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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約者に「無能は黙ってろ」と言われ続けたので、最期も静かにしてますね


「――食事の時間だ」


 仄暗い牢の中、柵の向かいから一枚の皿が静かに滑ってきた。


 その上には、パンが一つ。


「……」


 首を振ると、ため息が聞こえた。


「……何の罪を犯した?」


 冷たく低い声に顔を上げると、看守が立っていた。


 薄暗い中でもわかる屈強な体つきと手に持つ警棒に、思わず身を竦ませた。


「私は耳にしたぞ――王太子妃候補、イザベル・パルマティア」

「……」

「これから処刑されるらしい、とな」

「……!」


 心臓を握り潰されたようだった。


 でも、本当は薄々わかっていた。


 私、イザベルが収監されてから、すでに三日が経っていた。そしてここは、重罪人が入れられる地下牢――。


「傾国の美女と呼ばれ、持て囃されていたのではないか?」

「……」


 ……何が傾国の美女、だ。


 そんな気恥ずかしくなるような言葉は、一部の人間が勝手に口にしていただけだ。私は昔から、悪女のように見える自分のきつい顔が大嫌いだった。子供から怖がられたことだったある。だから、いつも鏡を見るたびにため息をついていた。


「そして、こうも聞いたぞ――『毒の黒薔薇』、ともな」

「……よくご存知ではありませんか」


 やるせなさのあまり、つい反応してしまった。


 何が、毒だ。


 黒薔薇だ……。


「もしかしたら王子様のご機嫌でも損ねたのか?」

「……」


 見ず知らずの人間に対して、説明する義務なんてない。何より私は、何もしていない。


 ただ。


 愛されなかっただけ――。


 ほつれた獄衣の袖からのぞく痩せ細った左腕を、右手で固く握りしめながらつぶやいた。


「あなたのご想像にお任せし」


 カツン、カツン、カツン。


「――」

「――」


 突如響いた足音には、聞き覚えのある声が混じっていて、思わず身震いした。


「――随分としおらしいじゃないか? イザベル」


 ランプを置き、ゆったりと腕を組んだ男のにやけた顔が、柵の向かいに浮かんだ。


 見慣れた傲慢な笑みを浮かべる男の名は、王太子アドリアン。


 この国の次期王にして、私の婚約者だ。けれど、いまだに彼が私の婚約者であるかは極めて疑わしい。


 なぜなら、その隣には一人の女――。


「まあ! イザベル様! そんなにやつれて、おいたわしや……。ずっと何も召し上がっていないとうかがいましたわ! 大丈夫ですか!?」

「……」


 みすぼらしい私の服とは対照的に、彼女の華美な衣装は豊かな胸元をこれでもかと強調していた。


「同情を誘ってるのさ。騙されるなよ、セリーヌ」

「まあ! 怖い!」


 セリーヌは大袈裟に驚くと、ここぞとばかりにアドリアンに身体を擦り寄せた。


「イザベル、残念だよ……」

「……」

「私はな、皆とは違って、冤罪ではないかと信じていたのだが……証拠が見つかってしまったらしい。まさか、よりによって敵国に通じていたとはな」

「……」

「私はまもなく王座に就く。ゆえに、悪女をのさばらせておくわけにはいかない」

「……」


 わざとらしく肩を竦めるアドリアンを見て、吐き気がした。その証拠とやらは、おそらく彼が「作った」のだろう。


「どうした? イザベル。さっきから黙ってばかりではないか? 何も言わないのか? そうかそうか。肯定というわけか。なるほど、わかったわかった」

「……」


 込み上げる怒りに、視界が赤く染まっていくようだった。


(ずっと私に、黙れと言い続けてきたくせに……!)


「お、そうだ。お前に伝えておきたいことがあった。イザベル・パルマティア。お前との婚約は当然白紙だ。お前の実家にも伝えおいた。まあ、心配するな。何しろ私は真実の愛――聖女セリーヌを見つけたからな!」

「まあ! アドリアン様! 嬉しゅうございます!」


 セリーヌはアドリアンにぎゅっと抱きついた。


「……」


 彼のことは初めて会ったときから今まで、まったく愛していなかった。だから、婚約の件は別にどうでもいい。けれど――。


 私が今までずっと、王妃になるために努力させられてきたことは。


 自由を奪われ続けてきたことは。


 いったい何だったというの……!


「お前は反逆罪を犯したのだから、まあ、死刑が妥当だな。……行くぞ、セリーヌ」

「あ、私、イザベル様とは親しくさせていただいておりましたの……。せめて、最後のお別れをしたくて……」

「ふっ。慈悲深いな、セリーヌ。わかった。外で待ってるぞ」


 アドリアンの足音が遠ざかっていく。


 その音が完全に消えると、セリーヌはこらえきれないようにくつくつと笑い始めた。


「……」


 かさついた唇を噛み締めながら下を向く。


 パンが載ったままの白い皿が目に映る。


(……これを割れば、破片で手首を切れるかしら?)


