せっかくの夏の日に
作者多忙のため更新が大幅に遅れましたことを、お詫び申し上げます。
楽しみに待っておられた方は申し訳ございません。
これからも不定期連載とはなりますが、なんとか最後まで書き切りたいです。
外面悪役令嬢、内面聖女のアルエット・フォン・ベルフェゴール公爵令嬢は、朝から浮かれまくっていた。
その証拠に、メイドが起こす前からバッチリ目を覚ましてベッドに腰かけていた。微笑を浮べて重厚な金髪を梳いてもらい、鼻歌まじりにドレスを選ぶ。同年代のメイドと普段より多めにおしゃべりをしながら食堂に向かい、レシピも品数もシンプルながらボリュームのある朝食も、いつもの半分の時間で完食、いそいそと自室に戻って行った。その様子を見ながら使用人たちは、お嬢様はとってもご機嫌がよろしいようだ、と、大多数のものは微笑ましい思いでささやきをかわすのであった。
アルエットは、ワルツを踊るように軽やかに、小股でつま先立ちに廊下を進んでいった。アルエットが身にまとうのは、下から眺めた薔薇のように、ふわりと広がったスカートが華やかな、マリンブルーがまばゆい夏用ドレスだ。アルエットが赤絨毯の上に一歩を印すごとに、ありもしない風に漂う無数の花びらの幻想がそこかしこに生み出された。手前の方で窓ふきをしていた新米のメイドたちが、ほおっとため息をついてアルエットの方を見やる。
「おはよう、ミネット。今日もがんばっているわね。ルーチェにレベッカも、いつもありがとう」
アルエットはにこやかな挨拶でそれに応えた。気分上々といった女主人の様子に、使用人たちも心からの笑顔を向ける。ベルフェゴール邸の使用人たちにとって、この伯爵令嬢の慰労は手厚い福利厚生に匹敵する存在価値があった。
「おはようございます、お嬢様。今日はとってもごきげんですね」
「お、おはようございます。今日もとってもお綺麗ですね!」
「目の保養になります」
アルエットは温かなやり取りを残してその場から遠ざかる。途中、年かさのメイド長とすれ違って、「未来の辞書編纂者は具体例に事欠きませんわね。王妃さま御自ら言葉の正しい使い方を示して下さるのですから。少しはご自重なさったらいかがですか」と嫌味を言われたが、その挨拶に仕込まれた棘も、アルエットの上機嫌を崩すにはいささか鋭さを欠いていた。
無論、喜色満面という四字熟語の見本に使われても文句は言えないほど、今のアルエットの浮かれ具合が態度や顔色に出まくっている、という自覚はある。
「未来の王妃たるもの、いついかなる時も感情を抑制して威厳を保つべし」と言うのは、礼儀作法に対する過剰な厳格さで有名な、アルエット専用妃教育担当の宮廷女官の言だ。仮にも国のトップに立つ者が、のべつ幕無しに感情を垂れ流していては、付き従うものが迷惑するだろう。この老婦人の主張にも一理ある。
が、今日くらいはその嫌味と正論が五分五分のお説教も、かなぐり捨てて許されるだろう、とアルエットは思っている。なぜなら、今日は、うわべだけの品の良さを取り繕うことよりも、他に優先してすべきことがあるからだ。
それも、社交なんかよりも、もっと素敵で、もっと充実感のあることだ。
玄関の方角で馬の嘶きが聞こえ、初老の馬丁の声が来客を告げる。
アルエットは、んふふ、と小さく笑い声を立てると、顔の前で小さく手を合わせて、廊下の隅でくるくるとターンした。回転に合わせて、ドレスの裾が開花するように広がる。
今日、浮かれないでいつ浮かれるというのだ。
ー何と言ったって、今日はお友達がうちに泊まりに来る日なのだから!
