補習のアザゼル
アザゼルは校舎の屋根の上にいた。
今日は王立魔法学園の学園祭の日である。普段は噴水が水を吐き出す音が響くだけのだだっ広い中庭は、種々の部活・同好会が主催する模擬店で埋め尽くされ、そこで供される食べ物や小物、楽しい出し物目当てに多くの生徒で賑わっていた。人間は昔から、とにもかくにも祭が好きである。隙あらば酒食を持ちより鳴り物を持ち出して寄ってたかって騒ぎ始める。よくもまあ飽きぬものである。
「アザゼルも粋ですね。ご友人のために嘘をつくとは」
背後から声をかけるのは、茶色の髪に金の瞳、鷲の翼が生えた壮年である。身体は少し日に透けている。護身術を司る天使・バラキエルだ。金の鱗のついた鎧にじゃらじゃらと大量の武器・暗器・飛び道具をぶら下げて、手には槍を持ち、にこにこ微笑みながら人の群れを見下ろしていた。
「別にそういうつもりでやったのではない」
アザゼルは後ろを見ないまま答えた。
嘘はついていない。補習になったのは事実だ。魔法薬学の期末試験で、課題の回復ポーションの代わりに謎の増毛剤を提出してしまってばっちり落第した。ただし、魔法薬学の補習は昨日終わっている。この程度の嘘に騙されるのだ、アルエットはお人好しもいいところである。本人は悪役令嬢を自認しているが、絶対に向いていない。
ちなみに、返却された増毛剤はオーギュスト・ルーユという未来の狂研究者が欲しがったので、持って行かせた。実家で飼っている長毛種の猫をよりモフモフにするらしい。それはもはや猫とは言わない気がする。
そして今見たら羊をボフボフにしていた。例の失敗作から新たな増毛剤を開発し、羊と関わりのある生徒に売りつけているらしい。うん、そちらの方がはるかに有意義な薬の使い方だ。しっかり励むといい。
「いいえ、そういうつもりですよ。あなたはあの子のことを随分と気に入っておられる」
バラキエルは苦笑を浮かべつつ、アザゼルの隣に腰を下ろした。そしてアザゼルの首元、服の下に隠れた銀の首輪を指し示す。
「それだって、外そうと思えばいつでも外せるでしょ」
アザゼルは、けっ、と言ってバラキエルから視線を外す。こいつは昔から、極力見なかったことにしておきたい部分に容赦なく踏み入って来る。
ああ、そうだ。自分は確かにアルエットを気に入っている。
もしこの先人類を滅ぼしたいと思うことがあっても、アルエットだけは生かしておこうかとさえ考える程度には。まあ、そんなことをすれば間違いなくアルエットを「気に入った」意味もなくなるだろうが。
オーギュストから少し離れたところで、アルエットが模擬店一覧のチラシとにらめっこしていた。食べたい店を決めきれないでいるのだろうか。それにしては随分と表情が険しいような気がする。背後からガスパール王子とヴレンが現れ、何やらアルエットに話しかけた。
ふと視線を移すと、ピンクの髪の令嬢が、ガスパールとヴレンと話し込むアルエットを見て地団駄を踏んでいる。それからクリームたっぷりのケーキをアルエットに投げつけようとしていたので、風魔法でケーキが顔面に戻ってくるように細工しておく。
彼女の名前はオレリア・バーミリア。昨日の補習にも来ていた。しょっちゅう鍋を大爆発させ、その度に先生に叱られているせいで、すっかり顔と名前を覚えてしまった。
昨日、オレリアが回復ポーションの代わりに提出したのは、絶えずしゅうしゅう音を立てる、不気味な泥色をした謎の爆発物であった。あそこまで意味の分からない失敗ができるとなると、もはや才能の域である。オレリアは古代魔術の研究職志望らしいが、いっそ爆弾製造業者か、破壊工作員に進路変更すればよいと思う。
怒り狂ったキンキン声が風に乗って耳に届く。アザゼルは、突然の事態に群衆がまごつきうごめくさまを眺めながら、アルエット以外の人間が同じ状況に陥っていても助けただろうか、と考えていた。おそらく助けなかっただろうと思う。では、どうしてアルエットだけは特別扱いしてやろうと思うのか。
アルエットが滅多に見ないほどのお人好しだからか?それとも自分の過去を知り、同情してくれている唯一の人間だからか?アルエットが自分を害さない、自分にとって都合のいい人間だからか?
