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本日はきっと厄日

 音の発生源は、どうやらベルフェゴール公爵の書斎のようだった。

 全速力で五分ほどで、凶事の現場に到着する。書斎の前には五人ほどの先客がいた。公爵領の騎士たちで、警報を受けて駆けつけていたようである。彼らによれば、すでに現場に犯人の姿はなく、危険物が仕掛けられている様子もない、とのことだった。つまり、安全なので内部に入ってもよい、ということだ。

 そう解釈したアルエットは、意を決して書斎に足を踏み入れた。


 書斎は酷い有り様だった。

 棚という棚、抽斗という抽斗はあらかたひっくり返されて床に転がり、部屋中に書類や書籍が乱雑に放り出されていた。宝石箱は逆立ちの状態で床に転がり、金庫は分厚い扉をもぎ取られ、だらしなく四つ足をなげだして倒れ、情けなくも腹から金貨の袋をはみ出させていた。

「しっかし何なのかしらねえ、この傷」

 オレリアは窓枠をさすりながら首を捻った。窓枠にも、家具にも、かぎ爪でひっかいたような、細く、鋭くえぐれた傷がついていた。アルエットは前世のゲーム知識を総動員してみたが、該当しそうなものはどうにも思い浮かばなかった。

「それにしても、なんだこの不快な臭いは。鼻が曲がる」

 アザゼルが、倒れた家具を検分しながら悪態をつく。臭い?ああ、そう言えば薔薇の香りがする。あたりを見回したアルエットは、自分の足元に薔薇の花びらが落ちているのに気づき、それを拾い上げた。

 その色は、逢魔が時、夕陽が山入端に隠れた時の、空に現れるその紫だ。空に浮かんだ大きな雲を彩る、あのうっとりするような淡い紫。夕刻からの剥片にも似た花弁は未だたっぷりと薫香を宿しており、嗅げば微粒子が鼻腔を這いあがって脳の中枢に上がり込み、なんとも言えない多幸感をもたらした。

「そう?素敵な香りではなくて?」

 アルエットは、薄紫の花弁を愛でつつそう切り返した。

「あまりその臭いを嗅ぐな」

 不機嫌そうなアザゼルは、アルエットの手から花弁をひったくると、小瓶に詰めた。それから背を屈め、床に落ちている花びらを集め始める。薔薇の花びらは、中庭に面した窓の下に集中的に落ちていた。事件当時、窓際には、円筒形の硝子花瓶に薔薇が活けてあったようだから、そこからこぼれたものなのだろう。もっとも、当の花瓶は、今や訪う者を殺傷する危険極まる硝子の海となっていたが。

 花弁を集め終わったアザゼルは、それよりも、と言いつつアルエットの方を振り仰いだ。

「この屋敷で起こるはずのイベントはないか。今回の事件の手がかりになるかもしれない」

 そんな物騒なイベントはない、と言いかけて、アルエットは直前でひっこめた。

「あっ、あるわ!トーラスルートの《冤罪イベント》!」


 それが起こるのは来年、すなわち二年生の夏休みのことである。これまでヒロイン相手に散々嫌がらせや恋路の邪魔を繰り返してきた「アルエット」は、

「今までのことは水に流して仲良くしましょう。お近づきの印に、わたくしの領地で夏休みをおすごしになるのはいかが?」

と言って、ヒロインを公爵領に招待する。

 だが、それは「アルエット」の仕組んだ罠だった。「アルエット」は、メイド長と共謀して自分の部屋をわざと荒し、窃盗の罪を着せることで、ヒロインを大人や攻略対象たちからの信頼を失わせ、社会的に抹殺しようとするのだ。この目論みは、攻略対象の一人で悪役令嬢「アルエット」の弟であるトーラス・フォン・ベルフェゴールの活躍でくじかれるものの、「アルエット」はヒロインを破滅あと一歩のところまで追い込むことに成功していた。


 ロビン殺しの犯人は、ヒロインの死後もその代役を果たし続けるアザゼルを狙っている。このイベントを活用すれば、「窃盗犯」というもっともらしい理由をつけて収監し、「ロビン」を活動停止に追い込むことができてしまう。

 この点に思いを致すのならば、最大級に警戒すべきイベントではなかったか。アルエットは自分の軽率さを呪った。アルエットは、そのようなイベントがあることは知識として知ってはいたが、イベントの発生時期が異なり、自分に動機もメリットも持ち合わせがないために、はじめから勘定に入れていなかったのである。


