惨劇の庭
※注意
いじめやストーカーを想起させる描写があります。
トラウマがある方は飛ばして、自分の心を大切に守ってあげてください。
後ろからあいつが追って来る。中肉中背、薄汚れたスニーカーに、黒いパーカーの男。
生臭い息。血走った目。伸びて来る毛むくじゃらの腕。自分のものとは比べ物にならない、重い足音。存在の全てが恐怖を煽った。恐怖に追い立てられるまま、何かの灰色の臼歯のように、てらてらと光る歩道橋を走って逃げた。いつもは心細い夜道に、わずかばかりの安心感を与えてくれていた街灯が、よそよそしく、無責任に明かりを振りまきながら立ち並んでいた。
足底が、階段の最上段を蹴り飛ばす。
ここを下り切れば交番がある。補導されたっていい。お父さんとお母さんに何を言われたってかまわない。先生やクラスの子からの扱いなんて、これ以上悪化しようと今更大した問題じゃない。事件になって、不名誉が独り歩きして、世界中に個人情報を晒される?それこそ今更だ。もう顔も名前も住所も全て晒されている。この追跡者もそうやってわたしに関する情報を手に入れた。
何もかも、本当にもう今更だ。
今大切のはひとつだけ、後ろから来るやつに捕まらないことだ。
足底が階段をとらえ損ねる。足首が変な方向に曲がる。身体が宙に投げ出された。ああ、わたしは死ぬのだな、そう直観的に理解した。みるみるコンクリートの灰色が近づいてくる。一度目の衝撃が体を襲う。息ができない。続いて二度目、三度目。一打ごとに思考が奪われていく。
―「生きたい」。
そう願っている馬鹿馬鹿しい自分がいる。本当に今更だ。何度か本気で死のうとしたこともあったのに、それでもまだ「生きたい」と思うなんて。
激痛と失血で薄れゆく意識の中で、負け惜しみのように心残りの所在を探る。
もしも、この人生に続きが与えられることがあるとしたら?
自分の人生を、思うがままに進められる力が手に入るとしたら?
きっと、同じような境遇の誰かを救ってみせる。自分のような思いは誰にもさせやしない。いや、「させない」だけじゃ足りない。それ以上のことをしてあげたい。ゲームの中のあの子にしてあげたみたいに、もっと、もっと幸せに―。
ふいに、明け方の空のような、優しい白い光が全身を包んだ。黒に染まって行く視界の端で、翼のようなものが動いた気がした。
―アルエット。
誰かの、静かだが確かな呼びかけが聞こえた。
「アルエット様、アルエット様!」
その一声が、タールのような眠りを打ち破った。声の主は、頬にそばかすの浮いた十六歳ばかりの見習いメイドだった。それにしてもひどい顔だ。血色という血色が彼女の顔から尻に帆をかけて逃げ出したような青白さだった。
アルエットは、自分が尋常ではない量の汗をかいていることに気づき、寝巻の袖で額を拭った。何かと世話を焼きたがる彼女に不調を悟られぬよう、平静を装って笑顔を作る。
「おはよう、フリーダ。そんなに慌てるなんてあなたらしくないわ。どうかしたの?」
「アルエット様!大変なのです。お庭が、お庭が!」
フリーダは見聞きしたことを推敲もせずにまくしたてる。普段は牛のようにおっとりした子で話が通じないということはないのだが、今朝はどうしたことか酷く取り乱して要領を得なかった。
廊下から叫びが聞こえる。フリーダが持ち込んだ報告は、どうやら屋敷を揺るがす大事件にまつわるものであったらしい。ならば自分の目で確かめるのが最適な判断だ。アルエットはどうにかフリーダを落ち着かせると、貴婦人たりえる最低限の身支度を済ませて中庭に急いだ。
「一体誰がこんなことを」
「なあ、やっぱりさ、あの嬢ちゃんを牢屋にぶち込んで解決した気になったのがまずかったんじゃねえのか」
「いや、そうじゃねえ。おれたちは間違っちゃいねえよ。共犯がいるんだ。いますぐ共犯を洗い出せ」