 ――そんな風に思った。




 私は、アンダリア王国の侯爵家の娘として生を受けた。


 王族出身の母は、結婚当初から父とうまくいっていなかったらしい。私の記憶の中で、彼らが笑い合う姿を見たことがない。ついでにいえば、父が私に笑いかけたことも、一度もない。


 病で母が亡くなった後、父は意気揚々と再婚し、待望の嫡男、さらに娘まで授かった。


 よって私は完全に放置された。家に居場所がないまま、淑女教育を黙々と受ける日々だけが続いた。


 ある日偶然、王立の孤児院を訪れたことがあった。そこで自分でも初めて知ったのだが――私は子ども好きだった。次第に、そこで過ごすひとときに安らぎを覚えるようになった。


 子どもたちと一緒に駆け回ったり、大好きなお菓子を作ったり、お花を育てたり、刺繍を教えたりすることは、楽しくてたまらなかった。いずれ家を出て、修道院に入りたいと願うようになっていた。


 しかし、その時間は取り上げられてしまう――。


 ある日突然、アドリアンの婚約者になることが決まったのだ。


 未来の王妃になんてなりたくなかった。けれど、貴族の子女の中で家格を含めて、よりによって私が一番の「適任」だった。父は喜んで私を王家に差し出した。それからは、父とまともに顔すら会わせていない。


 その後は……。


 それまでの虚しい日々は、むしろ天国だったと思う日々が始まった。


 私は王家の管理下に置かれ、厳しい王妃教育を受けた。休む間もなく課題が課され、こなせなければ教師たちは容赦なく私を叱責した。


 自分で言うのもなんだけれど、貴族教育はきちんと修めていたつもりだった。けれど、彼らの追い詰め方は、今思い返しても異様だった。どれほど努力しても、王や王妃は当然のこととして、ただ受け流すだけだった。


 私的な時間は、寝るときと食事のときだけになった。


 けれど、度重なる課題で睡眠時間は次第に削られていき、さらに――。


『あなた、もう少し痩せたほうがよいのではなくって? 食事の管理はちゃんとできているのかしら?』


 王妃から毎日のように、しつこく言われるようになった。別に私は、普通の体型なのに……。


 唯一の楽しみだった甘いものは、与えられる食事から完全に姿を消した。好物の油を使った料理も、ほとんど出されなくなった。


 その後、噂で知った。


 王妃と亡き母は、かつて社交界のライバル関係にあり、険悪な仲だったということを。その話を耳にしたとき、私が置かれた異様に厳しい状況の理由を悟った。


 問題は、それだけではなかった。


 ……アドリアンのことだ。


 王妃から甘やかされて育ったアドリアンは、率直に言って……軽率な性格だった。


 我が国は近年、長年の敵国と緊張が高まり、いつ開戦してもおかしくない状況にあった。にもかかわらず、彼は敵国を侮り、戦争をむしろ煽るような強気な発言を吹聴して憚らなかった。


 ある日、思わず彼に言った。


『アドリアン様』

『……なんだ?』

『恐れながら、もうしばし、ご発言をお控えくださいませ』

『……』

『アドリアン様は、この国で最も高貴な御方。お言葉が独り歩きしてしまうこともありましょう。万が一、戦となれば、民が苦しみます。どうか、アドリアン様のお力で、この国の未来を導いてくださりますよう……』

『うるさい!』

『えっ……』

『お前! 不敬であるぞ!!』


 今でも憶えている。彼から向けられた強い憎しみの視線を。


『で、でも……』

『黙れ!!』


 思わずぎゅっと目をつむった。


『二度と生意気な口を聞くな!!』

『……』

『お前はただ黙っていろ。……よいな?』

『……』


 動揺しながら私はうなずいた。彼にまで見捨てられたら、もう生きていける自信がなかったからだ。


 それでも、彼の振る舞いが見ていられなくて、どうしても諌めてしまうことはあった。この国が乱れたら、孤児院の子どもたちの未来まで絶たれてしまうからだ。でも、そのたびに彼は憎悪のこもった目で私を睨んだ。ときには私に手を上げることもあった。


 ……静かにしていよう。


 私はもう一切、喋らない。

 

 そう思うようになって、しばらくしたら……。


 今度は周囲から「あの、見た目だけで、黙ったままの無能な女が……」「いまは不安定な情勢だというのに、顔だけ女に未来の王妃を託してよいのか?」などと、わざと私の耳に届くように陰口を叩かれた。


 アドリアンはそのことを知っていた。彼は私に向かって「ああ、そうだ。今日も無能は黙ってろ、な?」と嬉々としながら言うようになった。


 誰も私のことを擁護しないどころか、やがて私は、国を陰から蝕む「毒の黒薔薇」などと呼ばれるようになった。


 大好きな薔薇の花が、自分の悪口に使われるなんて……やるせなかった。


 そんなある日――。


 戦争の不安が一層高まる中、聖なる力で人びとを癒す、一人の不思議な少女の噂で国中が持ちきりとなった。人びとは彼女を、まるで救世主のように称え上げた。


 その女性の名はセリーヌ。


 今でも忘れない。


 評判が高まって王宮に召されたセリーヌを見つめ、アドリアンが実に嬉しそうにしていたことを。喜色満面の彼を見ながら、王と王妃が優しげに微笑んでいたことを。


 人びとが、「聖女」ことセリーヌを王妃にすべきと言うようになってから、もう随分と経った。でも、私に何かできることなどなく。


 すると突如、私が敵国と通じて国家を転覆させようとしたという訴えが持ち上がり――。


 この地下牢に放り込まれた。


 ……馬鹿馬鹿しい。


 大それた罪を犯す余裕なんて、あるわけなかった。


 長年の厳しい王妃教育と食事制限の限界が来ていて、今にも倒れそうだったのだから……。 




「……っ!」


 腕で口元を押さえ、必死に笑いをこらえていたセリーヌは、顔を上げると何度か首を振って周囲を確認した。


「も、もう! が、我慢できないわ! あはっ! あははははっ!!」

「……」

「誰もいないから、ここだけの話だけどね」

「……」

「今回の件、捏造だから」

「……」


 まあ、そうでしょうね……。


 犯人とされる私が、本当に何もしていないのだから。


「だってさ~。もう、聞いて? アドリアンがさ~。どうしても私のことを妃にしたい、っていうんだもん」

「……」

「一応言っておくけど、私はちょっと彼を手助けしただけだから。言い出しっぺは彼の方。どうしても“誰かさん”と別れたい、って言うから」

「……」


 美しいセリーヌの顔には、見るに堪えないほどの醜悪な笑みが浮かんでいた。


「でもね、あなたが悪いのよ?」

「えっ?」

「あなたがシナリオどおりに全然動いてくれないから」

「……?」

「あなたが“素直に”動いてくれないから……。役の通りに全然動いてくれないから、私、結構焦っちゃった。だからこんな事態になってるの。あなたの自業自得ってこと」


 シナリオ……?


