第九話「完璧でない設計図」
朝十時。都市設計局最上階オフィス。高層ガラス越しに見下ろせば、環状都市の光輪が淡く煌めき、浮遊都市の中央塔が凛とそびえ立つ。その光景は、まるで都市全体が一つの精密な機械のように映る。
駿は広い会議卓に向かって座り、目の前の巨大ホロパネルに浮かび上がる設計図面を凝視していた。複数の補助ウィンドウが重なり合い、エテルナ・コードの最新統合設計案が次々と更新されていく。
その背後で乃愛が少し離れて見守っていた。
「……駿、本当にこれでいいの?」
駿は答えずにわずかに眉を動かすだけだった。
目の前の設計画面には、これまでの計画とは決定的に違う思想が組み込まれていた。完璧な制御を前提にした一本化設計ではない。A系統とB系統、二重の安全領域を持つダブル系統設計。異常が発生した際には即時に系統切替を行い、負荷分散と自己修正を可能とする柔軟設計――“エラー前提”の制御構成だった。
それはつまり、駿自身が長年固執してきた「完璧な一本化制御」からの明確な転換を意味していた。
「駿、今ならまだ全面設計に戻せるよ? 誤差ゼロ設計はあなたの目標だったはずじゃない?」
乃愛は静かに問いかける。決して責める口調ではなく、あくまで確認するように。
だが駿はゆっくりと答えた。
「……完璧ではなく、“完成に辿り着くための最適解”を選んだ。それだけだ」
彼の声はわずかに苦みを含んでいた。
「確かに、エラーを許容する設計は理論としては“完全”ではない。だが、実際に都市炉の構造欠陥まで浮かび上がってきた今、理想論を貫く意味はない。現実が常に誤差を含むなら、その誤差ごと制御する構造が最も合理的だ」
「……そうだね」
乃愛は優しく頷いた。
「間違えたらすぐ訂正する。それをシステムに埋め込んだんだよね。駿が作った“完璧でない設計図”は、むしろ一番進化的かもしれない」
駿はふっと息を吐いた。
「今回の試験で証明するさ。これが正しい道だと」
そう言ったとき、扉が開いた。
入ってきたのはステラだった。軽快な足取りでホロパネルを覗き込み、にやりと笑う。
「おお、ついにお披露目だね! やっと“安全余白”付きの設計にしてくれたんだ?」
「速さだけを追い求めるパイロットにはありがたいだろうな」
駿が皮肉交じりに言うと、ステラは軽く肩を竦めた。
「当然! だって私の本番飛行なんて、予想外の連続だもん。失敗が怖くない設計、大歓迎だよ!」
その無邪気な笑顔に、駿は小さく苦笑した。
「だが、油断するなよ。安全設計だからといって、限界を越えた無茶は依然として許されない」
「わかってるって!」
ステラが明るく返事をしたその時、端末が小さく音を立てた。設計局本部からの通知だった。
『評議会より通達。新規設計案、条件付で暫定承認。再試験日程は維持』
「……通ったか」
駿は低く呟いた。
いよいよ次は再試験――すべての努力を賭けた実証の場が目前に迫っていた。
その頃、同じ設計局の整備区画では、有紀が早速新設計に基づく部材調整を始めていた。旧型操縦フレームのノウハウが活きる細部補強、微妙な寸法の補正、関節部の応力逃がし構造――すべてが彼女の得意分野だった。
「A/B系統の切替か……面白い考えね。普通なら操縦負荷が増えそうだけど、乃愛が副操縦席に入るなら対応できるか」
小声で確認しながら、工具を次々と手に取る。彼女の横で歩が補助作業をしていた。
「細かいパーツ調整、やっぱ有紀さんが一番速いなあ。俺なら倍は時間かかる」
「寸法誤差ゼロコンマゼロ一。妥協しないのが私の流儀だから」
さらりと言うその横顔には、かつての焦燥はもうなかった。過去の栄光を超えられない悩みは、今では“今の自分の技術”として消化されている。
「でも……変わったよね、有紀さん」
「変わった?」
「うん。前なら駿と衝突するばかりだったけど、今はこうやって調整案を出し合って、みんなで折り合いつけて進んでる。妥協じゃなく“改善”って感じ」
歩の素直な言葉に、有紀はわずかに照れたように視線を逸らした。
「……ま、進化してるってことにしておくわ」
歩が笑い、有紀も小さく笑った。
工房の片隅では、悠が最終安全試算の補正計算を進めていた。先日、乃愛と重ねた議論が確実に活かされている。
「臨界振幅値、収束率良好。切替判定遅延も許容範囲……これなら大丈夫」
呟きながら、慎重に新しい演算結果を上書きしていく。
その奥で、タイラーは静かに試作機のコアユニットを見つめていた。冷たいようで、だが確かにそこには“慎重な期待”が滲んでいる。
「……完遂する」
低く小さく、自らに言い聞かせるように呟いた。
彼はまだ感情の制御を試みていた。だが、この仲間たちと過ごす中で、その頑なさにも少しずつ柔軟さが芽生え始めていた。
――こうして、誰もが自分の役割を果たしながら、新たな“完璧でない設計図”が確かに形を成していく。
そして、再試験まで残された日数は、わずか四日となった。
(第九話 完)