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第10話 香落の間

 川の流れは、さやさやと変わりなく流れていた。 そのほとりに、影向寺の裏手へ続く竹林がある。

 竹の葉が風に鳴り、ざわめきは遠い波のように絶え間ない。

 奥に、庵がひとつ――香落庵こうらくあん


 外見はただの小さな草庵にすぎぬが、地下には複雑な通路が張りめぐらされ、

 闇に沈む“もうひとつの寺”と呼ばれている。

 庵の入口の扁額には、かすれた筆でこう刻まれていた。


 ――「淵深莫測えんしんばくそく」――

「淵のように深く、測り知ることができない」。


 その言葉を、一大は静かに見上げた。

 意味は教えで知っている。だが今夜は、なぜか胸の底に沈むように響いた。

 香は焚かれていない。香盤は置かれているが、空。

 ――香を立てぬのがこの庵の掟。

 香を焚かねば、香は語らぬ。語らぬものこそ、真の香とされる。


 待つ間もなく、戸が内から引かれた。

 薄明りに、紫の衣がふっと揺れる。

「よく来たな、橘」

 権僧正・紫藤玄達しどう げんたつが、灯を遮らぬよう身を引いた。

 庵の奥は畳四畳半。竹簾が下り、簾の向こうには灯の輪がひとつ。

 誰かがいる。だが名は呼ばれない。

 香の流れを統べる“お館様”と呼ばれる存在。影だけがそこにある。


「水月の間の報せは読んだ。……花という娘、沈香ではなく金木犀の気配。変わり手であろう」

「見立て、同じにございます」

 一大が膝を折り、頭を垂れる。


 簾の向こうで、紙を繰る乾いた音がした。

 代わりに紫藤が言葉を継ぐ。

「高麗屋の家筋を洗わせた。母方の祖母・おおえん――幼名は“於寧”。 影向寺の香務を出した家の支流に、その名が残る。

 濃くはないが、香の習いを覚えるに足る薄脈は確かだ」

「……やはり、香の流れを引いておりますか」

 一大が問う。

 紫藤は筆を止め、淡く首を振った。

「だが、血が香るとは限らぬ。香は血からも流れるが、拍子からも立つ。

 そして、その拍子を乱す者がもう一人――奉公の女、お栄。 あれは裏を知るというより、痛みを知る目だ。

 恐らく、過去に“夜”を抱えておる。人の香ではなく、人の影の匂いだ」

 一大は軽く眉をひそめた。

 お栄という名は聞き覚えがあった。報告の末尾に宗至が残した一行。

 “あの女だけが、娘の動きに驚かなかった”――あの言葉が脳裏に浮かぶ。

「慎重に見よ」と紫藤が言った。

「彼女は敵ではない。だが、罪の記憶は、香を曇らせることがある」


 簾の向こうの灯が、ひと息だけ揺れた。

「橘」

「はい」

「出会え」

 紫藤は短く言った。

「設えるほどではない。ただ、風の側に立ち、娘が風を見る刻にそこに在れ。

 息が合うなら、それでよし。合わぬなら、それもよし。――試すな。導くな。見よ」


 その言い回しは冷たくもあったが、刃ではない。

 濡れた紙に墨が広がるような柔らかさが、底にあった。

「承りました」

 一大が頭を下げると、紫藤は脇机から小さな包みを取り出し、差し出した。

 紺の布で包まれた薄い木札。表に「風」とだけ刻まれている。

「符ではない。記しだ。手に持つな、懐に入れておけ。

 おぬし自身の拍子を忘れぬための“重し”になる」

「ありがたく」

 一大はそれを両手で受け取り、深く礼をした。 木札の温みが掌に移る。重さはないのに、心の奥がすこし沈むような感覚があった。

 ――拍子を忘れるな。風を聴け。


「もうひとつ」紫藤が声を落とす。

「香落庵の扁額を見たか」

「はい」

「淵深莫測。……それが、この庵の名であり、心でもある。

 香を扱う者は、淵を覗くことがある。だが、覗きすぎれば溺れる。

 その木札は、おぬしが沈まぬための舟だ。忘れるな」


 簾の向こうから、帷の奥にいた声が重なる。

「風の報せを聞いた。……香が変わったようだな」

 低く穏やかな声。誰のものとも知れぬ、海の底のような響きだった。

「沈香ではなく、金木犀に似た甘さが」

「それは古の流れを継ぐ。だが、まだ乱れておる。押さえるな。追うな。……ただし、触れよ」

「触れるとは」

「言葉を置くこと。言葉こそが、人の香の形。

 その娘に、一度だけ“言葉”を置け。掬うな、救うな、導くな。

 ただ、風の中に置いてこい」

 一大は目を伏せ、深く息を吸った。

 金木犀の香が微かに脳裏をよぎる。 香を立てぬ庵に、香が立ったような錯覚。

 それは記憶か、幻か。


「承りました」

 沈黙ののち、声がもう一度落ちる。

「……あれは古き香だ。名を変えても、流れは変わらぬ。

 ゆえに焦るな。愛で縛らず、憎で押さえず。

 川は潮の折り返しでしか向きを変えぬ」

 言葉の端に、わずかな哀しみが滲んだ。

 一大は胸の内でその響きを記し、深く礼をした。


 庵を出ると、夜明け前の竹林に白い靄がかかっていた。

 風は冷たく、どこか遠くから潮の匂いを運んでくる。

 伽羅の香が一瞬だけ残り、やがてそれも風に溶けた。

 一大は竹の影を見上げ、小さく呟く。

「香が変わるたび、流れも変わる。……ならば、俺も流れに立つのか」


 浅汐川の水が、月の無い空を映している。

 その鏡のような水面の上を、風が一筋走った。

 それは、遠く高麗屋の方角へ――ゆるやかに、確かに流れていった。

毎日、12時頃更新中。

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