証人喚問➁
そういう訳で、惚れ薬の出どころを聞きだすべく、オレリアを自宅に呼び出したのだが・・・・・。
「うそよ、うそ。あたしそんなもの入れていない!確かに、あたしは何を作っても黒焦げになるけど・・・・・あれはあたしの料理の中でもかなりよくできたものを贈ったのに。さては、あんたが入れ替えたのね!」
オレリアは逆上すると手が付けられない部類の人間であった。しかも、こちらの真意をどう解釈したのか、さっきからずっとわけの分からない言い掛かりを展開してくる。口を挟む隙を一切与えないので、反論するのも至難の業だ。
オレリアが紅茶で口を湿らせたタイミングを見計らい、アルエットは反撃に打って出る。
「そう。あなたは、わたくしが差し入れの中身を入れ替えたと思っているのね。でも、どうしてわたくしがそんなことをしたと思っているの?」
アルエットは極めてやんわりと、へつらうでもなだめるでもない絶妙な声音で語り掛けた。相手を落ち着かせるには、相手の発言を繰り返すのがいいらしい。前世で『今日からできる!モンスターカスタマー撃退のコツ100選』という本を読んでおいてよかった。まさかこんなところで役に立つとは。
だが、さしものクレーム対策本も屁理屈の権化相手には役に立たないらしい。
「理由?そんなの分かり切ったことじゃない。クロードさまに近づくあたしに嫉妬したんでしょ!みんな言っているわよ。今、学園では、あなたとロビンとクロードさまが三角関係だっていう噂で持ち切りで」
淑女のたしなみを忘れ、盛大に紅茶を吹き出すアルエット。テーブルクロスとドレスが二つ仲良く台無しになった。どうして今日に限って白なんて着たのか。
「・・・・・なぜそうなる」
アザゼルはアザゼルで、ティーカップを握力だけで粉砕して紅茶まみれになっていた。それから首だけを、油の切れた機械人形のような仕草で動かして、クロードをにらみつける。
「お前はまんざらでもない顔をするな。その鼻へし折ってやろうか」
有翼の蛇に睨まれたクロードはがたがたと震え出し、助けを乞うようにこちらを見る。元はと言えば、極端な行動を取って周囲に誤解を植え付けたのはクロード本人だ。自業自得なので、アルエットはそのまま放っておくことにした。
「そればかりは誤解だから強く否定させていただくわ」
アルエットはハンカチで服に着いた紅茶をぬぐいつつ、自分とアザゼルの分だけの誤解をすみやかに撤回しようと目論む。
「嘘つきなさい!あんたは悪役令嬢のくせにヒロイン気取りじゃない。本来鬱陶しがられていなきゃいけないはずの王子から大事にされるだけで飽き足らず、モブキャラの尊敬まで一心に集めちゃってさ。あんたが逆ハーレムなんておこがましいのよ」
「おい、無駄口しか叩けないならその舌引き抜いて新しいのと取り換えてやるぞ」
アザゼルは頬杖をつきながら言った。髪の毛の一房が立ち上がり、黒々とした蛇に姿を変える。蛇はビーズのような赤い目を爛々と輝かせ、鎌首をもたげてシャーッとオレリアを威嚇した。欲しい情報に中々辿り着けないので、かなり苛々している様子だった。
オレリアは顔を歪めてせせら笑った。ラスボスを前にしても怖くはないらしい。
「ほら、ラスボスまでたらしこんじゃって。どうせ・・・・・ええと、なんだっけ、名前忘れたけど、秋くらいから出てくる文豪みたいな人と、あんたの弟も攻略済みなんでしょ」
はっきり言っておくがアルエットにショタコン趣味はない。アルエットは一口紅茶をすすってから答えた。
「わたくし、実の弟に恋愛感情を抱いた覚えなどありませんわ」
