episode03:記憶は重く、名はまだ軽く|了
※前話の戦闘後すぐの続き──リコが帰還報告を終えたあと。
カプセルが開いた。
シールドベッドの表面に霧が散り、冷却チューブがゆっくりと外れる。呼吸音、心拍データ、筋肉反射――すべてが計測可能域に収束したのを見計らって、ベッド脇のオートアームが静かに離脱していく。
アッシュは目を開けた。
それが“意識を取り戻す”という行為だったのかどうか、自分ではわからなかった。
ただ、目の前に映る文字情報が、視界に滑り込んできただけ。
《RELIC DATA STREAM:ACTIVE》
《同期:998/998》
《現在統合率:18%》
気持ち悪いほど、完全だった。
誰かが勝手に呼吸し、歩き、敵を殺す。その一連の“運用”を、自分の神経と筋肉が淡々とこなしていく。
――誰がやってる?
そんな問いは、もう何度目かもわからない。
それでもアッシュは、毎回そう思う。
「ラストナンバー、コンディション正常。生体パラメータ異常なし」
横に立っていた白衣の男が、モニターに目を走らせながら淡々と呟く。
彼の名は〈メイヴィス博士〉。RELIC開発班の中心技師。アッシュを“兵士”ではなく、“ユニット”と見ている数少ない存在のひとりだった。
「体調は?」
「問題ない」
「そう、なら次の戦域には……」
「……一時間、休ませてくれ」
アッシュはそう言った。
それが“人間としての感情”から来た言葉だったのか、自分でもわからない。
ドアの外で、数人の兵がこちらを見ていた。
無言。だがその視線は、尊敬でも憧れでもなかった。
《理解不能》という拒絶と、《畏怖》という沈黙だけがそこにあった。
――俺は、もう“普通”ではない。
それは、誰よりも自分がよく知っていた。
スーツを脱いだ背中には、無数の転写痕が残っていた。
RELIC素子の繰り返し接続による痕跡。998人分の記憶を同時に流し込み、出力するための代償。
痛みはない。
だが、誰かの死に際の叫びが、耳鳴りのように残っていた。
「……何人目だった?」
独り言のように呟いた。
だが、返ってくる声はない。
*****
演習施設の食堂は、戦闘帰還後の兵士たちで賑わっていた。
酸化剤の匂いに慣れた鼻には、合成チキンの香りすらごちそうに思える。
リコ・エルネストは、トレイを持ったまま立ちすくんでいた。
小柄な体を少し縮こませ、空いている席を探すも、どこも泥だらけの迷彩服で埋まっていた。
──あんなもの、見た後で食事なんてできるわけないじゃん。
頭の片隅で、そうぼやきながらも、結局一番奥の隅に腰を下ろす。誰もいない、ひとり席。
今日の任務は「索敵と爆破による拠点制圧」だったはずだ。
自動予測では、損耗率0.7%。訓練任務に毛が生えたような低リスク作戦。
それが、始まって10分もしないうちに──地獄に変わった。
最初の爆音は、分隊の右側からだった。
通信を繋ぎっぱなしだったリコの耳に、誰かの断末魔が鋭く刺さった。
「回避! スモーク、遅っ……!」
「援護要請! もう抜かれ──」
「嘘、どこから……!?」
モニターの上では赤いアイコンが、次々に灰色へと変わっていく。
訓練で見慣れたインターフェースが、こんなにも無機質に感じたのは初めてだった。
それでも、“彼”だけは違った。
部隊が壊滅した直後。
センサーにも映らない高速機動で、敵戦力が一人、また一人と崩れていった。
射撃軌道が直線ではなかった。
まるで、未来の動きが見えているかのような“軌跡”だった。
射撃支援装置がない?
……じゃあ、どうやってあの曲線軌道を?