 というか、もはやイベントの発生時期に関する知識は当てにならない代物となり果てていた。アザゼルが本編を上回る勢いで邪神教団を掃滅しているせいで、本来起こるべきだったイベントが起こらなかったり、前倒しで起こったりするようになっていたのだ。

 特に、学園を恐怖のどん底に突き落とし、その解決によって攻略対象たちとの好感度や親密度を上げるはずだった怪事件の数々はほとんど不発に終わり、このゲームにおける「学園」の要素はどこに行ったんだ、舞台の持ち腐れじゃないか、という哀しい状態に陥っていた。

 原作の完全無欠のシナリオを滅茶苦茶にしおって殺人犯許すまじ、と復讐の決意を新たにするアルエットだったが、まあ、凶事は起こらない方がいいかみんな平和に楽しく過ごしたいし、と思いなおして拳をひっこめる。

 こうして、自称原作至上主義者は今日も妥協を積み重ねて行くのであった。


「なるほどね。アルエットが事件を起こさないなら自分で起こそうって魂胆ね」

 オレリアが唸るような声を出した。その声帯の振動の中には、犯人の卑怯を侮蔑する響きが込められていた。オレリアは、元来良識は具えているし、正義感も強い。本来的にオレリアはいい子なのだ。そう、クロードさえ絡まなければ。

「まあ、とにかくは、だ。この警備システムがよこしたデータを全面的に信用するならば、犯人はこの屋敷から外には出ていない。大方は内部の犯行だろう。容疑者をしらみつぶしに当たって行って、次の事件を起こされる前に拘束するのが手っ取り早いだろうな」

 アザゼルは、先刻執事から渡された紙束をぺらぺらめくりながらそう結論付けた。

「しかし問題があるとすれば―」

「姉上!」

 惨状を晒す書斎に、変声期前の、甲高い少年の声が響いた。

 走り込んで来たのは、サーベルを腰に下げた少年だった。明るい栗色の髪に、母親譲りの紫の瞳。小生意気だが庇護欲をそそられる、なんとも絶妙な顔立ちをしている。これが件のトーラス・フォン・ベルフェゴールだ。

「何があったの?屋敷の方からものすごい音が聞こえたけど。姉上は大丈夫?怪我してない?昔みたいに怖い人が入って来ても、今度はオレが守ってあげるからね」

 トーラスは剣ダコのできた小さな手を伸ばすと、アルエットの手を取り、ぎゅっと握りしめる。精一杯強がっているのか、ふっくらとした拳は小刻みに揺れていた。

「ついさっき、お父さまの書斎に泥棒が入ったみたいなの」

 アルエットはかつて泣き虫だった弟を刺激しないよう、そっと微笑んだ。

「でも、大丈夫よ。お姉さまも頑張るし、《聖槍の騎士団》からロビンも来てくれているの。きっとすぐに事件は解決するわ。だからあなたは安心して、いつも通り好きなことをして、のびのびと過ごしてちょうだい」

「嫌だよ、姉上。オレだって役に立てるんだ。いつまでも子ども扱いしないで・・・・・・えっ、今、《聖槍の騎士団》って言った?っていうことは、あいつもいるの?」

 抗議の途中で客人の存在に気づいたトーラスは、そのまま絶句した。そして、見たくもない現実に抵抗するように、ぎぎぎぎぎぎ、と首を動かす。トーラスの紫色の瞳に、銀髪赤眼の少女が像を結ぶ。その途端、先程まで大人びていた少年の顔は、実年齢よりもはるかに幼く癇癪に満ちたものとなった。

「帰れ!」

 トーラスはアザゼルの顔を見るなり、そう絶叫した。

「姉上にはお前なんか必要ない!姉上を怖がらせるような悪いやつは、オレが捕まえてやるんだ。姉上には、オレさえいれば十分なんだ。お前なんか居たって邪魔だ!邪魔な奴は出ていけ!」

 全身の骨と肉を反響板にしてそう叫ぶ。爆発するような癇癪に呼応して、そこらに転がっていた木片やガラス片が、ぼう、と鈍く輝きながら浮かび上がる。

「やめろ。現場が荒れる」

 が、宙に浮いていた瓦礫は急に重力を思い出して地に接吻した。アザゼルが、解呪の術を使って浮遊の術を打ち消したのだ。アザゼルはいっさいの温度を欠いた赤い目で、至極淡々と退去を通告した。