言葉尻に小さな棘を紛れ込ませてしまったのは淑女失格だろう。しかし本日ばかりは、それも仕方のないことに思われた。
ああ言えばこう言う。何を言っても「アルエットが悪い」「自分は計略の被害者だ」の一点張りだ。こちらの話も聞いてくれない。これでは建設的な話し合いなどできるはずがなかった。
「おい、それは自供と捉えて構わんな。転生者である上に、邪神教団とのつながりもある。ロビン殺しの容疑者にぴったりだ」
半ば椅子を蹴飛ばすように、アザゼルが立ち上がる。地に落ちた影がうごうごと動いて、十一の蛇を形作った。オレリアも負けじとテーブルを叩き、勢いよく椅子から立ち上がる。
「だーかーらー、あたしはそこの性悪と違うわよ。あたしは推し以外どうでもいい派なの」
「きみ!今の発言を撤回し給え!」
勇気を出して発言するも、双方から黙殺されるクロード。
「よくもアルエットを性悪と言ったな。この減らず口」
「何よ、あんたあの女の肩を持つ気?すっかり骨抜きにされちゃったわね。最強の堕天使が恥ずかしいと思わないの?」
「わたしの身の振り方について、お前にとやかく言われる筋合いはない」
「それはこっちのセリフですぅー」
おまけに堪忍袋の緒が切れたアザゼルが舌戦に参加したので、事態はもはや収集がつかない方面に進んでいこうとしている。アルエットは特濃のため息を吐き出した。
そんなアルエットの様子を見かねたのか、ついにクロードが動いた。
無事だった方の手を伸ばし、オレリアの手首をつかむと、自分の方に引き寄せる。そして、真剣な顔でオレリアの瞳をじっと見つめる。
「オレリア嬢。僕の頼みを聞いてくれないか」
「なあに?クロードさま」
オレリアは先程の鬼気迫る形相から一転、恋する乙女の挙動になる。その様子を、アザゼルは死んだ目の薄笑いで黙って見守っていた。相変わらず人の情動そのものを馬鹿にしているが、状況はちゃんと弁えていて、茶々を入れる気はないらしい。
「僕はただ、真実が知りたいだけだ。きみに恥をかかせるつもりもなんて初めからない。だが、それを成し遂げるにはきみの協力が必要なんだ。だから、その惚れ薬をどこから入手したのかだけでも、僕に教えてくれないか?」
「ク、クロードさまがあたしに頼み事を!そんなにあたしのことを信頼してくれているなんて・・・・・!」
全てを都合のいい方に解釈し、卒倒しかけるオレリア。クロードは少々ぎこちないものの、嬉しそうににっこりと微笑み、ここぞとばかりに追い打ちをかける。そしてオレリアが舞い上がっている隙に、親指を立ててこちらにドヤ顔を向けてくる。事前に入れ知恵をしておいて正解であった。
「ええっとぉ、あたしがクロードさまと出会ったのは十歳の時でぇ」
オレリアはクロードの腕に自分の腕をからませ、きゅるきゅるした声で言った。もはや取り繕っても遅い、という指摘は野暮であろうか。クロードは青ざめた顔で、極力距離を取ろうと無駄な抵抗を続けている。
「おい、どうでもいいからとっとと本題に入れ」
オレリアの全力乙女モードを合理主義者が切って捨てる。堪忍袋の緒どころか袋そのものが弾け飛んだらしい。血も涙もない合いの手に、闘志むき出しで悪態を返すオレリア。
「うるっさいわねこの冷血堕天使が!言われなくても今話すわよ」
オレリアが前世を思い出したのは十歳の時、王城で開かれた舞踏会に参加した時だった。
「ものすっっっっっごい美男子がいる!」
十五歳のクロードを見かけて立ち眩みを起こし、柱に頭をぶつけて鼻血を出したのだ。その瞬間、物凄い勢いで、別の人生を生きた自分の記憶が蘇ってきた。そうだ、ここは自分が好きだったゲームの世界で、あれは前世の推しのクロード・スレッダさま!