「ついに来たわよおおおおお悪役令嬢アルエット生誕の地!」
アルエットが玄関に駆けつけると、ピンクの髪をした客人は、腰をわずかに落として天を仰ぎ、上体を逸らして鋭いガッツポーズを決めていた。そして周囲の使用人たちから奇妙奇天烈なものを見る目を向けられていた。 それはそうだろう。仮にも、フリルのついた薄手の可憐なピンク色のドレスを着た伯爵令嬢が決めるポーズではない。
アルエットは苦笑をひっこめつつ友人に声をかけた。
「ごきげんよう、オレリア。よくいらしてくださったわね」
「おっはよ~」
テンションはあがっても品位は崩さないアルエットの挨拶に対して、オレリア・バーミリアは、元気よく、二本指の敬礼もどきで応じる。この分だと、脳内から脱走した礼儀作法はしばらく戻って来そうもない。
「わたくしのわがままを聞いていただいて恐縮ですわ。でも、本当によろしかったんですの?」
今日のお泊り会は、アルエットが夏休み直前に言いだして、無茶を言って実現させたものだった。オレリアだって他に親しい友だちはいるし、バーミリア家は仲の良い大家族で年中行事が山ほどある。貴族の娘として出席しなければならない公の行事もあったりする。そんな予定でパンパンの夏休みの暦の中から、こちらの都合に合わせて予定を開けてもらったのだ。こっちから誘っておいてなんだが、もしかしたらかなり無理をさせてしまったのではないか、と思うと、アルエットは気が気でなかった。
そう言うと、オレリアは形の良い眉を鋭角に跳ね上げた。
「何辛気臭いこと言ってんのよ。そりゃあ、喜んで駆けつけるわよ。滅多に聞けないあんたのわがままなんだし・・・・・・。それに、半端な知識しかないとはいえ好きなものは好きだし、それについて語りたいし、同じ趣味の人に聞いてもらいことだって山ほどあるんだから。今日は徹夜するわよ」
この世界は、アルエットの前世にあった乙女ゲーム『夢に響く祈りの歌』、通称『ユメウタ』の世界である。この世界に生を受けたアルエットは、文字通り「好きなもの」に囲まれた生活を満喫していた。
ゲームで見たままの事物に触れ、大好きなキャラと同じ空気を吸い、憧れのあの技を、遥か虚空で輝く太陽に向かってぶっ放せるのだ。一人で抱えきれない感激は、毎日のようにアルエットの胸中に押し寄せてやまなかった。
だから、感激が溜まるたびに同じ転生者たるオレリアに話を聞いてもらっていたのだが、学園や学期中では、耳目を気にしたり、スケジュール帳の御機嫌を伺ったりで満足いく会合はできていなかった。
そこで、気兼ねなく振る舞える丸一日予定の何もない夏休みの日を選んで、ゆっくり過ごせる自分の屋敷(王子とかが邪魔しに来る王都の公邸ではなく、風光明媚な領地にある館の方)で、転生者同士、作品や推しへの想いを思う存分語り合う会を開催しようということになったのである。
もっとも、より事実を正確に述べるのならば、「お互いがお互いに、『ユメウタ』への激重愛の籠ったマシンガントークをほぼ一方的に受け止めて(あるいは聞き流して)もらう会」の開催、である。
「ええ、そうですわね。この世界の素晴らしさについて、思う存分語り明かしましょう!」
「安心して頂戴、アルエット。ネタはたっぷり仕込んで来たの。今日は夜が明けるまで語り明かすわよ。勿論、クロードさまのかっこよさについて!」
うん、この会合は後半からは、恋バナあるいはあるストーカー犯罪者の告白めいた色彩を帯びていきそうではある。アルエットはこの世に存在するありとあらゆるストーカーを蛇蝎の如く憎んでいるので、オレリアが一線を越えたら縁を切ろうかと本気で考えている今日この頃である。オレリアは、攻略対象の一人、古代魔術研究家の卵、クロード・スレッダにいっそ激烈なまでに思慕の念を募らせており、その情熱が件の集団食中毒事件の元凶となったことも記憶に新しい。
アルエットは深淵を覗く心持で、ぽん、とオレリアの肩に両手をのせた。
「オレリア、悪いことは言わないから、ほんっとに、ほんっとうにお願いだから、住居侵入とかクロードの私物の窃盗とか、生活ごみを漁るとかだけはやらないでね。わたくし、まだあなたとお友達でいたいの」