何というご都合主義か。最後の問いを自らに投げかけて、アザゼルは薄く笑った。
そうだとするならば、「友愛」の正体など安っぽいものだ。
「そろそろか」
噴水の真ん中から輝く闇が立ち昇るのを見て、アザゼルは立ち上がった。
前回の摘発の際、邪神教団の幹部が、学園祭の日にアルマロスを放つ計画を立てていたことを吐いた。アルマロスは王立魔法学園の中庭に封印されているので、模擬店に群がる生徒でごった返す中に放たれれば、すさまじい死傷者になる。みすみす連中の狙い通りにことを運ばせるわけにはいかなかった。
問題はそれだけではない。王都の重要建造物が瓦礫と化せば、王家の権威は地に落ちる。さらには学園に通う子弟を守れなかったことで有力者の反感を買い、パルミラ王国の政情は不安定なものとなる。よく肥え太った獅子が死にかけたとなれば、身中の虫が騒ぎ出すだけでなく、外のハゲタカどもも放ってはおくまい。結果的に、アルマロス一人が殺傷する以上の被害になるだろう。
別に人間の国がどうなろうが知ったこっちゃないが、アルエットの顔が脳裏にちらついて仕方がない。そのせいで、そのまま見過ごすわけにもいかなくなった。つくづく面倒な相手に絡まれたものである。
「バラキエル!」
アザゼルが鋭く名を呼ぶのに応えて、バラキエルが転移魔法を発動させる。アザゼルは赤い旗のついた銀の槍を呼び出すと、それを小脇に抱えて屋根を蹴った。背中を割って黒い翼がわらわらと伸び、風を捉えて空に舞い上がる。髪は長く伸びて気流と戯れ、風が耳のそばでびゅうびゅうと音を立てる。風は猛り立って唸り、大気はぴりぴりと肌を刺し、厄災が近いことをあたりに告げ知らせていた。相変わらず律儀なものである。もはやお前たちの言葉を聞き分ける人間などいないのに。
飛んでいると、すぐに校庭が見えてきた。事前にバラキエルが忌避の魔法をかけて誰も寄り付かないようにしておいたため、広大な砂地の上には人っ子一人いなかった。
アザゼルは大きく円を描いて上空を旋回する。堕天使の負の情念に引き付けられて、すでに地中から魔物が湧いてきていた。魔物は情念から生まれ、情念を食べる。喜びや幸せよりも、怒りや憎しみといったどす黒い感情が好物だ。これに憑かれるとそうした感情がどんどん増幅されていき、人を平気で害するようになる。アルエット曰く、本物のヒロインはこいつらの対処だけで手こずるそうだが、自分なら二分もかからない。誰もこの騒ぎに気づかないうちに終わらせてやる。
校庭の中心にとどまると、アザゼルは右腕を大きく広げ、呪文の詠唱を始める。
『天は共鳴せよ、地は鳴動せよ。密雲の中に住む雷、汝が義憤を解き放て。汝が訴えを天地に知らしめよ。空を切り裂き深淵を打ち、有限なるものを塵に帰さしめよ。《雷撃魔法陣》!』
アザゼルを起点として、金色に輝く魔法陣が校庭一杯に広がる。ただちに雷撃が槍のごとくに降り注ぎ、地上に頭を出したばかりの魔物を木っ端微塵に打ち砕いて行った。
「お見事!」
追いついてきたバラキエルが快哉を叫ぶ。こちらとの距離が縮まると、ガラス瓶を投げて渡してくる。瓶の中には、小さくなった邪神教団の団員たちが十名ほど捕獲されていた。相変わらず仕事が早い。
「バラキエル、感謝する。この後も、引き続き頼むぞ」
アザゼルは大声を上げてかつての部下をねぎらった。
突然、魔法陣が輝きを失って消えていく。いよいよ本体のお出ましなのだ。
アルマロスの頭が見えた途端、アザゼルは間髪入れずに氷塊を降らせる。だが、即座にアルマロスが術を解いたせいで、氷塊が地面に達する頃には半数ほどが水に変わっていた。大き目の池ほどの量の水が一遍に降り注ぎ、校庭は沼と化した。そこに残った氷が飛沫を上げて着水し、白い霧が立ち昇る。