「現場を荒すなら、部外者であるお前が出ていけ。それこそ犯人逮捕の邪魔だ」

「だったらお前が出ていけ、貧乏人!」

 実力による排除が叶わないことを悟ったトーラスは、至極お粗末な悪態だけを後に残して逃げて行った。

「トーラス、謝りなさい!」

 その背中をアルエットの悲痛な叱責が追う。

「さっきあるとしていた問題って、アイツがちょこまかと煩い、ってことね」

 背後で、オレリアが肩をすくめる気配がした。その隣でアザゼルが、淡白な口調を崩さぬまま肯定を返す。

「まさしくそれだ。わざわざ実演してくれなくてもよかったのだがな」


 言うまでもなく、アザゼルとトーラスとの関係性は最悪だった。

 最初は悪口や礼を欠いた態度など、他愛のない悪意をぶつける程度だった。それが徐々にエスカレートしていき、アザゼルがアルエットたちと茶会をしている部屋にセミの詰め合わせを投げ込んだり、廊下に全自動で落ち葉が落下するトラップを仕掛けたりと、回を追うごとに悪質さと複雑さが増していった。そしてその度に、アザゼルに片手であしらわれていた。

 当然と言うべきか、地上を蠢く一切の人間を見下しているアザゼルには、物理的にも精神的にも、何らダメージを与えることができなかったのである。それどころか生温いとさえ一蹴されていた。無慈悲と冷徹の権化のようなアザゼルに物理攻撃を伴ったいたずらを仕掛けられるその蛮勇は、敬服に価する。


 思い返してみればトーラスは、アルエットの婚約が決まった時も、結婚申し込みに来たガスパール王子のスネをしこたま蹴っ飛ばしていた記憶がある。不敬も平気でやる心臓の強さと、手の込んだいたずらを完遂する才気は称賛されるべき要素であるのは間違いない。きっと、こうした長所の数々は、多くの人の目をひきつけてやまないような人生を描き出して見せるだろう。それは楽しみではある。だが、姉としては、別の意味で弟の将来から目が離せなくなってくる。


 が、本日に限っては、慈悲深い姉の目を以てしても、このわんぱく盛りの弟はとんだ疫病神であるように思われた。

 トーラスの駆け去った先、廊下の曲がり角の方で男性の声が響いた。

「トーラス⁉おい、待ちなさい、トーラス」

 アルエットはびくりと身体を震わした。それは、この屋敷では滅多に聞くことはないが、これ以上なくこの屋敷に相応しい声だった。それでいて、今聞きたくない声だった。本当に、今日は厄日か何かだろうか。

 やがて、声の主が廊下の向こうに姿を表す。深刻そうな面持ちで、執事と話をしながらこちらに向かってきた。その人物はアルエットの姿に目を留めると、

「おや、これは一体どうしたことだ」

と独語するように言った。


 その人物の名は、ホセア・フォン・ベルフェゴール公爵。パルミラ王国の技術大臣で、偉大な発明家。農耕器具から便利家電まで多種多様な道具を次々と発明し、国民の暮らしと国家を発展させてきた、名士中の名士であった。

 アルエットはとっさに、トーラスの態度とこの書斎での惨劇が、父親の中で結合されてしまうのではないか、と危惧した。自分のなすべきことに足を取られる親は、時としてあらぬ罪を子どもに着せてしまう。

「お、お父さま。違うの、トーラスは」

 アルエットは、上半身の血という血が真っ逆さまに血管を駆け下って行くのを感じていた。仮にも自分の父親のはずだが、どうも機嫌の取り方が分からないのだ。そもそも本当はどういう性格か、発明以外に何が好きかすらも把握していない。ホセアについて記憶にあるのはただひとつ、出張や外遊から帰ってくるたびに、幼い弟が遊んでくれとせがむのに、それを無視して書斎に消えていく時の、困ったようなその顔、その広い肩幅だけだったのだ。

 ゲーム本編でも、ホセアはほとんど登場しない上に、自分の子どもたちを放置する、仕事一筋の父親として描かれる。「アルエット」もトーラスも、ホセアとの仲は最悪で、同じ空間に登場しても、まともに会話をしているシーンなど皆無に等しかった。子どもに全く興味がないのである。

 父は娘に興味がなく、娘は父を渇望しつつも憎悪する。愛を希う心は増悪と嫉妬を産み落とし、哀れな娘を愛からさらに遠ざける。愛と激情は円環を続ける。ホセアは、そうして膨れ上がった娘の情念と、その身に流れる膨大な魔力を利用し、最強の堕天使・アザゼル復活させる。この父親にとって、子どもとは手段以上の何ものの価値も持たないのだ。