「失礼ね!あたしのことをなんだと思ってるのよ!」
「そんなもの決まりきっている。思い込みの激しい劇物製造機、あるいは対クロード用の自動追尾装置、だろう」
二人が声のした方を見やると、もう一人の招待客、暫定ヒロイン「ロビン」こと、ラスボスの堕天使アザゼルが到着していた。アザゼルは《聖槍の騎士団》の制服をまとっており、腰には剣を帯びていた。どうやら、こちらに来る前に騎士団の仕事をこなしてきたらしい。そう言えば、数日前に堕天使グラシャラボラスの「救済」があったか。夏休みもお仕事ご苦労様です。
「ちょっと、さっきの発言撤回しなさいよ。誰が劇物製造機よ。クロードさま云々の方は否定しないけど!」
暴言の主目掛けて、オレリアがすかさず突っかかる。突っかかられた方はどこ吹く風、事実は事実だろうと頑として撤回しない。数度にわたる屁理屈の応酬の後、オレリアは、不良よろしくアザゼルにガンを飛ばした。
「というか、何であんたまでいるのよー。『ユメウタ』興味ないやつは消えなさいよぉぉ」
アザゼルはふん、と鼻を鳴らした。
「文句はわたしまで招待したそこのお人好しに言え。それに、お前は興味と言ったが・・・・・わたしはの目的はお前たちのものとは違うが、そこに至るまでの手段はある程度同じなんでな」
アザゼルは、肩に背負った薄汚れた頭陀袋の中を漁ると、オレリアの鼻先に一冊の本を差し出した。赤色の皮に、箔押しの文字が踊る。
『リラ遺跡の研究 古代の生活様式と信仰について—著・ジョエル・バーミリア伯爵』
それは、バーミリア伯爵が出版した考古学の本だった。自領で発掘された遺跡とそこの遺留品をもとに、古代―アザゼルたちが未だ堕天もせず悠々と地上をのし歩いていたぐらい昔―の風俗や宗教観念などを考察した一冊だ。二十一世紀の日本の市民感覚からすれば、何の変哲もない「その道のマニアが好んで読むだろうゴツイ本」だ。図書館の片隅で埃をかぶっていそうな本ではある。
だが、警察手帳か何かのような勢いでそれを見せつけられたオレリアは、ピンクの頭髪をかき回して項垂れた。そしてそのままの姿勢でややヒステリックに叫びをあげる。
「あんた、その本、自分でお金出して買ったの⁉馬鹿じゃないの。そんな本、うちに行ったら二階の床をぶっ壊しかねないぐらい大量にあるわよ。それも新品のやつがそれはもうたくさん。ああ、もう、言ってくれれば十冊くらいタダであげたのに!なんだったら作者のサインまでつけたわよ!!」
この本は面白いくらい売れていないのだった。
なんでも、これに記されている内容が現在流布している歴史や教えに反するとかで、善神ミカルに仕える聖職者や信心深い紳士淑女のひんしゅくを買ったらしい。組織的かつ大規模に敢行されたネガティブキャンペーンが見事に決まり、現在、バーミリア家は在庫の山に埋め尽くされているのだそうだ。
そう言えば、我らが王立魔法学園の歴史学担当教授もこの本の内容がいけ好かないとかで、わざわざ自腹でこの本を購入し、一学期まるまる使って散々にこき下ろしていた。
一方、アザゼルはこの本が大のお気に入りだ。一学期に購入して以来、何度も読み返しているのを目撃している。多分、アザゼルは、現代にいたら寺社仏閣とか博物館とかが好きなタイプだと思う。アルエットは、アザゼルが自分の高校の制服を着ているところを想像して、ほっこりした気分になった。
「あら、文化鑑賞を計画しているのね。素敵。でも、よそ様の領地にいきなり押しかけても大丈夫なの?」
「バーミリア伯には事前に手紙を送って許可を取っている。伯爵自ら遺跡の解説もしてくれるそうだ」
「あんた正気?長いわよ父様の話は!」
「わたくしもご一緒してよろしいかしら。この遺跡はゲームにも全く出てこないし、とても興味があるのよ。でも、わたくし、あまり考古学に詳しくなくて・・・・・あ、見どころを教えて下さらない?予習がしたいわ」
「アルエット、あんたも正気?あの校長先生の話くらい長い父様の話、本当に聞きたいの?」
「大丈夫じゃないか?返信に『よろしければお友達もご一緒に』と書いてあったから。それから見どころだが、このレリーフと・・・・・・」