中庭を半円形に取り囲むようにして、人々は不穏なささやきを交換していた。
アルエットと中庭を隔離するようにして、食堂のガラス戸前に立ちふさがっている背中は、全て使用人のものである。ガスパール王子やオレリア、ホセアなど、頼れる面子はまだここに来ていないようだった。
ふと、壁際に目をやると、寝巻のままのトーラスがいた。
トーラスは怯えた表情で中庭を見つめ、か細く、年より幾分も幼い声でこう口走る。
「どうして、どうしてこんなことに?」
窓越しに中庭をひたすらに見つめ続け、アルエットが食堂に入って来たことにも気が付いていない。口元を歪め、青いシルクの寝巻の裾を皺が寄るほどに握りしめて、真っ青な顔で立ち尽くしている。何かきっかけがあれば今にも泣き出しそうに見えた。
弟は一体なにを見たというのだろう。アルエットは、側にいたミネットにトーラスの世話を頼むと、決然として顔を上げた。ここに頼れる味方はいない。この人垣の先に何が待ち受けているにしても、アルエットはひとりでそれに向き合わなければならない。
ひとつ、息を整えて、使用人たちを押しのけて前に出る。
中庭に、白が散らばっている。
ところどころに黒の斑が散った白である。やわらかに伸びた芝の緑の中、わずかな赤と沢山の白が一面に投げ出されている。平穏の庭を冒す行為は、人目につかない刻限、おそらくは真夜中に行われたのであろう。赤と白とが辺り一面に点在する様は、派手に食い散らかされた生命の残りかすのようであり、何かの儀式の事後を連想させて、アルエットの目にはおぞましいものとして映った。
赤い斑の中にはいくつか、朝日を跳ね返して鈍く輝くものが混じっていた。アルエットは不思議に思い、自分の足元にあった赤い一片を拾い上げた。
それはびりびりに切り裂かれた赤い革だった。非常に手に馴染む、滑らかな赤い革。しばらく手の中でもてあそび、何気なくその一片を裏返した時、アルエットはその革の正体に気が付いた。それは見覚えのある文字列の一部だったのだ。
すなわち、
『リラ遺跡の研究 古代の生活様式と信仰について—著・ジョエル・バーミリア伯爵』
アザゼルのお気に入りの、あの赤い本だった。
「ひどいわ、こんなの」
アルエットは乱暴に顔を覆った。
なぜ、あの子がこんな目に遭わなければならないのか。
人間社会になじまもうとしないからか?愛嬌がいっそ破滅的なまでにないからか?
確かにアザゼルの態度は悪い。時々苦言を呈したくなるレベルに悪い。だが、どのような理由があろうとも、相手がどれほど不快なものとして映ろうとも、誰かに不当な刑罰を与えて良い理由にはならないはずだ。人は誰しも、何者によっても侵されることのない尊厳を持っている。先に自分の手で誰かを害することなしに、安心と安全を奪われない権利を持っている。それを、こんな形で踏みにじるなんて――。
どうして、どうして何度も何度も、わたしはこんな光景を目にしなければならないのか。
閉じ切らなかった指の間から、しつこくページの白があざ笑ってくる。直視していたくなくて目を閉じる。だが、束の間の安息を求めて逃げ込んだ暗がりはもっと残酷だった。ワックスの利いた床の木目とそこに散らばるあざやかな印刷物の残骸。乱雑に投げ出された何本もの蛍光色のペン。存在しないはずの、とりどりの色の幻が網膜をかすめていった。呼気が早くなる。面罵と嘲弄が記憶の暗がりから耳を襲った。
あの時わたしが何をしたというのだろう。そしてどうしていればあなたたちは満足だったというのだろう。どんな顔をして笑っていれば、わたしは傷つかずに済んだのだろう。分からない。答えなんて永遠に分からない。ただ、苦痛だけが精神回路に永遠に刻まれ続け、世界ごと生まれ変わってもささいな刺激で暴発する。