そこからオレリアの人生は、クロード攻略のためだけに捧げられたと言っても過言ではない。クロードに相応しい素敵な淑女になれるよう、美容や勉強、嫌いだった礼儀作法のお稽古に精を出した。元々料理には自信があったが、クロードに喜んでもらえるよういっそう高みを目指した。
王立魔法学園に入学する頃には、五年間の必死の努力が実を結び、オレリアはかなり自分に自信が持てるようになっていた。まあ、その自信も、自称「悪役令嬢」アルエットの前にはあっけなく砕け散るしかなかったわけだが。
オレリアは、クロードに自分を好きになってもらうためには、惚れ薬が必要なことを悟った。
「オレリアちゃん、今日もありがとね!」
廃品回収業者が意気揚々と引き揚げていくところを睨みつけ、地獄の番犬のような表情で、オレリアはぎりぎりと歯ぎしりをした。
「・・・・・どうしてこうなるのよ」
知っての通り、オレリアは薬づくりが下手くそである。ここ二ヶ月間に試作した惚れ薬は全て、氷点下で沸騰する虹色の液体に変わった。半径一メートル以内には蠅も寄って来なかったし、台所が定番の例のあの虫は臭いを嗅いだだけでひっくり返った。蜂も虻も蚊も蚋も、すさまじい勢いで退散する。
この失敗作ができるたびに、どうやって察知したのか、さっきの廃品回収業者、もといオーギュスト・ルーユが現れて買い取っていった。これをベースに最強の虫よけを作るらしい。小金が手に入るし処分の手間も省けるとはいえ、なんだかよく分からないが屈辱を感じた。
オレリアは丸椅子の上で、体育座りで膝を抱えた。誰もいない夕方の調薬室が、妙にだだっ広く感じられた。
「はぁ・・・・・。あたしって、どうしていつもこうなのかしら」
昔から何をやっても駄目。頑張っても全く改善できなくて、やる気がないと責められる。
普通、異世界転生ってチートスキルとかもらえるじゃない?どうして前世の悪い部分のパワーアップしたやつを引き継がなきゃいけないのよ。本来かなりおいしいはずのゲーム知識も、クロードさまルート以外は一回しかやったことがないから、未来の予言もできない。世界そのものについての知識も持っているけど、ファンブックを丸暗記している訳じゃないから、ちょっとした物知りくらいで終わってしまう。
反面、あの子はどうだろう。アルエット・フォン・ベルフェゴール。
何をやっても黄色い悲鳴を浴びるし、攻略対象たちからはいつも温かい視線を向けられている。無表情がデフォルトのクロードさまでさえ、アルエットにだけは優しく微笑むのだ。アルエットはいつもにこにこ微笑んでいて品行方正、完璧な淑女そのもの。せめてこっちを馬鹿にしてくれさえすれば、思う存分嫌ってやれるのに。
おまけにアザゼルまで懐いちゃってさ。あいつ、アルエットといる時は、あからさまに他の人間とは態度が違うし、時々楽しそうにふっと笑うのだ。あんな表情、原作でも見たことがなかった。
あ、最初見た時はびっくりしたけどね。物語序盤の王立魔法学園のど真ん中を、ラスボスがわが物顔でのし歩いているんだから。しかもロビンの顔をしているから本気で驚いた。怖いから極力考えないようにはしていたけど、まさかロビンはあの子に・・・・・。
「お困りですか、お嬢さん」
薄暗がりの中から深みのある甘い声がして、オレリアは飛び上がった。
振り返ると、フードを目深に被った、長身の男子生徒が立っていた。顔は下半分しか見えない。フードの端からは金髪がはみ出し、鼻のあたりにはそばかすが浮いていた。薄い唇が三日月のように吊り上がって、その人物が笑っていることを示している。
「あなたは?」
見たこともない生徒だった。オレリアは不審に思い、誰何した。
「グレゴール、とでも呼んでもらおうかな」
グレゴールはオーギュストの知人で、一緒に魔法薬研究会に入っていると言った。オーギュストから散々オレリアのことを聞かされていて、なんだか不憫になり、手伝ってあげたくなったのだと言う。
「恋する乙女は応援してあげないとね」
グレゴールは言った。その宣言通り、グレゴールは一か月間、放課後になるとつきっきりでオレリアの調薬につき合ってくれた。オレリアの体質を知ると、専門書を持ちだしたりして、色々とアドバイスをしてくれた。
それでも、オレリアはまともな惚れ薬を作れるようにならなかった。
「どうしよう、グレゴール。このままじゃあたし、クロードさまに嫌われちゃう」
オレリアは半狂乱で髪をかきむしった。もうどうにもならない、という思いが胃の中で氷塊のように固まって、正常な呼吸を妨げる。思考だってもはや正常に働いていなかったが、オレリアはそんなことには気づける状態にはない。涙がぼろぼろとこぼれ、床に当たって砕けていった。
前々から思っていたけど、誰よ、努力は裏切らないって一番最初に言いだしたやつ。あたしは何をやってもあの子にかなわない。このままじゃあの子の思い通りじゃない。もしもあの子の目的が、バッドエンド回避だけじゃなくて逆ハーレムだったら?そのために本物のロビンを殺し、アザゼルを手なずけたんだとしたらどうするのよ。そしたらクロードさまはあの犯罪者のもの?
