第一話「飛翔試験、失墜の午前零時」
天空に浮かぶ都市国家を縁取るように広がる巨大なリング。その一角にそびえる第七実験塔のスタジアムに、冷たい夜風が吹き抜けた。春休み前夜、日付が変わってちょうど零時を回ったばかりだ。だが、その静けさの中にもわずかな緊張が漂っている。
リングの中心に設置された発進台に、漆黒の機体が鎮座していた。曲線美を持つ流線型の胴体に、薄く広がる翼。コア部にはまだ正式登録すらされていない魔導機――〈エテルナ・コード〉試作機零号。
モニター室の中で、少年は正面の巨大スクリーンをじっと見つめていた。
「――行くぞ」
駿は自らの声で自分を鼓舞するように言った。肩に掛けた技師用ケープがわずかに揺れる。青白い照明の下、少年の瞳は鋭く細められている。彼の脳裏には数え切れないほどの試算結果が浮かび、重なり、そして排除されていった。
完璧を目指すのは当然だ。
そうでなければ《輪環航路》の夢に届かない。
「確認、全系統スタンバイ完了。魔導コア、出力レベル設定……」
「おい、駿。出力、また上げたのか?」
背後から投げかけられた声は、静かに、だが確かに警鐘を鳴らしていた。振り返ると、仲間の凌平が額に手を当てていた。
「ここまで来たら微調整でも削れない。限界性能を見極めるのが今日の目的だろう」
「だが、試験飛行はあくまでデータ収集が優先だ。いきなりトップスピードを狙うのは危険すぎる」
凌平は妥協点を見出す男だった。衝突ではなく、歩み寄りで結果を作る。それが彼のやり方だ。だが、駿にはその余裕がもどかしい。
凌平の隣には、乃愛がそっと控えていた。彼女は手にしたデータパッドをじっと見つめ、小さく首を傾げる。
「駿、設定パラメータの偏差、さっきより増えてるよ。もう一度計算し直そう? このままじゃコアの過負荷リスクが高いまま……」
「問題ない」
即答だった。だが、乃愛の目が一瞬揺れる。彼女は間違いを認めるのが早い性格だ。今もその本能が働いていたのだろう。
だが駿の思考は、すでに先のシミュレーションに浸かっていた。完璧に制御すれば、暴走など起きないはずだ――理論上は。
管制席のオペレーターが淡々と告げる。
「試作機、起動開始までカウントダウン。Tマイナス30秒」
深呼吸する駿。その横で、乃愛が小声で呟く。
「私、エラーをリセットする準備はできてるから」
駿はわずかに目を細めた。
乃愛の冷静さは、時に彼の信念を揺らしかける。だが今は、その言葉すら背後に押しやる。
大画面に映し出された試作機の両翼がゆっくりと展開し、輝く魔導パターンが走った。螺旋を描く光の筋が美しく夜空に映える。都市中央に浮かぶ天文塔の反射光が淡く照らしている。
「点火」
駿が低く命じた。
次の瞬間、魔導コアが唸りを上げ、推進部から眩い青白い噴射炎が迸った。試作機はゆるやかにプラットフォームを離れ、空中へ浮上する。
だが。
「――機体の安定センサー、揺らぎを検出!」
「パターン振幅が閾値突破! 駿、これ――!」
「まだだ」
駿の声が鋭く走った。揺らぎは許容範囲内、彼の計算上では。
だが、数秒後。管制卓の警報がけたたましく鳴り始めた。
「振動臨界突破! 回転ブレード共鳴開始! 収束できません!」
「やっぱり――リセットするよ!」
乃愛が即座に緊急リセットパネルへ指を伸ばした。その瞬間――
「駿!」
凌平が割り込んだ。手には別端末が握られている。即座に高速演算結果が画面に投影された。
「緊急ブレーキ結界を張る! 三重補助陣を重ねるから、同調して!」
「了解ッ!」
二人の手が同時に駆ける。重力制御式の魔方陣が次々に描かれ、空中に展開されたフィールドが試作機を包み込んだ。
ゴォォォォォォォォン!
甲高い共鳴音とともに機体は失速し、衝突寸前で浮遊を保ったまま、地面へとゆっくり沈み込んだ。煙が立ち上り、試験場の空気が震えたまま、静寂が戻ってくる。
深夜の管制室に、しばし無音の時間が流れた。
「……着陸、確認。機体ダメージ率、推定四十四パーセント」
凌平が呟く。だが、それは致命傷ではなかった。むしろ、ここまで破損率を抑えたこと自体が奇跡に近い。けれど駿の顔は曇ったままだ。
「……完璧じゃない」
自嘲気味に絞り出した言葉だった。制御不能に陥りかけたのは事実だ。結局、凌平の緊急結界がなければ爆散していた。
その現実が胸に突き刺さる。
「でも、爆散はしなかったでしょ?」
乃愛が静かに言った。
「あなたの計算が、あとほんの少しズレてたら、私たち、今ここに立ってないよ」
その声には責める響きはなかった。ただ事実を述べているだけ。それが逆に駿には堪える。自分の慢心――完璧を優先するあまり、乃愛の忠告を退けたこと。認めざるを得ない。
扉が開き、技術監査の役人が足早に入ってきた。都市評議会直属の検査官たちだ。
「……お疲れ様。試験データはすべて回収済みだ。都市安全法第九十三条に基づき、試作機の稼働権限は一時停止となる」
無機質な声が告げる現実。評議会の後ろ盾がなければ、試作は進められない。
「だが、緊急対応が迅速だった点を評価しよう。評議会より通達。再試験猶予、三週間」
検査官の言葉に、室内の空気がわずかに動いた。完全停止ではない。まだ、希望は繋がった。
駿は拳を握りしめる。指先が白くなるほど強く。
「三週間……か」
短い。だが、やれる。やるしかない。
検査官たちが去った後、凌平がふぅと長く息を吐いた。
「まったく、お前ってやつは……限界ぎりぎり攻めすぎなんだよ。正直、肝が冷えたぞ」
茶化すように言いつつも、その声音には確かな安堵が滲んでいた。乃愛も隣で微笑む。
「でも、凌平の結界が間に合ったのは奇跡的だったよ。もし次は――」
「次は、こうはならない」
駿が遮るように言った。その目には新たな覚悟が宿っている。
「……失敗を繰り返さないのが、完成への道だ。乃愛、今日のデータを整理しておいてくれ。凌平、損壊部分の修復プランは明日朝に詰める」
「おいおい……さすがにもう寝ようぜ。徹夜明けなんだぞ?」
「休んでる時間はない」
言い切る駿に、凌平は肩をすくめ、苦笑した。
「ほんと、お前はブレねぇな。わかったよ。けど、一時間だけは寝ろよ。倒れたら意味ないからな」
そのやりとりを見て、乃愛が小さく微笑む。
「うん。データ整理は私に任せて。すぐまとめるから」
春休み前夜の静かな実験塔。その夜空には、まだ淡く輪環都市の光が輝いていた。
だが彼らの目には、その向こうにある理想の完成形が、確かに浮かんでいる。
誰もが胸の奥に同じ問いを抱いていた――あと三週間で、果たして“完全”に辿り着けるのか、と。
(第一話 完)