 役……?


 この女は何を言っているのだろう?


「かわいそうだから、最後に慈悲を見せてあげるわ。私、聖女だし。どんな死に方がお望み? 断頭? 火刑? それとも……」

「……」

「そうだ! あなたは『毒の黒薔薇』だから、毒薬がお似合いかも! あ、でも……」


 セリーヌは顎に手を当て、何やら考えていた。


「あなた、悪役令嬢だから――」

「……?」

「絞首刑が一番似合うのかしら、ね。どれがいい? 燃やされたり毒で苦しんだりするより、窒息して死ぬ方が楽な気がするわ! 知らないけど」

「……」

「ま。ここまでくれば、ゲームクリアももうすぐだし……のんびり考えておくわ! 楽しみに待ってて!」


 セリーヌは楽しそうに去っていった。


「……」


 呆然としながらうつむいた。


『あなたが“素直に”動いてくれないから』


 素直、か……。


 セリーヌの発言は、正しくないと思う。だって私は、素直に王妃やアドリアンたちの言うことを聞いてきたのだから。


「……」


 後悔の波が、荒れ狂うように胸へと押し寄せてきていた。


 本当は、子供のころからずっと……。


 自分自身に、どこか説明のつかない違和感を抱いていた。その理由はわからない。自分はきっと「間違っていて」、周囲は「正しい」。そう信じて、周囲の求めに合わせて生きなければならないと、言い聞かせてきた。


 でも、その結果は――。


 大好きなものを全部取り上げられて……。


 誰からも理解されずに……。


 そして、最期に選べるのは。


「死に方、だけ……」


 涙が頬を伝い、こぼれ落ちた。




 ――コツン。


 冷たい牢の中で泣き続けていたら、何かがぶつかる音が静かに響いた。


「え……?」


 ふと床に目をやると、パンが載った皿の隣に、もう一枚皿が増えていた。


 その皿の上には、布が載せられていた。


「……?」


 手に取ると、丁寧に畳まれたハンカチだった。王族や貴族が用いるような高級なものではないけれど、その感触には、どこか懐かしい肌触りがあった。


「……!」


 目を見開く――。


 ハンカチの隅には、「イザベルさまへ」という、幼い手で縫われたような、たどたどしい糸の文字。その隣には、白薔薇を思わせる花の刺繍――。


 瞬く間に、孤児院で女の子たちに刺繍を教えていた日々の記憶がよみがえった。同時に、絶望のあまりに幻を見ているのではないかという疑念がかすめた。


 人の気配を感じ、顔を上げた。


「――それで涙を拭いてくれ」


 突如薄闇の中から、先ほどの大柄な看守がぬっと姿を現した。


「うわぁ!!!」


 威圧的で不気味な看守が、氷のようなまなざしで私を見下ろしていた。


(こ、この男! ま、まだいたの!?)


 い、いや……!


 セリーヌたちが去って以来、足音は一度も聞こえていない。


 だとしたら、彼らここに来ていたあのとき、この男は――。


 ()()()()()()


 すぐそばで控えていた? いや、さっきセリーヌは確かに「誰もいない」と言っていたはずだ。


「……」


 恐怖で全身が震えた。


 ここは、いずれ処刑される者が押し込まれる地下牢――目の前の看守を見れば見るほど、彼がまるで幽霊のように思え、血の気が引いていった。


 幽霊男は、ぼそっと言った。


「……もう気にするな」

「えっ?」

「先ほどの私からの質問のことだ。答えなくていい。忘れてくれ」

「……」

「ついさっき、答えが聞けたからな」


 彼は静かに目を伏せると、「……まあ、予想どおりだったがな」とつぶやくように言った。


(やっぱり、ずっとここにいた……? でも、どこに……?)


「涙を拭け。そして、食事を取れ」


 そう告げた彼は、警棒を指先で弄びながら、鋭い眼光で再び私を射抜くように見つめた。


(この男は……誰?)


「やむなし、か……」


 小さくため息をついた彼は、懐に手を差し入れ何かを取り出した。


 そして、膝を屈めた。


 ――コツン。


 三枚目の皿が滑ってきて、二枚目の皿とぶつかり、音を立てた。


「……?」


 皿の上には、紙に包まれた何かと、銀色に光るナイフのようなものが添えられていた。


(これで自決しろって、こと……?)


 しかし、よくよく見ると――。


(あれ……? バターナイフ?)


 小さな包を開いた。その中からは本当にバターが出てきた。


 とってもいい香りだった。


 バターは実は大好物だ。子供の頃、つい塗りすぎては母に注意された。でも最後は、いつも笑って許してくれた。けれど、王妃から痩せるよう強いられ続けてきたせいで、もう何年もろくに口にしていなかった。


「……バターの風味と塩気。たまらないよな」

「え?」

「塩と油は控えたほうが体にいいとは聞くが……。その気持ち、わからなくもない」

「は?」


 意味不明だった。


 これから処刑される人間が、どうして塩分と脂質にかかる健康への影響ついて語り合わなければならないのだろう?