駄目だ、そんなの絶対に許されることじゃない。クロードさまだけでも、あの子から救わなきゃ。
「落ち着いて、オレリア。大丈夫。まだ間に合う」
グレゴールはオレリアの背中をさすり、落ち着かせてくれる。そして、オレリアが泣き止むのを待って、制服のポケットから何かを取り出した。
「これを使うんだ」
そう言って差し出されたのは、ほんのりした薄緑の瓶に入った、桜色の液体。
オレリアは叫んでいた。
「ちょっと、これって惚れ薬じゃない!こんなの使ったってバレたら、あたしもあなたも無事じゃ済まないわよ。どうするの!」
シンプルに投獄は嫌だったし、遺跡の発掘で持ちだしの多いバーミリア家には大金を払う余裕はない。それになにより、自分のために大切な友人を牢屋に入れるわけにはいかなかった。だが、オレリアの必死の説得を、グレゴールは鷹揚に受け流す。
「大丈夫。これは合法な店から買ったんだ。だから安心して使っていい」
見えている顔の半分だけで、グレゴールは微笑んだ。
「僕はいつだって、恋する乙女の味方だから」
「と、いう訳で、あたしはグレゴールにまんまと一杯食わされたのよ。クロードさまには『何の嫌がらせだ』って言われちゃうし、早とちりで、他人様のお宅で怒鳴り散らして迷惑をかけちゃったし、散々ね」
オレリアは自嘲気味に肩をすくめた。
「いや、僕が嫌がらせと判断したのは、黒焦げの料理を自信満々に差し入れしてくる、きみ自身の性格に原因があるのだと思う」
「なるほど、そう来たか」
アザゼルが感心したようにつぶやく。クロードのツッコミは黙殺された。
アルエットは天を仰いだ。
全国のみなさん、社会通念上違法なものを、「ウチは合法だから大丈夫」「絶対捕まらないから安心して」と言って勧めてくる団体・個人はたいがい怪しいです。間違っても真に受けないように気を付けましょう!