データを再確認しても、あり得ない速度・反応・制御。
──正規の訓練では、あんな動きは絶対にできない。
「お前、新入りだろ」
声をかけられて、リコは肩を跳ねさせた。
食堂の反対側から、司令官のアーバ・デリス中佐が近づいてきていた。
「見たんだな。アッシュの出撃」
「は、はい……少しだけ」
「あれでも、今回は軽いほうだったよ」
リコは思わず問い返す。
「彼って……何なんですか? さっきの動き、人間じゃ──」
アーバは笑わなかった。ただ、短く息を吐いた。
「“ラストナンバー”。記憶継承計画《RELIC》の最後の被験体。No.999」
リコの頭に電撃が走る。
《RELIC》──戦死者の“戦闘時記憶”を、他の兵士に引き継ぐという非人道的プログラム。
英雄の名を借りたデータの継承。痛みや死を、再利用する技術。
「けど、彼だけは特別だ。普通は3スロットで限界だが、彼は……998人分すべてを同時に保持してる」
「え、それって──どうやって……」
「本人に聞いても、分からないだろうな。自分が何人分の“誰”なのか、区別がついてないってさ」
それはつまり、今目の前を歩いているあの男は──
“自分が誰かも、もう分からない状態”で、戦っていたということか。
リコは言葉を失った。
そして、ようやくひとつだけ、自分の中に答えが浮かんだ。
──彼は、空っぽなんかじゃない。
むしろ……溢れている。
アッシュ・クレイド。
人類が“死”の果てに創りあげた、最終戦術兵器。
その背中に、今日も誰かの死が、焼き付いている。
*****
──治療棟、第2観察室。
《RELIC DATA STREAM:ACTIVE》
《同期:998/998》
《現在統合率:18%》
端末のログイン画面に、そんな冷たい文字列が点滅していた。
リコ・エルネストは、資料搬送の帰り道、廊下の奥の治療室で偶然その姿を見かけた。
戦闘記録を見返しても、未だに信じられない。
分隊が壊滅し、何もかもが終わったと思ったとき、**“彼だけが”**生き残っていた。
いや、正確には――彼だけが、すべてを殲滅していた。
あの惨状の中心にいた存在が、今こうして、静かにベッドに腰掛けている。
背は高く、痩せすぎず、均整のとれた体格。
だがどこか、線が細く見えるのは、包帯のせいか、それとも……
「……えっと、その、すみません。わたし、戦闘後処理班のオペレーターで……その……」
リコは慌てて胸元のIDタグを示しながら、所在なげに言葉を探した。
「……先日の作戦で。わたしがもっと早く、伏兵に気づけていれば……あんなことには……」
青年――アッシュ・クレイドは、その名に違わぬ灰色がかった瞳をゆっくりと向けてきた。
「君のせいじゃないよ。あれは、予測できる類じゃなかった」
優しい声だった。
表情は淡々としているが、冷たくはない。どこか……壊れかけた硝子のような、繊細さが滲んでいた。
リコは、目の前の人物と、先日“視界越しに見た兵器”を重ねようとしたが――うまく一致しなかった。
あれほどまでに完璧で、人間味のかけらもなかった存在が。
今は、こうして穏やかな声で、自分を気遣ってくれている。
「……なんというか、先日の戦闘で見たあなたと、今こうしているあなたが……まるで別人みたいで」
リコは言い淀み、視線を泳がせた。
「本当は……あのとき、兵器みたいに見えて。でも今は……普通の、同い年くらいの人にしか見えなくて……ごめんなさい、変なこと言って」
アッシュは、ふっと目を細めた。わずかに、笑ったようにも見えた。
「統合率は、まだ18%。今のところ、“俺”が前に出てる時間が多いからかな」
「……統合、率?」
「《RELIC》。998人分の戦闘記憶が、俺の中で同期されていてさ」
それは、遠い場所を見つめるような口調だった。
「でも今は……まだ、“俺だけ”で存在出来ているのだと思う」