「ちょっと、あんたたち人の話聞きなさいよ。ひとが折角忠告してあげてるのに・・・・・長いわよ父様の話は!遺跡の話なんて、領地に帰るたびにうんざりするほど話聞かされてるのよ。一時間に同じ話を三回もするんだから。実際の作者なんて会ってみるもんじゃないの!夢壊すわよ」
がっかりしても知らないからね!と、会話から完全に締め出されてしまったオレリアが叫ぶ。相変わらず、口は悪いし言い方も悪いが、なんだかんだいって面倒見の良さが溢れ出している。
オレリアの真意を知ってか知らずか、アザゼルが二、三、余計なことを返す。それにオレリアが反撃を加え、更なる反撃を呼び込む。
このまま放置してはしばらく玄関から動けなくなると踏んだアルエットは、
「ふ、二人とも、ここに来るのははじめてですわね?今からお屋敷のをご案内しますわ、お散歩を楽しみましょう」
と上ずった声を出して、慌てて二人を引きはがしたのであった。
それから屋敷内部と、敷地内の施設を見て回った。そうして大体を見て回った後に、アルエットは、二人を館を囲む広大な庭へ案内した。
ここは王国屈指の庭師たちが、腕によりをかけて作り上げた立派な庭園だ。噴水もあるし迷路もある。ブランコも東屋も、立派なものがついている。温室も完備され、世界中からかき集めた草木や花が季節ごとに楽しめる。目玉は多種多様な薔薇の生垣で、毎年何かしらの新しい品種が生み出されている。その壮麗さは、パルミラ王国の三大庭園の一つに数えられるほどだ。ゲーム知識がなくても普通に鑑賞するだけの価値はある庭であった。
「えっ、何あの植物。はじめて見た。あっ、あっちは?何アレ、本当に植物⁉」
オレリアは物珍しげにきょろきょろとあたりを見まわしてちょこちょこと走り、戻って来ては盛んに説明を求めた。アルエットたちは子どもにつき合わされた保護者のような気分でその後を追う。アルエットは、家主の責務としてできる限り質問には答えたが、どうにも分からないことはその辺にいた二人の庭師を捕まえて解説を依頼した。
が、この人選がまずかった。造園一筋四十年の庭師の方は張り切ってしまって、オレリアを引きずって庭の奥へ消えていった。オレリアもノリノリでついていった。
反面、後に残った若い方の庭師は不幸である。なぜなら、自分よりもはるかに庭のことに詳しいお嬢様と、草花や庭園の美観に一切興味を示さない不愛想な客人相手に説明をし続ける羽目になったからである。
アルエットは、若い庭師の言葉に適当に相槌を打ちながら、少し前を歩くアザゼルの横顔を見やった。あれは何で、これは何と言う花で、という庭師の説明を、興味なさげに聞いている。アゲハ蝶が顔のすぐそばを通り過ぎ、八月の熱風が銀のさらさらとした髪を撫でていくが、アザゼルは無感動に、夏の若々しい雲と青空を、ガーネットの色の目に収めるだけだった。非常に退屈そうだが、なぜか辟易しているようには感じられなかった。
アザゼルが、今回の招待を一応楽しみにしてくれていてよかったと思う。興味のない集まりに無理矢理誘った自覚があったので、嫌々遊びに来ているのではないかと心配していたのだ。それでも、趣味は共有できなくても一緒の空間で過ごしたい、というのは勝手が過ぎるだろうか。
だが、そこまで考えて、アザゼルが興味のないこと・実利のないことを黙って強要されるタイプではないことに思い至る。バーミリア領の遺跡が見学したいだけならば、近隣の町に宿を取り、ベルフェゴール領とは一切かかわらないでことを済ませることができる。ならば、宿代の節約のため?そんな細事にこだわるアザゼルではない。
ならばなぜ、アザゼルは今回の招待を受けてくれたのだろう。向こうにほとんど利益のなく、アルエットのわがままに付き合わせるだけのこの招待に。
共にいるだけで楽しく、無理なく共に過ごせ、多少のわがままやちょっとした迷惑のかけ合いなどの負債を笑って許せる関係性のことを「友人」と呼ぶのなら。アルエットの中で、アザゼルはもはや「友人」の扱いだった。アザゼルは、どうだろう。アルエットは、アザゼルの「友人」たりえているのだろうか?