「アルエット、どこ見て叫んでいるんだ?」
アザゼルがきょとんとした表情で聞いてくる。どうやら、心の声が外に漏れていたようだ。なんでもないわと手を振ってごまかす。それから居住まいを正すと、オレリアの方に向き直った。
「それよりオレリア、わたくしたちと手を組まないかしら」
現在、この国では惚れ薬の売買は犯罪だ。このままいくと、オレリアは確実に有罪になる。牢屋で一年過ごすか、罰金として金貨五百枚支払うか。刑罰自体はそれほど過酷なものではないのだが、一度逮捕されれば、「薬物で人の心を操ろうとする犯罪者」を出したとして家名に傷がつく。嫁入りなど、自分の将来を考えるなら好ましくはないだろう。
だが、幸いこちらには、聖槍の騎士団内でかなりの発言権を持つアザゼルがいる。それでも駄目ならアルエットが王子を説得することができる。
つまりは司法取引だ。グレゴール、もといロビン殺しの犯人の逮捕に協力すれば、減刑の余地が生まれるとすれば、どうするか。
「一応、アザゼルはわたくしと契約関係にあるの。約束は絶対に守らせるわ」
アルエットは契約の指輪を示す。彼我の実力差を考えればこんなものお飾りに過ぎないが、はったりをかますには最適だった。アザゼルもそれを理解していて、制服の襟を開いてオレリアに首飾りを見せつけた。オレリアは眉間にしわを寄せ、しばらくぶつぶつ言いながら考え込んでいたが、決然とした様子で顔を上げる。
「いいわ。乗ってあげる。あたしもヒロイン抹殺は許せないもの。だけど、一つだけ条件があるわ」
そう言って、オレリアは祈るように胸の前で手を組み合わせる。
「わたしはただ、クロードさまと結婚できたらそれだけでいいの。それを邪魔するならたとえヒロインだろうと許さない。もしもクロードさまに手をだしたら、あたしが考えられる限りありとあらゆる手段を使って報復をするわ。たとえ地獄に堕ちてもね」
後半、語気がおぞましい。思わずのけぞるクロード。庇ってもらえないかとアルエットたちの方をちらちら見るが、そこには救いの女神など現れようはずがなかった。
「そこは保障する。男であれ女であれ、誓ってわたしは、エステラ以外の人間に興味はない」
「わたくしも請け合いますわ。わたくしには、すでにガスパール殿下という婚約者がおりますもの」
アザゼルはスパッと音がでそうなくらい迅速な同意を見せ、アルエットも力強くうなずいてそれに続いた。クロードは、もはや自分が孤立無援であることを悟り、がっくりとうなだれる。
オレリアは女神のように微笑むと、クロードの広い肩にそっと手を置く。
「安心して、クロードさま。あなたがあたしの方を向いてくれるまで、いつまでも待っているから。ゆっくりあたしのことを好きになってね」
女神は女神でも、ギリシャ神話のヘラの微笑みだった。
だが、契約条件だの惚れ薬だので外堀を埋めておきながら、なんだかんだで本人の気持ちが一番大切らしい。クロードのために自分磨きを頑張るところといい、見ようによっては律儀で素敵な女の子に見える。クロードのことになると、ブルドックみたいに飛びついていく性格さえ直せるならば。いや、そんなことをすれば折角の個性が死ぬだろうか?
「では、わたしはこれで失礼する」
そんなことを考えていると、目に冷たい闘志を溜めて、アザゼルが立ち上がった。そのまますっと右手を伸ばすと、赤い旗のついた銀色の槍が現れる。やる気満々なのは評価するが、真相究明以前にグレゴールを灰にしようとしていませんか。
「グレゴールは魔法薬研究会の一員だと言ったな。ならば、あの狂科学者に聞けば何か分かるだろう。今から行って調べて来る」
「頑張ってね、アザゼル。犯人特定まであと一歩よ!」
アルエットはファイティングポーズを取り、その背中に声援を浴びせかける。騎士団員ではないので応援に行けないのが癪だが、せめて声援だけでも受け取ってほしかった。
アザゼルの背中を追うように、同じ方向にコマドリが飛んでいく。アルエットは小さな鳥の消えていった空を見上げた。
―待っていてね、ロビン。もうすぐあなたの無念も晴れるわ。
しかし、グレゴールという青年は、この王立魔法学園のどこにも存在していなかった。
名簿にもない。誰かの愛称でもない。外見的特徴に一致する人間も存在しない。オーギュストに聞いても、誰に聞いても、結局その正体は分からなかったのである。
それから一週間ほど後の事である。アルエットは夏空の下、渡り廊下に二人並んで、友人とのおしゃべりに精を出していた。