視界を奪われ、動きを止めるアルマロス。
冷気を割って槍がうなり、激しくアルマロスの胴に食いこんだ。槍の奥から、赤い瞳を炯々と光らせて、銀の髪をなびかせたアザゼルが現れる。
「残念だったな。後半のは単なる氷じゃない」
ドライアイス。アルエットがかつて暮らしていた世界に存在する、溶けてもなにも残さない氷。水に入れると白く冷たい煙を発生させるため、劇の演出にも使用されるのだと言う。正体は固形の「二酸化炭素」らしいが、こちらの世界にも似たような材料は存在するから、魔法で再現するくらい造作もないことだった。なお、風に乗って流れていくと死人が出るので、現在進行形でバラキエルにきっちり処理させている。
アルマロスは大きくのけぞって吹っ飛ばされた。その先の霧の中から黒い蛇が現れ、アルマロスに炎を吐きかける。炎を消して逃れたと思ったのも束の間、さらにもう一匹が背後からアルマロスを襲う。蛇はどんどん増えていく。
蛇はアザゼルの身体につながっていた。アザゼルの正体は十二の頭を持つ有翼の蛇だ。これは魔法で出しているのではなく、れっきとした体の一部だからアルマロスの解呪の力を以てしても解体できない。
アルマロス相手に魔法を使っても、片端から元の状態に戻される。だからアルマロスと戦う時は、魔法以外の自然の法則を利用するか、解呪しきれないくらいの物量で押す、あるいは腕力に訴えるに限る。
白い霧の向こうから、アルマロスが泣き叫ぶ声が聞こえてくる。苦痛をこらえ、声を振り絞ってすがられても、アザゼルは攻撃の手を緩めなかった。かつての部下相手に心苦しい限りだが、こちらの攻撃を押し返せなくなるまで弱らせなければ浄化の祈りは使えない。ここで情に流されるわけにはいかなかった。
白い霧は徐々に消えていき、アルマロスの身体が文字通り白日の下に晒される。
アルマロスは、普通の人間から小さな腕が大量に、不規則に生えてできあがった球のような姿をしていた。アザゼルたちは堕天する時、神性を剥奪されたせいで姿かたちがおぞましく崩れてしまった。ラハブが海獣、バラキエルがびっしりと鱗と剣に覆われた鷲の化け物、シェムハザが食虫植物。自分やこの三人と比べれば、アルマロスはまだ原型を保っている方だ。一応人型の範疇に留まっているのだから。
「アザゼル、アザゼル、どうして私の邪魔をするのですか。あなたは人の子を憎んでおられるのではないのですか。私は、あなたのためを思って」
眠っているため目は閉じたまま、アルマロスはすがるように、たくさんの手をこちらに伸ばしてくる。憎しみと絶望、黒魔術の穢れで真っ黒に染まった顔を、水晶のような涙が滑り落ちていく。
「お前もそれを聞くか、アルマロス」
一瞬の隙をつき、蛇がアルマロスの四肢を戒め、アザゼルの眼前に吊り下げる。アザゼルは槍を小脇に抱えたまま、いつも通りの色彩のない目でアルマロスを見上げた。
なぜ、人の子を利するような行動を取るのか。
前にも、アルエットにもそう聞かれたことがある。シェムハザとラハブとバラキエルにも聞かれた。アザゼルの過去を知るものは、会うやつ会うやつ全員聞いてくる。
みんなが、アザゼルに何と答えさせたかったのかは薄々察している。模範解答は、「すでに人間の庇護者としての自覚を取り戻しているから」。その通りに答えればみんなは喜ぶだろう。なぜならそれこそが、アザゼルが赦される要件だから。
だが、わたしはお前が思っているよりも、ずっと利己的で酷薄な魂の持ち主なんだよ。わたしはいつだって、自分の都合しか考えちゃいない。
純粋に誰かを心配する気持ちに嘘で応えられたって、お前は本当に嬉しいのか?
