第11話 姉の支度
朝餉を終えたばかりの高麗屋には、どこか落ち着かぬ空気が漂っている。
番頭の勘兵衛が帳面を抱えて往来を見張り、女中たちは奥と店を何度も行き来していた。普段、落ち着いている女中頭のお澄でさえ、今日はどこかそわそわとしているようだ。
いつもは静かな高麗屋が、今日は少し騒がしい。
廊下の向こうでは、衣桁にいくつもの着物が掛けられ、香を焚く支度が整えられていた。
橙子は姿見の前に座り、帯を整えていた。その佇まいは、秋の陽だまりのようにあたたかく、それでいて遠い。
私は見ているだけで胸の奥が締めつけられる。橙子姉様に手を伸ばしても、光の中にすり抜けてしまいそうだった。
「橙子お嬢様、こちらをお召しくださいませ」
お栄が桐箪笥から取り出したのは、柳鼠の地に吹き寄せ柄を描いた上品な単衣。光を受けるたびに、地の淡い緑色が秋の朝の空気にとける。
橙子は静かにうなずき、鏡の前に座ったまま手を伸ばす。その表情には、いつもの落ち着きと、どこか張りつめた緊張が同居していた。
「お姉様、今日は……どこへ行くの?」
問いかけると、橙子は微笑んだ。
鏡越しの笑みは優しくも遠い。
「志摩屋さんで、結城家の奥向きの方に茶の稽古をお見せするのよ」
「結城家…?」
「えぇ。お武家様の。ほんの顔見せね。でも、粗相があっては高麗屋の名に関わるわ」
言葉は穏やかだが、声の奥に細い糸がピンと張っていた。
お栄が帯を取って背後からそっと腰に回す。
その手つきは熟練のものだったが、指が一瞬だけ止まる。
「……お方様譲りでございますね」
「お方様?」
橙子が振り返ると、お栄は小さく首を振った。
「いえ、指の形が、よう似ておいででございます」
橙子は気にも留めず微笑んだ。
けれどお栄の目は伏せられ、唇がかすかに震えていた。帯を締めながら、彼女の胸の奥では、言葉にならぬ祈りが揺れていた。
「支度は済んだかしら」
母・お咲が部屋に入ってきた。
その声には、いつもの柔らかさに混じって、わずかな硬さがあった。
お咲は橙子の姿を見つめ、次に私へ視線を移した。
「花、橙子の邪魔をしてはいけませんよ」
「はい……」
言葉は優しいのに、声の温度は低い。
橙子には誇らしげな眼差しを向けながら、私には一歩引いた距離がある。
けれど今日の母の顔には、いつもと違う影があった。橙子を見送る喜びと、不安がせめぎ合うような表情――。
「長女を外に出すなど、本来ならありえぬこと」
お咲の呟きが、風に紛れて聞こえた。
「けれど、志摩屋さんを通じてのご縁なら悪くないでしょう。家のためにも、あなたのためにも」
橙子は静かに頭を下げた。
その姿を見ていると、私の胸がざわざわと波打った。
家のため。姉のためーー。
けれどそのどちらでもない“何か”が、見えぬ場所で動いている気がした。
昼過ぎ、橙子はお栄とともに屋敷を出た。
私は店の前まで見送りに出る。
秋の風が通り抜け、店の前に飾られた白菊が小さく揺れた。
「……お姉様は、ああして行ってしまうの?」
私の呟きに、お圭が穏やかに笑う。
「今日はほんのご挨拶でございますよ。お日柄もよく、吉兆でございます」
お圭の言葉を聞いても、胸のざわめきは消えなかった。姉の行く先は、誰かに決められた道のように思えた。
風の中に、いつもと違う香が混じっている。
何の香かは分からない。けれど、胸の奥がひどく静かになった。
――まるで、何かが遠ざかっていくような。
その日の夕刻、帳場の奥座敷にお縁が現れた。
宗右衛門と話す声が、障子越しに低く漏れてくる。
何を語っているのかは分からない。
けれど、祖母の声にはいつもより硬さがあった。
しばらくして廊下でお縁とすれ違った。
「花、今日もきれいにしているねえ」
「お姉様が出かけていきました」
「あぁ、聞いているよ。よい話になればいいけれどね」
お縁の声は穏やかだが、どこか遠い響きがあった。
「橙子は“香”の強い子だ。あの子には、家を外から支える香がある」
「香……?」
「商いの香さ。良い家には良い香りがするものよ」
お縁はそう言って微笑み、去っていった。私には意味がよく分からなかった。
けれどお縁の瞳の奥で、かすかな光が揺れていた。
――香は、人の運命をも映す。
いつかどこかで聞いたそんな言葉が、心の奥に響いた気がした。
夜になっても、姉は戻らなかった。
私は灯を落とした部屋で、姉の鏡台の前に座る。
鏡台に置かれた香袋が残す香が、胸の奥をやさしく締めつけた。
鏡の中の自分が、泣きそうに見える。
――どうして、お姉様は外へ行くのだろう。
家を支えるはずの人なのに。
長女を出すことが不自然だと、誰も言わないのが不思議だった。
風が障子を鳴らす。
その音に、誰かの声が混ざっている気がした。
「香は、風の中にあるもの」
祖母の声か、あるいはあの夜の誰かの囁きか。
私には分からなかった。
ただ、胸の奥が熱くなった。
ブランが、いつのまにか足元に寄り添ってくれていた。
白い毛並みが灯の影に溶ける。
「お姉様……」
私は掌を合わせ、そっと目を閉じた。
夜半、屋敷の奥で人影がひとつ揺れていた。
お栄が人影のない廊下に立ち、柱に手をついている。
唇が、かすかに動いた。
「お方様……橙子お嬢様が高麗屋を出ることになりそうです。
どうか……どうかお守りくださいませ」
その声は風に溶け、庭の中に消えていった。
闇の奥で、ひとすじの香が立ちのぼる。
それは祈りか、それとも報せか。
夜は深く、誰の耳にも届かぬまま、静かに更けていった。
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