のように深く、測り知ること能わず。

 香落庵の教えであり、門の戒めでもある。


(測ろうとすれば、香は沈む。掴もうとすれば、風は逃げる。だが――守ることはできる)


 一大は目を閉じ、静かに息を吐いた。

 胸の奥に柔らかな香が広がる。沈香でも白檀でもない。

 あの夜、市中で感じた、どこか温かな香り――金木犀。


 竹の間を白い影がすり抜けた。猫だった。

 尾をひと振りして闇に消える。

 風が逆巻き、川面がかすかに光を返す。


 ――金と青。

 二つの光が遠く重なる。


「香が風を変えるなら、風もまた香を試す」

 一大はそう呟き、庵を後にした。


 

 浅汐川の流れは、夜明け前の淡い光を映していた。

毎日、12時頃、更新中。

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