 っていうか、私……。


(なんでさっきから、次々とお皿を送りつけられてるの?)


 死ぬ間際には死神が迎えに来るって、よく言うけど……。


「……」


 三枚のお皿と、影を背負った幽霊の様な男を、交互に見つめた。


「妖怪……皿男……」


 ふとそんな言葉を思いつき、つぶやいてしまった。


 そう、たしか――。


 男ではないけれど……恨みを募らせて妖怪になった女が、夜ごとお皿を数えては、「一枚足りない……」って嘆くお話を聞いたことがあった。


(なんだか、懐かしいわね)


 ……ん? 


 懐かしい?


 そもそも、”ようかい”って、何……?


 死神はともかく、妖怪なんて言葉はこの国にない。そう思った瞬間――。


「いたっ!」

「ど、どうした!?」

「いたい! いたい! いたい! いたい! いたい!」


 突然、割れるような激しい頭痛を覚え、牢の中でのたうち回った。


 激痛の中――見たことがないはずの高い建物、会ったことがないはずの人のイメージがまるで走馬灯のように脳裏をよぎる。沢山の子供たちの笑顔が浮かぶ。けれど、どの子も孤児院の子供ではない。その子たちは、見たことのない可愛らしい制服のようなものを着ている――。


「はあ、はあ、はあ……!」


 痛みはすぐに嘘のように引いていた。この発作は、実は子供の頃から稀に起こるのだ。


「どうした!? 大丈夫か!?」

「ええ……もう大丈……」

「そうか! わかったぞ!」

「えっ?」

「ジャムも欲しいんだな!? ま、ま、待っていろ!」


 私はもう落ち着いているのに、皿男はとても慌てた様子で懐を探っていた。


「も、もう、大丈夫ですわ」

「……本当に大丈夫なのか? 君はここに入ってから、何も食べていないと聞いた」

「え、ええ……」

「栄養が不足して、頭痛が起きているんだ。だから、パンを食べろ! 今すぐにだ!!」

「……」


 処刑される身となれば、食欲など消えるものだ。


 けれど、やたらと圧の強い皿男を安心させようと、一枚目のお皿に載っていたパンを手に取った。


(……あれ?)


 囚人用の、喉を通らないほど固いパンだと思っていた。しかし、それは驚くほど軽く、柔らかな手触りだった。


 そっとちぎる。


 小麦とナッツの香りがふわりと立ちのぼる。


「……」


 実は、ナッツも大好物だ。


 昔は子供たちとよく、森にくるみを拾いに行ったっけ……。でも、王宮に呼ばれてからは、「木の実は太る」と言われて口にすることも許されなかった。


 パンからは、何もつけなくても豊かなバターの香りが漂っていた。


「……」


 三枚目のお皿に載っていたバターを、バターナイフを使ってパンに上塗りし、そっと口に運んだ。


「美味しい……!」


 こんなに美味しいもの……。


 生まれてはじめて食べたような気がした。


 はぐはぐと、あっという間に食べきってしまった。途端に、体の底から元気が湧いてくるような気がした


 ――コツン。


 すかさず滑り込んできた四枚目のお皿に満たされていたものは、澄んだ水だった。


「……」


 迷わずお皿を手に取り、ごくごくと飲み干してしまった。


 喉を潤す水の冷たさに、生き返ったような気持ちになる。でも、同時に……。


 子供たちと森で遊んだり、パンを焼いたりした日々の記憶。それがもう二度と戻らないという現実に、胸が締めつけられた。


 ――せっかく飲んだ水は、瞬く間に塩水に変わり、頬を流れた。


「ま、まさか……!」


 二枚目のお皿に載っていたハンカチで顔を拭いながら柵の先を見ると、皿パンバター男は愕然としていた。


「まだ、足りないのか?」

「え?」

「ならば、次は」


 ――コツン。


 五枚目の皿が滑り込まされた。今度は、花柄の可愛らしい包が載っていた。


「スイーツだ」


 包を開く。


 目を見開く。


(これって……!)


 りんごのパイだった。


 これも実は大好物だ。しかし、誰にも話したことはない。パイはこの国では庶民の食べ物とされており、実家にいた頃でさえ口にすることはなかった。


 この美味しさを知った理由は、子供たちのために施設でよく焼いていたからだ。釜から漂う甘い香りに包まれると、みんなで歓声を上げたものだった。


「……君の大好物だったからな」

「えっ?」

「いいから、早く食べろ。……もう、時間がない」


 皿パイ男の圧が再び増した。


 もうやけになり、手づかみで口に運んだ。芳醇なバターの風味、しゃくしゃくとしたりんごの歯ごたえ、カリッとした小麦の食感。あまりに美味しすぎて、あっという間に食べきってしまった。


「――よし!」


 満足げにうなずいた彼は、確認するようにたずねた。


「腹ごしらえは、もう十分だな?」

「……」


 コクリとうなずいた。


「……下がっていろ」

「え……?」


 後ずさる。


 彼は、手にしていた警棒を軽く撫でた。


 そして、それをすらりと「抜いた」。


 棒から鞘が外れ、現れたのは短いレイピアのような細い刀身。


 目を閉じながら静かに詠唱する男。白刃に宿るはまばゆい光。


 彼はそれを振りかぶり、一閃する――。


 私を閉じ込めていた柵は、熱したナイフで切られたバターのように、溶けた。




「――イザリナさんは、本当に素晴らしいわ! あなたほど博識な方に会ったのは初めてだわ!」

「もったいなきお言葉を」

「……いいえ、本当よ」


 輝くような笑みを浮かべるその美しい貴人は、カルネリア王国の王妃陛下、ソフィー様だ。


 ――牢から脱出したあの日から、一年が経っていた。


 あの「彼」の手引きによって、私は奇跡的に祖国を脱し、隣国へと逃げ延びていた。


 今はイザリナという新しい名を与えられ、賓客として迎え入れられている。女官の立場でソフィー王妃陛下に仕え、お話相手を務めている。


「さすがは“元”王太子妃候補、ね。……イザベルさん」


 ソフィー様は優しげな笑みを浮かべながら、小声でそっと言った。彼女は私のことをすべて知っている。なお、元婚約者のアドリアンは、自らの面子を保つためか、私を処刑したと公表したらしい。