アザゼルはアルマロスの前で跪き、両手を組んで祈りの言葉を唱えた。アルマロスを起点として太い光の柱が立ち昇り、風が同心円状に放たれる。
「すまない、アルマロス。これは全てわたしのためなのだ」
禍々しい黒を脱し、あざやかな鼈甲色を取り戻していく髪を優しく撫でて、アザゼルはつぶやいた。光が大陸全土を飲み込み、アルマロスの記憶が世界に放たれた。
アルマロスとバラキエルは天に帰っていった。
アザゼルはしばらくその場にとどまり、二人が光の柱を上っていく様子を見届けていたが、やがて、大儀そうに踵を返した。どうにも身体がだるい。早く寮に帰って寝てしまおう。
歩きながらアザゼルは、以前アルエットが、アルマロスと戦う時は呼んでくれと言っていたのを思い出した。アルマロスを救ったことは《浄化の祈り》のせいで確実にばれるから、あとで散々小言を言われるだろう。アルエットの小言は世界観がどうだの原作がどうだの、時々論点がよく分からないから反論がしにくい。面倒だ。
ああ、小言で思い出した。今回の騒動は確実に始末書案件だ。明日にでも城に呼び出されて、お偉方から延々と説教を聞かされることになるだろう。効果もないのにご苦労なことだ。前にも独断で動いて「将来がどうなっても知らんぞ」と脅されたことがあった。
だが、あとのことなど知るものか。一年もすればわたしに用などなくなる。そうしたら、ミカルもわたしを起こしたままではおかない。そして人間は百年以内に確実に死ぬ。そんなやつら怒らせたところで何になる。あとは今まで通り、決まりきった夢を眺めて眠るだけだ。
そんなことを考えながらふらふら歩いていたアザゼルは、何か大きなものにぶつかり盛大に尻もちをつく羽目になった。顔を上げると、目の前にクロードが立っている。祭に浮かれたせいなのか、クロードは少し上等な白衣を着て蝶ネクタイを締め、ポケットに花を挿していた。長い両腕をだらりと垂らし、少し背中を丸めて立っている。薄い唇を一直線に引き結び、思いつめた表情でこちらを睨んでくる。
―バラキエルの忌避魔法が利かなかったというのか。こいつ、まさか。
アザゼルは咄嗟に飛び下がり、いつでも攻撃に移れる体勢を取った。
「ロビン君」
クロードはこちらにつかつかと近づいてくる。そしてペンダコのできた手で、アザゼルの両肩をがっしりと掴む。
「素晴らしかったよロビン君。今のは古代魔法じゃないか!雷撃魔法陣の発動は上級魔術師でも難しいんだぞ。しかもあれだけ広範囲に使うなんて!本当に、なんて素晴らしいんだ。僕もやってみたかったけど上手くいかなったんだ。魔力量は足りているはずなんだが・・・・・あ、氷塊を降らせる魔法も最高だった。解呪の力を持った堕天使を物量で押すなんてすごいじゃないか。白い霧や蛇を出したのも古代魔法かな?あんな魔法は今まで見たことも聞いたこともないけど、一体どうやって」
すわ襲撃かと身構えたのも束の間、クロードは古代魔術の感想をものすごい勢いでまくしたて始める。
蛇は自分の正体に関わることだから言うわけにはいかないし、人に伝授もできない。ドライアイスは異世界のものだから説明が面倒くさい。おまけにクロードは、他人が何と言おうと自分が納得するまで引き下がらない。どうもこいつは苦手である。返答に窮したアザゼルは、なんとかクロードを追い払おうと画策する。
「いや、たまたま読んだ古代の文献にコツが書いてあったので。それを読めば誰でもできますよ。白い霧は全くの偶然で、わたしにもよく分かりません。あと、蛇は使い魔です」
雷撃魔法陣に関しては嘘は言っていない。その文献を書いたのはアザゼル本人だからそこは保障する。当該箇所を読めばクロードの悩みも解決するので、さすがに興味をなくして引き下がってくれるだろう。後半はまったくのこじつけであるものの、証拠を見せろと言われたらなんとか誤魔化せる自信がある。よし、窮地は脱した。早く帰って寝よう。
だが、アザゼルの目論みは失敗に終わった。
「そこは確か、学会の権威が集まっても解読できない難読箇所だったはずだぞ。きみは天才に違いない!ロビン君。ぜひ、僕の研究室にきてくれたまえ!」
クロードは金色の目を一層輝かせる。「ロビン」から受け継いだ細い肩に、男の太い指がぎりぎりと食い込んだ。クロードはアザゼルの細腕をひっつかみ、興奮した面持ちで自分の研究室の方へ引きずっていく。もはやどう撃退してよいか分からず、無表情で引きずられていくアザゼル。今まで一番、墓穴を掘った瞬間だと思った。
そしてその光景は、目撃者たちに甚だしく誤解を植え付けた。