第13話 路地のひと枝
午下がりの高麗屋は、いつもの規則正しさをたたえていた。帳場では算盤が乾いた音を刻み、奥では女中頭のお澄が手短に指図をしている。
どの音も乱れはない――なのに、胸の中だけがふくらみ過ぎた紙風船のように、少し息苦しい。
(……外の風を吸いたい)
「お圭、先に戻っていてもらえる?」
店先の用向きの帰り、私はわざと何でもない調子で言った。
「はい、花嬢様。お気をつけてくださいましね」
お圭は素直に頭を下げ、角を曲がって見えなくなる。
私は反対側へ、通りから一本、細い路地に入った。路地は、昼の音がすぐ背後で薄まる場所だ。塀の影に小さな祠、その脇に誰のものとも知れない鉢植えが並んでいる。
萩の小枝、やせた撫子、色の抜けた朝顔の鉢――どれも、少しばかり水と声を欲しがっている。
しゃがみ込むと、竹樋の滴が一粒、手の甲に落ちた。その冷たさが胸の詰まりをほどき、私は思わず指で葉先の埃を払う。
そして、掌にそっと息を吹きかける。何の作法でもない、昔からの癖。
その瞬間、祠の前をかすかな香りが撫でた。
――金木犀?
けれど、すぐにそれは遠のき、代わりに乾いた青い花の気配が淡く重なる。
私の指先で、撫子の蕾が震え、ふっとほどけた。薄い花びらが夏の名残りを思い出すように、音もなく開く。萩の細い茎の先にも、遅れた白がひとつ、灯るように咲いた。
「……あ、咲いた」
自分の声に、自分で驚く。
不意に、塀の上から短い鳴き声。振り仰ぐと、白い猫――ブランが、昼の姫君の顔でこちらを見下ろしていた。
長い尾を一度だけ揺らし、当然でしょう とでも言いたげに目を細める。
「あなた、いつから……」
ブランは応えず、すっと視線を路地の入口へ滑らせた。
「そこの祠、いつ見ても水が清い」
声に振り向く。
濃藍の羽織に藍の袴の青年が、路地の明るみを半分だけ背にして立っていた。
どこかで会ったような……十五夜の夜……。昼の光の中のその人は、あの夜よりも柔らかく見えた。
「……お祈りの邪魔をしてしまいましたか」
「いえ。ただ、少し、道草を」
私が身を引くと、彼は祠に目礼してから、鉢の花へ視線を落とした。撫子の新しい花びらに、薄い影が落ちる。
「さっきは、咲いていませんでしたね」
心臓が一拍、強く跳ねる。
「風が、よかったのかしら」
「なるほど」
彼はそれ以上、何も問わない。
代わりに、袖口から布を取り出し、祠の傍らにこぼれた水をていねいに拭った。布の動きと一緒に、ふっと乾いた青い花の香りが漂う。
(――また、この香り)
路地の入り口を、小さな男の子が駆け抜けて転んだ。
「いたっ……」
膝を擦りむいて、泣きそうな顔。私は思わず立ち上がりかけ、けれど足が止まる。
――知らない子に、何かしていいの?
塀の陰で衣の端がかすかに動いた。
お圭だ。人波の影にまぎれて、こちらを見守っている。目が合うと、彼女はごく小さくうなずいた。
私は跪き、男の子の膝に息を吹きかける。
「すぐ、よくなるから」
手を触れてはいない。けれど、子どもの呼吸がすっと整い、泣き声がためらいに変わる。
撫でていた撫子が、風もないのに微かに揺れた。
――金木犀が、遠くでいちどだけ囁く。
男の子は鼻をすすり、「ありがとう」と照れくさそうに立ち上がると、走っていった。
「……器を止めるだけでは、ないのですね」
青年が低く言った。
私は返す言葉を失い、ただ会釈する。
彼は私の驚きを気にすることなく、祠に手を合わせた。
「浅汐川沿いの、影向寺の方へ行く道はわかりますか」
「ええ。この路地を抜けてまっすぐ。その先の橋を渡ると大きな道にでます。そこからは、また人に聞いた方が良いやもしれません」
「道すがら、良い風があるといい」
穏やかな声。彼は軽く頭を下げ、路地を出ていった。
その背が明るみに溶ける寸前、振り返って、ほんの一瞬だけ私を見た。言葉はなかった。けれど、その一瞥に“また”という響きがまぎれていた気がした。
塀の上のブランが、短く「フ」と鳴く。私が見上げると、姫君はそっぽを向いて、尾だけをゆるやかに揺らした。
「……もう、勝手ね」
つぶやけば、ブランは一跳びで向こうの屋根へ。白い影が瓦の上でひとつきらりと砕けて、昼の光に紛れた。
角を曲がると、人波の陰からお圭が出てきた。
「花嬢様」
「……ごめんなさい。すぐ戻るつもりだったの」
「よろしゅうございます」お圭は私の袖口の土をはたきながら、路地の祠に眼差しをやる。
咲きたての撫子が、まだ言葉を探すように揺れている。
「やっぱり、よく咲きますね、花嬢様の傍らは」
まるで当然というように、お圭は続ける。
「昔から、そうでございました。嬢様が小さな手をかざすだけで、枯れかけの葉に色が戻って。近所のやんちゃな坊たちも、怪我の治りが早いと、お母さん方が噂しておいででした」
「……私、知らなかった」
「花嬢様が気にされぬほど、自然なことでございましたから」
お圭と並んで歩き出す。
通りの賑わいが戻ると、胸の詰まりは少し和らいだ。
けれど、さっきの青年の眼差しが心のどこかに残像を残している。
(路地で会ったのは――偶然?)
高麗屋へ戻る角で、お圭がふと立ち止まった。
「先ほどの方は……どこか、きちんとしておいででした」
「そうね。道をたずねられたの」
「ええ。――よい風の方で」
お圭はそれ以上問わず、微笑をほんの少しだけ揺らした。
夕餉前。井戸端で手を洗いながら、私は掌をひらいてみる。昼の路地の、咲いたばかりの花の柔らかさが、まだ薄く残っている。
水面に映る自分が、ほんの少しだけ見知らぬ顔に見えた。
(私の中にあるものは、いったい何)
裏手の塀の向こうで、猫が一声鳴いた。
ブランの声かどうか、判別のつかない声。
私は手を拭き、振り返らずに居間へ向かった。
同じ刻、浅汐川にかかる小橋の上。
橘一大は足を止め、袖口に残るかすかな香りを確かめていた。
金木犀なのかーーー。
自らの乾いた青い花の気配が、指先に薄くからみついている。
(器を止める手とは違う。花を咲かせる手……記録にはない?)
昔、戦国の世では、花が咲いても咲かずとも、気にするものがいなかったのか? それとも、今までなかった手なのかーー。
見上げた空は白く、まだ月の気配はない。
それでも、遠いところにふたつの光の輪郭が、重ならずに並んでいるような錯覚を、一大はふと覚えた。
「押さえず、追わず」
口の中で、香落庵の声を反芻する。
――ただし、触れよ。
彼は橋の欄干から手を離し、川風の流れに身を合わせた。足元の石畳に、町のざわめきが戻ってくる。路地で見た撫子の花びらの薄さが、指先にいつまでも残っていた。
一大の背に、遠くから何かの視線がかすめ、一大はその気配を感じた。
やさしい秋の陽射しの中で、一大の心は、すぅっと冷えていった。
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