「お体の具合はどう?」

「はっ。おかげ様で問題ございません」

「そう……」


 ――この国に亡命してからしばらくの間、私は深い眠りについた。まるでこれまでの体と心の疲弊を取り戻すかのように、目を覚ましては再び眠る日々が続いた。


 快復した後、ソフィー様からお呼びがかかった。なぜか彼女は、初対面のときから私のことをお気に召され、女官として傍に置くことを望まれた。


 言葉の問題もなかった。祖国では話せる人が少なかったカルネリア語だったが、私は厳しい王妃教育の中で身につけさせられていた。あの理不尽な日々は今でも許せないけれど、人生、何が役に立つかわからないものだ。


 聡明で優しく、時にユーモアを交えるソフィー様に仕えるのは心地よく、私は生まれて初めての穏やかな日々を過ごしていた。


「――あ、そうだ」


 彼女は、ふと何かを思い出したように口を開いた。


「ねえ、イザリナさん」

「はい」

「さっき報せが入ったのだけど……あなたが処刑された国の話、聞きたい?」

「えっ……?」


 風の噂で、アドリアンが新王として即位し、聖女と称えられたセリーヌが王妃となったことは耳にしていた。


「実はね」

「――失礼いたします」


 ソフィー様が話しかけたところで、一人の長身の騎士がぬっと姿を現した。


 その威圧感を放つ男は、美しい青の髪を後ろで束ね、氷のように澄んだアイスブルーの瞳をしていた。高い背丈と、騎士服越しにも伝わる無骨で逞しい体つき、そして何を考えているのか伺えない佇まいは、彼の異質な雰囲気を際立たせていた。


「あら、ティエリーじゃない。今日も随分と大きいわね」

「……」


 無言のまま、コツコツと靴音を響かせて歩み寄り、私たちの前に立った“元”看守もどきを見上げる――。


 皿男は、騎士だった。


 彼はいま、騎士の中でも選ばれし者しかなれないとされる近衛騎士の役職に就いていた。ちなみに、私より五つ下だ。


「……そろそろ、イザリナの帰宅時間ですので」

「ねえ、ちょっと、ティエリー。あなた、私の近衛騎士よね? 私とイザリナさんのどっちが大事なの?」

「……お答えいたしかねます」


 素っ気なく答える彼にハラハラしてしまうが、ソフィー様は鷹揚に微笑んでいた。


「そういえば聞いたわよ。あなた、イザリナさんに甘いものばかり食べさせているらしいじゃないの」

「……」

「それにあなた。自分で揚げ物を揚げまくって、イザリナさんを揚げ物パーティーによく誘っているらしいじゃないの? エプロン姿は意外と似合っているらしいけど」

「……」


 ティエリーはじろりと私を見た。


 その冷たい瞳と近寄り難い雰囲気に、一年経った今でも、なぜか胸が高鳴ってしまう。


 ――実は彼とは面識があった。八年前のことだ。


 当時、このカルネリア王国は、王位継承をめぐる争いで大きな内乱に見舞われたことがあった。


 まだ少年だったティエリーは、王族の一人としてその混乱の渦に巻き込まれた。両親を失い、乳母に連れられ命からがら逃げ延びた先は、私の祖国だった。乳母も亡くなり、行き倒れかけた彼は、偶然にも王立の孤児院に引き取られた。


「……」

「……」


 私をじっと見つめる、冷たいアイスブルーの瞳――。


 その色だけは、昔のままだった。でも、それ以外は、大きく様変わりしていた。思い出の中のティエリーは、小さくて、痩せ細っていて、頼りなげな可愛らしい少年だったのに……。


 いつも無口で誰とも打ち解けようとせず、ろくに食事を取ろうとしない彼のことを、放っておけなくて勝手に世話を焼いたものだ。彼はいつも、迷惑そうな顔をしていたけど……。なお本人いわく、食事を取らない彼を叱るときの私の圧は、相当なものだったらしい。


 その後カルネリア王国は、後継者候補たちが共倒れとなり、新たな王が共立され、情勢は安定した。現国王陛下にお会いしたけれど、穏やかでいながら相当な切れ者だった。


 当時の私は、ティエリーの正体を知らなかった。ただ、彼が国へ帰ることになった日、さみしさのあまり泣きながら抱きしめてしまったのを、今でもはっきりと憶えている。


 ――そんな彼から、逆に甘やかされる日々を私は過ごしているのだった。


「お言葉ながら……」


 ティエリーはぼそっと言った。


「男たるもの、大切な女性が好きなものを捧げることは、当然の行いかと」

「キャー! 出た! ティエリーの惚気! ちょっと、イザリナさん、聞いた?」

「ははは……」

「そもそもね。誰もが憧れる近衛騎士になる動機が、『今の部署は出張が多いのが不満です。でも、近衛なら王都にいられるので』なんて言った男、あなたくらいよ? どれだけイザリナさんの側にいたいのかしら?」