 そんな父親相手にどう弟や友人、使用人たちの名誉を守ったものか。


 アルエットはそれでも背を伸ばして、守るべきものの前に立ち、来るべき敵を待ち受けた。ホセアはこちらへ大股で近づいて来る。茶色の丸髭と七三分けの中央には、どうも厳粛な表情が浮かんでいるようである。これは面倒なことになるかもしれない。ホセアの足音がすぐ近くまで迫る。投げかけられるであろう怒声を覚悟し、アルエットは腹に力を込めた。

「アルエット!」

 予想に反して、温かく太い声が投げかけられた。声の主はホセアだった。ホセアは腕を大きく広げて歩を進めると、そのままアルエットを抱きしめる。服に染みついた、インクと薬品の臭いが鼻腔をこすった。

「大きくなったねぇ。前に見た時はこんなに小さかったのに、立派に育ったものだなあ。すっかり美しくなって、まるで女神さまみたいじゃないか。お父さま、まぶしいよ」

 ホセアは抱擁をやめ、アルエットの両肩に手を置くと、娘の頭のてっぺんからつま先までを、切なそうに眺めまわした。

「そうだ、学校はどうだ。楽しいか?みんなと上手くやれているか。あ、ガスパール殿下とはどこまで進んでいる?変なことはされていないか?万が一にも何かされたらお父さまにすぐに言うんだぞ。相手が王家だろうがなんだろうが、ウチの娘を傷付ける輩には慈悲も容赦もしないから」

 怒涛の勢いでの猫かわいがりと、娘への深い心配の念が心に流れ込んでくる。後半、特に「ガスパール殿下」以下のところ、語気に並々ならぬものを感じる。ローディングエラーを起こしそうなくらいの情報量に中てられて、アルエットはしばし瞠目した。


「ん?どうしたんだいアルエット」

 自分の分厚い手のひらの下で硬直した娘を前にして、ホセアは、フクロウのような大きな目を瞬いた。

「・・・・いえ。てっきり、お父さまはわたくしに興味がないのかと思っておりましたので」

 繰り返すが、この十五年間、ホセアはまったく家にいなかった。年中行事もすっぽかすし、一年に三回顔を合わせればよい方だったのだ。子どもの教育方針一つとっても、まともに口を挟んだこともない。だから、まさかこれほどまでに子煩悩な人物だとは思わなかったのだ。

「そうなのかい?わたしは、そんなつもりは・・・・・・」

 ホセアが上手い返事を返せないでいると、執事がさささささっと寄って来て、アルエットに耳打ちする。

「お嬢様。ホセアさまは有能な方ですが、それ以上に頼まれた仕事は断れないとんでもないお人好しでして・・・・・・ほいほいホイホイ安請け合いをした挙句過労死寸前になり、幼いアルエットさまやトーラスさまの可愛い盛りにも立ち会えず、終いには『子どもに興味のない親』呼ばわりされておしまいになったのです・・・・・・。この家を取り仕切る執事として、全く以って不甲斐ない限りです」

「聞こえているぞ、ウィリアム」

 ホセアはごほん、と咳払いをして抗議の意を表明した。ホセアは追加で文句を言ってやろうとして振り返ったが、逃げるが勝ちと悟った執事は、素知らぬ顔でどこかに行ってしまっていた。

「だが、反論の余地なし、というやつだな。怪我の功名というべきか、陛下から仕事量を減らせというお達しが出たから、お父さまもゆっくりできるんだ。昔の寂しかった時間の埋め合わせにはならないかもしれないが、これからはたくさんお話しよう」

 ホセアは照れくさそうに鼻の下をこすると、不器用に微笑んだ。

「お父さま・・・・・」

「この親にしてこの子あり。公爵さまはアルエット以上のハイパーお人好しね。納得の遺伝子だわ。まあ、ほとんど対面せずに育っているみたいだから、アルエットのお人好しは自前でしょうけど」

「激しく同意する」

 感動の再会を迎える親子尻目に、何やらコソコソ囁き交わす二人。普段はハイパー屁理屈のぶつけ合いばかりしているくせに、どうしてこういう時だけは息ぴったりなのか。

「そこ、聞こえてますわよ」

 湿りを帯びた声帯をごまかしつつ睨んでやれば、背後で声を出さない笑いが起こった。


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