その友人というのはオレリアだ。あれ以来、オレリアは、しばしばアルエットたちと行動を共にするようになっていた。前世の記憶を持って生活するということは、常に「人とは違う」という孤独感を抱えて生活することになる。かなり因果な形ではあったが、同じ境遇の相手に巡り合えたことは、どちらにとっても僥倖だった。
そして何より、オレリアとなら、大好きなこの世界について、思う存分語り合えるのだ。大好きな『ユメウタ』世界で同志を得る。これ以上の幸せがあるだろうか。
「それでね、その後ヴレンがね」
「ええーっ、なにそれ、面白いすぎ」
遠くで鐘が鳴り響き、オレリアが顔を上げる。アルエットも釣られて顔を上げた。雲ひとつない盛夏の空を、鳩がばたばたと飛び去って行った。もうすぐ四時だった。
「じゃあ、あたしもう行くわね。この後、校医の先生に呼ばれているの」
オレリアが歩き出すのと同時に、廊下の向こうからアザゼルがやってきた。すれ違った女子生徒が数名、まあ、と小さな賞賛の声を上げた。アザゼルは騎士の衣装に身を包み、腰には剣を吊るしている。ゲームで慣れ親しんだ、聖槍の騎士団の制服だった。
オレリアはアザゼルの前に立ちふさがり、しげしげとその格好を眺める。
「あら、ゲームと違ってスカートタイプじゃないのね。男装みたいでいいじゃない。似合ってるわ」
そう言うなり、アザゼルの肩をばんばん叩き、鼻歌交じりに行ってしまう。アザゼルは珍獣と出くわした時のような目でオレリアを見送っていたが、アルエットのところまでやってくると、
「お前、よくあんなのと仲良くできるな」
と言った。
どうやら、冷笑主義のアザゼルと負けん気の強いオレリアはお互い癇に障るらしい。顔を合わせるたびに盛大な口喧嘩を繰り広げていた。よくもネタが尽きないものだ。一周回ってもはや仲良しなのではないかと思えてくる。
アルエットは微笑んで答えた。
「そうかしら?オレリアは、クロードさえ絡まなければ基本はいい子なのよ」
サービス精神旺盛で話好き。調子がいいと言われればそれまでだが、一度仲良くなれば意外と面倒見がいい。ただし、自作の暗黒物質を自信満々に差し入れしてくることだけはいただけないが。
アルエットは、前世の自分に語り掛けるように言葉を紡いだ。
「どんな嫌な人にも、それ相応の理由と何かしらの美点があるはずなの。だからその人の嫌な面にだけ囚われていてはだめなのよ。せっかく同じ世界に生きているんだから、相手を素敵なものだと思えた方が楽しいでしょう?」
「すごいなお前。お人好しが高じて、もはや博愛精神が世界を運営する側のレベルだぞ」
アザゼルは恐れ入ったような顔をした。褒められているのか皮肉られているのかよく分からないが、一応褒め言葉として受け取っておこう。
「あんまり褒めないでちょうだい。わたくしだって、心からそう思えるようになったのは、この世界に来てからなの。ここが『ユメウタ』の世界じゃなかったら、本当にそう思えていたかもあやしいわ」
ヒロインも、攻略対象も、モブも、悪役も、アルエット自身も、この大好きな『ユメウタ』世界を形作る、必要不可欠な構成要素なのだ。誰一人欠けても、この物語は成立しない。一見無意味で、いなくなってしまってもいいような存在でも、絶えず誰かに迷惑をかけている存在でも、取り去られてしまえば物語の幅や面白みは一気に崩れ去ってしまうだろう。一つのパーツを否定すれば、この世界全体を否定することになってしまうのだ。大好きな作品を否定することは、あまりしたくない。
アルエットも人間であって、聖人君子ではない。この世界に来てからも、散々不快な思いもしたし、二度と関わりたくないと思う人間もいた。実際に、極力関わらないように生きている相手もいるし、どう頑張っても美点を見つけ出せなかった人間もいる。それでも、アルエットはこの世界を肯定したい。
だから、これは日々を快適に生きるための方便である。
「大好きな物語の一部、か」
その言葉を繰り返して、アザゼルはつぶやいた。
「そう思えていれば、地上を焼くこともなかったかもしれないな」
その時、やわらかに風が吹いた。風はアザゼルの頭を撫でるように吹き抜け、銀の髪を生き物のように輝かせながら過ぎ去っていった。誰かのささやきが聞こえたような気がした。
アザゼルは青空に顔を向けて、うるさい、この石頭、と悪態をついた。空は何にも云わずに、ひたすら青いままそこにあった。