痛い。心が痛い。脳細胞でも声帯でもなく、心臓が血を噴き上げて絶叫する。感情ごと視覚を閉じこめた指の間を、生暖かい水滴が溢れ出し、伝って、落ちて行く。
もうやめて。もう誰にもこんな思いをさせないで。わたしに思い出させないで。
お願いだから、二度とわたしを傷付けないで。
―アルエット。
ふいに、柔らかな声に名を呼ばれたような気がした。それはアザゼルの声だったような気がして、アルエットは我に返った。
―わたしは、大丈夫だ。
暗闇を裂いて昇る朝日のように、その言葉はアルエットを過去が柵を作る暗渠から引きずり出した。
そうだ、今、逃げ出す訳にはいかないのだ。過去に足を取られて座り込んでいていい状況でもない。わたくしにはするべきことがある。今、目の前で起きている事件の意味を明らかにすることだ。
アルエットは顔から手を離した。視覚が復活を果たす。夏の朝の鮮烈な光が四角く切り取られた空から降り注ぎ、再び世界にアルエットを迎え入れた。アルエットはしっかりと目を開けて、中庭の惨状に思いを巡らせる。
今、わたくしが考えなければならないことはこれに尽きる。
「誰が、何のために、考古学の本をびりびりに引き裂いて中庭に撒いたのか」
真っ先に考えつくのは嫌がらせだが、当の本人は牢屋代わりの食物庫の中。せっかく趣向を凝らして嫌がらせをしてみても、その光景を実際に目にすることはない。与えるダメージを考えるなら、目の前で破いてみせる方が妥当だろう。まあ、そんなもので精神・腕力ともに最強を誇るアザゼルが傷つくとは思えないが。
ならば、単なる物盗りの仕業だろうか?あまりにも収穫物がなかったせいで、頭にきて本に当たったのかもしれない。
だがそうすると、アザゼルの貧乏頭陀袋が率先して狙われた理由が分からない。アザゼルの荷物にもはや金目のものがないことは、つい昨晩、衆人環視の中で証明されている。唯一目をつけるとすれば巾着型の革財布だが、財布の中身も、盗んだ金の可能性があるとして、ベルフェゴール家の金庫に摂取されてしまった。わざわざ挑戦するメリットはゼロだ。
いよいよ分からなくなってきた。アルエットはすがりつく相手を探すように、視線を空へと動かした。青い空と茶色い瓦の下に、二階の廊下の窓が並んでいた。中庭に面した廊下の向こうに、見慣れた部屋の扉が二つ。向かって右がアルエットの部屋、その左隣がトーラスの部屋。そこから下方に視線を移すと、二階の部屋に換算して二つ分の大きさの、ホセアの書斎が目に入る。
書斎の窓の前には薄紫の薔薇。立派な薔薇だ。丈は高く、太く黒々とした枝葉をゆるやかに広げ、ぼってりとした大輪の花をいくつもつけている。アルエットはその薔薇の前へと歩み寄った。朝露に濡れた花弁の隙間から、脳をとろかす甘やかな香りが立ち昇る。ここ数日、どこかで嗅いだ臭いであった。
その正体を探ろうと、もっとその香りを嗅ごうと花房に手を伸ばした時、赤い皮の切れが、棘にひっかかっているのが目に入った。いや、それは「ひっかかっている」と言うより、「突き刺さっている」と言ったほうが妥当だった。それも一つや二つではない。複雑に、周囲の枝と絡まりつつ伸びた一枝の、一側面に乱立する棘ひとつひとつに、赤の革表紙が突きささっている。奥の方までわざわざ手を入れて突きさしたとしか思えないような光景だった。どんなに対象への恨みを募らせていたのだとしても、こんな手の込んだことをする理由がわからない。これはあまりにも不必要な細やかさだった。
アルエットは首を捻る。
中庭、窓枠、薔薇の花、アザゼルの好きな赤い本。
それらの要素が一直線に並んだ時、アルエットの脳裏にある可能性が頭をよぎった。アルエットは小さく快哉を叫ぶと、軽やかに身を翻して中庭から走り去った。
―待っていてね、アザゼル。わたくしがあなたを救ってみせる。
そうだ、わたくしは行くのだ。過去の自分もろとも、現在の友を救いに。