「まあ……」


 ティエリーは口ごもった。


 実は彼はもともと、諜報部の人間だったらしい。きな臭さを増していた私の祖国の内部情報を探ることになって、潜入任務に志願したのだという。


 ――でも本当は、失脚寸前だった私のことを救い出すために……。


 昨年の亡命の折、私たちの逃亡を手引した者は何人もいた。つまり、祖国はすでに、各国のスパイが跋扈している状態だったのだ。かつて私が懸念していた以上に、末期的な状況だったと言わざるを得ない。


「そうそう、ティエリーも聞いたかしら? アンダリア王国のこと」

「……」


 彼も知っているのか、ちらりと私のことを見た。


「……どうなったのですか?」


 思わずたずねた。


 ソフィー様は悠然と微笑みながら答えた。


「一度、滅んだらしいわ」




◇◆◇◆◇◆


「ハア、ハア、ハア……!」


 私――アドリアンは、逃げ込んだ深い森の中で、追手の影に恐怖を覚えながら肩で息を吐いていた。


「い、命だけは! た、た、助けてくれー!」

「ギャー!」


 遠くから、兵の断末魔が木霊した。


「くっ! まだ振り切れんのか……! おい! 貴様!」

「は、はいっ!」


 目に入った兵士を怒鳴りつけた。


「行け! 我がために、その身を捧げよ!」

「は……?」

「行け! 行かんかぁ! 行け! 行かねば、俺がお前を斬る!」


 剣を抜いて振り回すと、兵士は怯えた顔のまま、やけくそ気味に追手の方へ駆け出していった。


(逃げなければ……! このままでは……!)


 頭の中は鐘を打ち鳴らしたようにガンガンと響いていた。生まれて初めての死の恐怖に襲われていた。


「……うおっ!」


 森の中で足を滑らせ地面に倒れ込む。口の中に入り込んだ泥を吐き出す。


(至上なるこの私が……なぜ、こんな屈辱を……!)


 ――すべてが、狂っていた。


 歯車が狂い始めたのは――イザベルを処刑し損ねた頃からだっただろうか?


 収監されていたイザベルは、ある日忽然と姿を消した。


 侯爵家からも見捨てられ、誰も味方がいないはずの女が跡形もなく。しかもその日、看守や衛兵らが数名、同時に姿を消したと聞かされたとき、得も言われぬ肌寒さを感じたものだ。


 しかしまあ、あんな女のことはどうでもいい。


 望み通り、セリーヌを新たな婚約者に迎えた。そして、病に伏しがちだった父から王位を譲り受け、輝かしき新たな王となった。


 私にふさわしい至上の地位。さらに、あの退屈で無表情な女と違って、神に選ばれし聖女のごとき不思議な力を持ち、煽情的な肢体を持つセリーヌを妃に迎えたことで――我が栄光の時代が幕を開ける。そう思っていた。しかし。


 セリーヌが突然おかしくなった。


 王妃となった途端、「やったわ! ようやくエンディングよ!」などと意味不明な歓喜の叫びを上げると、彼女は贅沢三昧に明け暮れるようになった。かつて彼女が熱心に行っていた癒しの奇跡も、ぴたりと途絶えた。彼女の奇跡の力のおかげで体を保っていた父は、すぐに死んだ。


 それだけではなかった。


 セリーヌは、まるで急に性に目覚めたかのように、騎士団長や大臣、高位貴族、果ては若い騎士見習いに至るまで、誰彼かまわず籠絡しはじめた。


 私が咎めても、「ごめんね~。逆ハーレムなの。でも、アドリアンもちゃんと入ってるから、心配しないで!」などと平然と返され、唖然とするしかなかった。頭がおかしくなりそうだった。


 当然、国は大混乱に陥った。


 その混乱の最中、敵国から宣戦布告された。統制を失った軍は総崩れとなり、敵兵たちが王都にまで迫った。籠城を進言する声もあった。しかし、私は恐ろしくてたまらなくなり、結局逃げ出した。


 ちなみに、セリーヌは真っ先に逃げようとしたらしいが、男たちが彼女を奪い合った末に無理心中を迫られ、首を絞められて死んだらしい。セリーヌを殺した男は家に火を放ち、彼女の遺体と共に灰となった。


 そして、王都は敵の手に落ちた――。


(どうしてこんなことに……!)


『どうか、アドリアン様のお力で、この国の未来を導いてくださりますよう』


 ……歯ぎしりをした。


 あの生意気な無表情女の顔が浮かんだ。


 ――イザベル・パルマティア。


 あの女は、いつも妙に落ち着き払っていて、まるで二十も三十も年上の女と話しているようだった。顔つきは整っていたが、その面白みのない性格に、初対面のときからうんざりしていた。


 イザベルは何をやらせても優秀だった。王妃教育を担当した教師たちは、口を揃えて彼女を褒め称えた。面白くないにも程があった。私が教師たちに「職務怠慢だ。もっと厳しく教えろ」と叱りつけたら、側にいた母も強く賛同してくれた。


 しかしあいつは、不敬にも私に対して諫言するようになった。寛大な私も、ついに我慢の限界を迎えた。


『黙れ!!』


 私が怒鳴りつけると、イザベルはめずらしくオロオロした。その姿は、実に満足のいくものだった。その快感が忘れられず、その後も何度も罵声を浴びせては楽しんでいたものだ。


