第12話 影の祈り
夕餉の後の高麗屋は、ひっそりとした静けさに包まれていた。
女中たちが膳を下げ終えたあとも、帳場の奥では勘兵衛が帳面を繰り、紙をめくる音だけが細く響いている。
片付けの終わった台所の隣の部屋で、お栄は針仕事をしていた。
黄色い行灯の灯りの下、指先が糸をすくうたび、布の上に影が伸びる。針の動きはいつものように正確だった。
だが胸の奥では、別の鼓動が静かに鳴っていた。
――あの子さえいなければ。
糸を引く手が一瞬止まる。お栄は我に返り、すぐに針目を整えた。
廊下の向こうから、花の笑い声と猫の鳴き声がかすかに聞こえる。その音は、橙子の声とは違い、柔らかく浮いていた。まるで、屋敷の空気に似つかわしくないものが入りこんだように。
お栄の唇が、ほとんど動かぬほどに震えた。
(あの夜の罪は終わっていない。でも、あの子がいるかぎり――橙子お嬢様は、家から遠くへやられてしまう)
針を置き、掌を胸にあてる。温もりはあるのに、心だけが冷たい。
いつの頃だったろう。
遊郭の裏で倒れていた幼い自分の手を取ってくれたのは、あのお方だった。見ず知らずの小娘を見捨てず、寺の代参の帰りに自らの衣で包んでくれた。
そのときの眼差し、その光の強さを、忘れたことはない。
あの方がかけてくださった慈悲が、お栄の一生を決めた。
――お方様の恩に報いるには、橙子お嬢様を守るしかない。
その思いだけで、ここまで生きてきた。
けれど今、橙子は家のために外へ出されようとしている。
お方様の血を引く方が、たかが商家の都合で奉公に出るなど、あり得ぬこと。
そして、その不自然を生んでいるのは、他ならぬ――花。
「……あの子さえ」
つぶやきを、障子の向こうでブランが見ていた。
いつの間に来ていたのか。白い影が灯に溶け、金と青の瞳だけが光を留める。その双眸に、咎めるような静けさがあった。
お栄は視線をそらし、布をたたむ。
(猫風情に、見透かされたような)
胸の奥で、言いようのないざらつきが広がった。
屋敷が眠りにつくころ、廊下の灯がひとつずつ落ちていく。
お栄は針箱を閉じると、静かに離れの方へ向かった。
宗右衛門が「志摩屋の主人を通しての話があった」と言っていたのを、昼間ふと耳にしていたからだ。
離れの障子の向こうから、低い声が聞こえる。
油を控えた灯の匂いとともに、耳を澄ますと話し声が聞こえてくる。笑いを含んだ男の声は、おそらく志摩屋の主人・政蔵のものだ。
宗右衛門は、落ち着いた声で問いただしている。
「……結城家の方が、志摩屋さんを通してお手前をご覧になったとか」
「ええ、これも縁でございます。うちの名も上がりましょうし、高麗屋様もお嬢様が気に入っていただければ……」
志摩屋が声を濁す。
「家のためだ。あの娘一人で済むなら、仕方がない」宗右衛門の声には、苦味が混じっていた。
「本意ではない。だが、時勢には逆らえん」
志摩屋の笑い声が重なる。
「高麗屋さん、商いとはそういうものでございます。いずれこの東都は、情けよりも銭で動く世の中になる。商人は迷っていては置いていかれます。
結城家との縁を結んでおけば、のちの代まで安泰です」
障子の紙越しに、男たちの影が揺れた。
お栄の身体が固まった。こぶしをにぎる指がかすかに震える。
(銭で動く……そんな話で、橙子お嬢様の行く末が決まるのか)
気づくと、灯が落ち、声が遠ざかっていった。
お栄は廊下の影に身を潜めたまま、息を殺した。胸の奥が焼けるように痛む。
(お方様……わたしは、どうすればよいのです……)
夜気が流れ、庭の白萩がかすかに揺れた。
その影が障子に映るとき、お栄は目を閉じた。心の奥に、消えぬ祈りが立ちのぼる。
翌朝。私は庭先で白萩を見ていた。露がこぼれ、葉先で光る。
ブランがその傍に座り、静かに毛づくろいをしていた。
空は淡い水色で、まだ秋の匂いが残っている。
「ブラン、昨夜は……どこにいたの?」
問いかけても、姫君は顔を上げない。ただ、薄青の瞳が一瞬だけ光った。
その光は、まるで何かを知っているように見えた。
胸の奥に、言葉にならぬ不安が広がる。
風が白萩の枝を揺らし、どこかで木戸が軋む音がする。
――屋敷の中に、知らぬ風が吹いているのだろうか。
離れの方から、香のかすかな匂いが漂ってきた。私は首をかしげ、そちらへ向かった。
「花お嬢様、お祖母様がお呼びですよ」
女中のおひさの声に導かれ、奥の部屋へ入る。
お縁は膝掛けを整えながら、ゆっくりと私を見た。その眼差しは穏やかで。けれど、どこか遠くを見ているようだった。
「……風が変わったね、花や」
「え?」
「夜が深まるたび、見えぬものが動く。それは昔からそうだよ。季節が巡るように、香も巡る。
あんたのまわりには、目に見えぬ流れがある。
それを怖がらずに、よく感じておくんだよ」
私は頷いた。けれど胸には、昨夜の不安が形を変えて渦を巻いていた。
白猫の瞳、母屋の影、そして聞こえぬはずの声。何かが静かに動き出している――そんな気がした。
お縁はふと微笑んだ。
「人の縁は、糸より細く、香より淡い。けれど、それでも結ばれていく。
花、おまえはその“結び目”のような子――いろいろなものをつないでいくことになるよ、不思議な糸で……」
その言葉の意味を、私はまだ理解できなかった。
けれど、私には私にしかできぬことがあるやも――。心に小さな何かが灯った気がした。
外では、白萩が風に揺れている。陽の光が庭を染め、猫の影がゆらめいた。
その静かな朝の中で、私はふと、自分の運命の糸がほんの少しだけ動いたように感じた。
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