第二話「午前三時の妥協点」
――午前三時。静まり返った下層リング管制局フォーラム。眠りに包まれる都市の片隅で、わずかに煌めく魔導照明が人工大理石の床を照らしていた。足音一つ聞こえない廊下を、凌平はゆっくりと歩いていた。
静かな夜は嫌いじゃない。
いや、むしろ好きな部類だ。考えを整理するにはうってつけの時間帯だ。
だが今夜の彼は、心の中に微かな重みを抱えていた。
「……まったく、駿のやつ。あそこまで追い込むかねぇ」
思わず小さく呟く。今日の飛行試験――いや、正確には昨日深夜の試験――は紙一重の大失敗だった。緊急ブレーキ結界が間に合ったから良かったものの、あのままなら試作機ごと吹き飛んでいたかもしれない。
とはいえ、今さら責めるつもりはない。駿の性格も、目的も、痛いほど理解している。
だが「完全性の追求」と「現実的な完成」は時として相反する。今の彼らに必要なのは、確実に“動く”エテルナ・コードだ。
凌平は管制局フォーラムの大扉を押し開けた。
そこは夜間シフトの資材調整部門が集う場所だった。フォーラム中央には巨大な透明魔導板が設置され、都市中の資材在庫と流通記録がリアルタイムで更新されている。資材局の担当官たちが仮眠交代しながら無言で作業を続けていた。
その中央に、一際目立つ若い男が立っていた。
「おや、こんな時間に?」
薄く笑いを浮かべたその男――資材局調整官リーベルだ。凌平とは何度も折衝を重ねた顔馴染みだが、性格は正反対だった。彼は一切の妥協を許さない“原則主義者”だった。
「例の飛行試験、随分派手だったようだね?」
「まあな。けど、奇跡的に破損率は四十四パーセントで済んだ」
「奇跡は帳簿を埋めない。部品は足りるのか?」
「だから、来たんだよ。再構築計画を立てたい。融通できる素材の確認をさせてくれ」
リーベルは苦笑し、透明板に手をかざした。魔導光が走り、必要パーツのリストが自動的に投影される。
「要件は?」
「補修用のアルミリア合金板、三号高弾性支持材、連結ジョイントC型を優先に――」
「駄目だ」
食い気味に切り捨てられた。凌平は眉を動かさず、静かに反論する。
「理由を聞こう」
「今週分は既に中央リング第八整備塔へ回している。航空防壁の更新案件が最優先だ」
予想通りの返答だった。リーベルは都市の安全保障を盾に取る。だが凌平は怯まない。
「……現実問題として、そっちの防壁計画は設計変更で稼働が一週間遅れている。整備班の段取りも明日からだろう?」
「計画遅延は認めるが、だからといって優先度は変わらない」
「なら、こうしよう」
凌平はゆっくりと小型端末を開いた。そこには、先ほどまとめたばかりの試作機修復シミュレーションが映っている。
「全補修を要求してるわけじゃない。必要なのは『落ちる所』だ。機構保存を優先して部分修復で組み直せば、材料消費は半分以下に抑えられる」
「部分修復……?」
リーベルが訝しげに眉をひそめた。
「仮に結晶コア周辺部を既存の外郭構造で囲い直すなら、C型ジョイントは最小数で済む。高弾性支持材も一部既存流用可能。残りの不足分は、旧式パーツからの転用で対応する」
凌平の声は穏やかだが、計算は容赦ない。相手の隙を突くのが交渉の基本だ。
「……君は相変わらず“落とし所”を探すのが上手い」
「生き残るためにはね。俺たち、もう背水の陣なんだ」
しばしの沈黙の後、リーベルがため息をついた。
「……わかった。ただし、記録には“イレギュラー対応”として残すぞ。これが続くようなら議会審査案件に上がる可能性もある」
「それは構わない。今は先に進むだけだ」
交渉成立。凌平は小さく胸を撫で下ろした。
だが、完全に肩の荷が下りたわけではなかった。素材調達は整えた。次は、その素材で“どう組み直すか”だ。
フォーラムを出た凌平は、その足ですぐに別の部屋へ向かった。アスフォデルの中枢でも特に情報の集積が集まる――議事録保管室だ。
部屋の中は、深夜とは思えないほど明るかった。巨大な魔導記憶台帳がずらりと並ぶ。ここに過去十年間のすべての都市議事が記録されている。
その中央に、見慣れた背中があった。
「伊織!」
声を掛けると、伊織は驚くでもなく、くるりと振り向いた。小柄な体に真面目な整備服を着込み、手元の端末を器用に操作している。
「凌平さん。……もう素材交渉は終わったのですか?」
「ああ、最低限は確保した。だが、まだ困ったことがある」
「どのように?」
「設計局の補修承認には、過去議事から『類似事例』を提示しなきゃならない。今の俺たちの再構築プランが前例なしでは、たぶん潰される」
伊織はこくりと頷く。すでに理解していたかのように。
「では、探します。きっと似た折衷設計の承認例は残っているはずです」
彼は席に戻ると、素早く台帳の操作に取り掛かった。魔導記憶台帳は手動検索も可能だが、伊織はその驚異的な記憶力を駆使して高速抽出を始めた。
「……ありました。六年前のリング第九浮遊艦修復事例が近いです。浮遊制御核の外郭保存優先で、支持構造の簡略化が承認されています」
「さすがだな、伊織!」
凌平は自然と笑みが漏れた。これで道は開ける。
だが伊織はさらに慎重だった。
「議事内容そのものでは不十分です。承認当時の反対意見も抽出し、説得材料に使いましょう。“反論の潰し先”も事前に整理しておいた方が安全です」
「そこまでやるか……いや、助かる」
彼の冷静で正確な整理能力は、凌平から見ても毎度ながら恐れ入る。
「論点整理、残り五件。あと十五分ください」
「わかった。お前が仕上げるなら、俺はその間に設計案の微修正を進めておく」
二人は夜更けの作業に没頭した。静まり返った室内に、端末操作音だけが続いて響いている。
やがて、十五分後。
「完了しました」
伊織が微笑むことはない。ただ、淡々と事実を報告するのみ。
「反論候補二十三件、対策済み。全承認パターンへの誘導ルートも構成済みです」
「完璧だ。これで審査も通る」
凌平は大きく息を吐いた。危機の中で冷静に歩を進める。それが彼らのやり方だった。
――午前三時。
フォーラムの外に出ると、夜の冷気が肌に心地よい。
「……さて、これで再構築計画が本格スタートだ」
彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
エテルナ・コード。失敗と危機の中でこそ、進化の道筋は見えてくる。完璧ではなく、現実的な最適解――それを積み上げてこそ、本当に空を駆ける日が訪れるはずだ。
(第二話 完)