 どうせなら、処刑の瞬間まで見届けて愉しみたかった。まったく、惜しいことをしたものだ。


「ハア、ハア、ハア……!」


 この森を抜けさえすれば、隣国の領内だ。


「カルネリア王国まで逃げ切れれば……」


 かの国とは親密ではないが、険悪というわけでもない。


 至上の存在たる私のことを、きっと丁重に扱ってくれるだろう。




「――ど、ど、どういうことだ!」

「――!」


 獄衣のような粗末な服を着せられ縄で縛られた私は、大柄な兵士たちに両脇を固められ、無理やり歩かされていた。


「なんだ!? 私をどこに連れていくつもりだ!?」

「――!」


 引っ張る力を緩めないまま、兵士たちは何か言っていた。しかし、カルネリア語はさっぱりだ。


 ドアが開く――。


 そこは、王宮の一室だった。カルネリア王と王妃らしき者が中央に座り、他には文官や女官が数名控えていた。


「……」


 床に座らされた私のことを、カルネリア王が見つめた。


 ……穏やかそうな男だ。これなら交渉は容易いかもしれない、と思っていたら、彼はゆっくりと口を開いた。


「“元”アンダリア王、だな?」


 おお、我が国の言葉ではないか! ……“元”というのはよくわからんが。


「そうだ! 見ての通り、何かの手違いで縛られている! 助けてくれ!」

「……」


 カルネリア王は無言のまま、静かに私を見据えていた。やがて彼は、隣の王妃に顔を向けた。


「ソフィー。私はもう決めたのだが、そちはどう思う?」

「まあ陛下! アンダリア語でお話になるなんて、なんてお優しい!」

「ふっ」

「私からも特にはござりませぬ。ただ……」


 王妃は、側に控えていた一人の女官に視線を向けた。私もつられてその女を見た――。


「は……!?」

「……」

「イ、イ、イザ……!」

「……」


 幽霊を見ているのかと思った。


 しかし、冷たいまなざしで私を見つめるその女は、たしかに元婚約者だった。


 だがそこにいたイザベルは――かつてのような、痩せ細って血の気のない女ではなかった。女性らしい肉付きの体型に、艶やかな黒髪。頬は血色がよく、肌は陽に焼けて輝いていた。


 “傾国の美女”などと呼ばれていた冷たい美貌は影を潜め、健康的で魅力的な美女となっていた。


「イザベル! イザベルなんだな!?」

「……」

「あのときは君を助けてやれなくて、すまなかった! あれは冤罪だったんだ! セリーヌのせいなんだ! だがあいつは死んだ! もういない!」

「……」

「助けてくれ!!」


 彼女の漆黒の瞳はしばらく私を見つめると、やがて王妃の方へと逸らされた。そして彼女は――。


「――」


 何かを静かに、一言だけ告げた。


 王妃とカルネリア王は、うなずいた。


 イザベルの瞳は、もう私に向けられなかった。


(……?)


 私はカルネリア語がわからない。


「な……何を、何を言ったんだ?」

「……」

「な、何か言ってくれ! 私のわかる言葉で! 君の言葉を聞かせてくれ!」

「……」

「助けてくれ! イザベル! お願いだ!」

「――黙れ」


 カルネリア王の顔には、酷薄な色が浮かんでいた。


「アンダリア王国の王座に座る男の格が、どれほどのものかを一度見てから決めようと思っていたが……不要だったな」

「な、に……?」

「お主に質問だ――。なぜ……民を捨てて逃げた?」

「そ、それは……」

「そしてなぜ、母を見捨てた? お主の母は、暴動に巻き込まれて死んだらしいぞ。どうして置いて逃げた?」


 は、母……。


 自分が逃げるのに精一杯で、すっかり忘れていた。


「お主が選べるのは、ここで死ぬか、祖国に帰って死ぬかのいずれかだ」

「は……?」

「お主の首を、求められておってな」


 ――心臓を握り潰されたようだった。


 一方、カルネリア王は優しげな笑みを浮かべた。


「送り届ける荷物は、小さい方がよかろうな」


 兵士たちが再び私を無理やり立たせた。


 私の視界に映った最期の光景は――絞首台の上から見える、殺風景な石造りの壁だけだった。




◇◆◇◆◇◆


「いくよー!」

「よぉし! 思いっきり投げてみろ!」


 ブゥン。


 小さな男の子がお皿のようなものを勢いよく空に放つ。それは風に乗って空を漂い、大きな弧を描きながら草むらに落ちそうになる、が。


「よっと」


 まるで大型犬のような大柄な男は、滑り込みながら見事にキャッチしてみせた。


「こっちからいくぞー!」

「うん! 投げて! 投げて!」


 青い髪の男は太い腕をそっと振り、円盤を柔らかく空へ放った。すると、子どもたちは一斉にはしゃぎながら、その後を追いかけていった。


「イザベル様!」

「ケティさん!」


 草原で遊んでいる彼らを眺めていたら、一人の若い女性が声をかけてきた。ケティさんはこの孤児院の出身で、今は子どもたちの世話をしている。ケティさんのことは、彼女が子供の頃に面倒を見たことがあった。


「りんごのパイが焼けました!」

「うん!」


 バターのいい香りが、さっきからこちらまで漂っていた。


「それにしても……よく来てくださいました」

「ううん……。あ、そういえば――前にハンカチ、贈ってくれて……ありがとう」

「いいえ」


 ケティさんは優しげに笑った。この施設の子供たちは、以前から私宛に手紙などを定期的に送ってくれていたらしかった。けれど、その宛先だった実家や王宮は、そのことを私に一言も知らせていなかったのだ。


「これからは、カルネリア王国の方に送ってね! 私もティエリーも職場がそっちだから。ちょっと遠いけど……」

「はい! もちろんです!」


 ――私たちは、「里帰り」していた。


 王都が陥落して終戦条約が結ばれてから一年。祖国には平和が戻っていた。


 もちろん、何もなかったわけではない。


 全面降伏したアンダリア王国に対し、敵国は広大な領土割譲と莫大な金銭を要求した。アンダリア王国はそれをすべて受け入れた。


 王も変わった。


 アドリアンが死に、主な王族たちも命を落とすか逃亡したことで、遠縁にあたる王族の男が新たに王位を継いだ。彼とは一度顔を合わせたことがあるが、真面目で誠実な人物だったと記憶している。国の再建は容易ではないだろう。しかし、少なくともアドリアンに比べれば、はるかに希望が持てるはずだ。


 ……家のことは知らない。


 私は「死んだ」のだから。


 ただ、敵国に奪われた領土は商業の要となる極めて重要な州だった。その地域の商いで大きな収入を得ていた実家が、ただで済むとは思えなかった。


 それに、亡き母が眠る場所は母の実家の方にある。お墓参りだって問題ない。


「みんなー! おやつよー!」

「はーい!」


 ケティさんが子どもたちと手をつないで帰る姿を見つめた。


 この王立の施設は、今のところどうにか存続できている。だけど、未来を見据えて、何か経済的な支援をしてあげられないだろうか……。


 そんな風に思っていたら、大男がぬっと現れた。


「イザベル」

「あ、ティエリー。パイ、焼けたらしいわよ」

「ああ、腹が減ったな」

「私も!」

「あ、そうだ」


 ティエリーは、さっき子供たちと投げ合っていた円盤を私に見せた。


「だいぶ軌道は安定するようになったぞ。それに前よりも軽くした。これなら、子供たちに怪我の心配もないだろう」

「ありがとう!」


 彼から受け取った円盤を見つめる。


 ――それは私が発明した玩具だった。


 ある日、ティエリーを見ていたら、なぜかふと思い付いた。


 ボールのようでいて、もっと平たい玩具がないものか……。そんな玩具がこの世界に存在しないのはおかしいという、理由はわからないけれど、漠然としながら強い疑問が沸き起こったのだ。


 ティエリーに相談したら、器用な彼はさっそく木を削って皮を張り、果ては魔法まで駆使して、大きめのお皿のような玩具を試作してくれた。


 さすが皿男だなって思った。


 ちなみに、私がその実物を初めて目にしたとき――なぜかまた、例の頭痛の発作が起きたのは秘密だ。彼を心配させたくなかった。


「――イザベル」


 冷たいアイスブルーの瞳が私を映していた。


「なあに?」

「……王妃に、なりたかったか?」

「え……?」


 草原に吹く柔らかな風が私の頬を撫でた。


 髪をかき上げながら、思わず苦笑してしまった。


「全然」

「……」

「私ね、今みたいな生活を、ずっとしたかったの」


 昔からずっと、息苦しくてたまらない自分の生き方に違和感を抱いていた。


 でも今は、しっくりきていた。


「ティエリーもいてくれるしね。今よりいい人生なんてないわ」

「……」


 彼は私の肩にそっと手を置いた。


「なら、結婚してくれ」


 いつも無骨で、無口な彼。


 雰囲気なんて、かけらもない。


「……」


 胸がいっぱいになりながら頷こうとしたら、彼は急に懐を探った。


 でてきたものは――。


 白薔薇。


 ……前言撤回だ。


 涙をこらえながら頷いた。


 すると彼が私を抱き寄せて。


 顔を寄せ――。


「あー!」


 突然、声が響いた。


「チューしてるー!」

「チューだ! チューだ!」

「キャー! エッチー!」

「コラッ! 見るんじゃない! お前たちのパイも食っちまうぞ!」


 大男に追いかけられ、笑いながら逃げていく子どもたちの姿を見送った。




 その後、私はカルネリア王国で生涯を過ごすことになった。


 ティエリーとの間には五人の子供を授かり、毎日にぎやかで幸せだった。


 子どもたちを育てながら――私は次々と玩具を発明していった。理由はわからないけれど、アイデアが泉のように次々と湧いてくるのだ。試作品を作るときは、いつもティエリーが手を貸してくれた。


 何か閃くたびに頭痛はしたけれど……。


 でも、アイデアには「産みの苦しみ」がつきものだしね。


 そんなある日、ティエリーが「玩具を売ってみないか」と言い出した。ソフィー様のお子さまたちが、私たちの作った玩具をとても気に入っているというのだ。


 半信半疑で始めた販売だったけれど、玩具は予想を遥かに超えて売れた。


 すぐに類似品が出回った。でも、ティエリーが徹底して工夫を重ねてくれたおかげで安全性と品質は一番だったし、ソフィー様からのお墨付きもあり、私たちの商品は人気を保ち続けた。


 おかげで、アンダリア王国の施設への寄付にも困らなくなった。ティエリーの提案で、王都の一等地に立派なお屋敷を構えた。莫大な財を成していく中で、特に売れ行きがよかったのは、お皿の玩具だった。


 そのため後年になって――。


 私たちの住まいは「皿屋敷」と呼ばれ、王都の観光名所になった。










お読みいただき、本当にどうもありがとうございました!

実際にされたことはないのですけれど、素敵なバーで「――あちらのお客様からです」(横からグラスがスッ)のようなロマンチックなシーンを、書き始める前はイメージしていました。

ところが、ヒーローが回転寿司男になってしまいました。どうしてこうなった……。

楽しんでいただけたなら嬉しいです! また下の☆から評価をいただけましたら嬉しいです! 引き続きよろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
本文以上にあとがきが傑作な作品でしたw
絶対数が足りなくならない皿屋敷! 平和で素敵です(笑)
妖怪回転寿司男(笑) 王太子は能力と人格に反比例する血筋だったのが不幸というか。
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