そんなことを考えていると、興味の赴くままの突撃を終えたオレリアが戻ってきた。老庭師の姿が通路の遠くにポツンと見える。オレリアの大暴走につき合って体力を使い果たしたのか、非常にゆっくりとした足取りで来た道を戻ろうとしていた。先輩の姿を認めた若い庭師は、老体の保護を名目として、これ幸いとばかりに針の筵から逃走した。
「ほんっとに凄い庭だったわ!」
オレリアは、興奮にきらきらと目を輝かせ、少し照れ気味に所感を述べた。
「それにしてもベルフェゴール邸、凄まじい再現率ね。イベントとか回想シーンとかで見たまんま・・・・・まあ、細部まではあんまり覚えてないんだけど—―」
「そうなのよ!」
アルエットは食い気味に首肯した。
うろ覚えでも構わない、やっと共感してくれる人が現れた。アルエットは社交ダンスでもするように、熱を込めて、それでいて優雅さを崩さない勢いでオレリアの手を取った。
「すばらしいでしょう?あれもこれも、全部公式ファンブック通りなの!」
「あんたが言うなら折り紙付きの再現率なのね。じゃあ凄いわ!」
筋金入りの『ユメウタ』オタクに断言され、オレリアは秒で納得することにした。こういうう場合は識者に従った方がいい。
「・・・・・それ、ほんとに良かったのか?」
盛り上がるファン二人に、薄ら寒い視線を送るアザゼル。
「ええ。そうですけど」
「当たり前じゃない、何言ってんの」
アルエットとオレリアは手をつないだまま、「質問の趣旨が分からない」という、きょとんとした目でアザゼルを見つめた。
見つめられたアザゼルは、「すなわちそれは何も新しい発見がなかったという意味にならないのか」と言いかけて、やめた。原作至上主義者の熱狂には第三者のツッコミは通用しないということを、この数か月間で身を以って学んでいたからである。本人が楽しければ放置でいいのだ。こちらが世話を焼くことではない。
説明が面倒くさくなったアザゼルは、咳払いをして適当に誤魔化すことにした。
「ああ、いや、その『公式ファンブック』というやつは、『赤い本』みたいだなと思っただけだ」
「「『赤い本』?」」
アルエットとオレリアは仲良く合唱して聞き返す。ゲーム本編にもファンブックにも制作裏話にも登場した覚えがない。初耳の設定だった。
アザゼルの説明によれば、「赤い本」とは、邪神ルシフの持つ、この世界に関する全ての事柄が記された、赤い革表紙の本だと言う。項目も自然物から魔法、道具、人間、天使、悪魔など多岐に渡る。この本を手にする者は、万物に対する叡智を得、草木や獣、魔物や人間のすべてを把握し、それらを意のままに操ることができると言い伝えられていた。
そんな驚異の書が、最近、パルミラ王国のどこかの大貴族に、邪神ルシフから下されたのだという。
天地を揺るがす危険の書は一体全体何者の手に渡ったのか。
現在、《聖槍の騎士団》はその噂で持ち切りだった。今や雑談という名の対策会議は建設的な推論の域を超え、妬みとひがみとやっかみに基づく憶測合戦に突入していた。七月の末あたりからちらほらと姿を現し始めた風説は、八月半ばの現在、不穏の雲となって騎士団全体を覆い尽くしつつある。流言飛語が節制の堤を破って市井に溢れかえるのは、もう間もなくのことだと思われた。
「これから王国に吹き荒れるのは魔女狩りの嵐という訳だ。『赤い本』の所持者と間違われたくなければ、みだりにそれと紛らわしい本の存在を語らないことだな」
そう言って、アザゼルは話を締めくくった。
「しかし、本当に知らないのか?ルシフが出てくるなら、当然一緒に出てくるだろうに」
「そもそも、『ユメウタ』にルシフは出てこないわ。このゲーム、大人気ゲームの二作目で、続編の制作が決まっているのよ。それで、邪神も悪魔も『3(仮)』までお預け。ヒロインの子ども世代が邪神を倒しに大陸中を大冒険するのよ」
アルエットもオレリアも、『3(仮)』のリリース前に死んでしまったから、それ以上詳しいことは言えない。だが『ユメウタ』のラスボスはアザゼルであって、同等かそれ以上に強いと言われるルシフの出る幕は全くない、ということだけは確かである。全選択肢を記憶するまで徹底的にやりこんだアルエットが言うのだから、間違いはない。
その時、ガシャン、という何かが割れる音が響き渡った。次いで、ジリリリリリリリ、とけたたましいベルの警告が屋敷を揺るがす。
「この音は何だ」
アザゼルが説明を求めると、さっきの庭師がしゃしゃり出て、慇懃に説明をよこす。
「ご主人様お手製の警備システムが作動したのです」
「この世界観に警備システム⁉」
「他領にはない画期的な魔法ですからな。驚かれるのも無理はないでしょう。しかし、ご主人様・・・・・ベルフェゴール公爵は王国一の発明家でおられますから、今まで誰も思いつかなかったような魔法を思いついて実装することくらい、朝飯前でございますよ」
素っ頓狂な叫びをあげるオレリアに対して、庭師は得意げに胸を張って答えた。この老庭師はアルエットが生まれた頃にはすでにこの屋敷に勤めており、アルエットの父が子どもの時にはお守り役を仰せつかっている。そのため、自分の主人とその領地に関して、使用人たちの中でもひときわ強い愛着を持っていて、状況が許すものならことあるごとに自慢したがるのだった。
「御託はいい、早く音の発生源に案内しろ」
アザゼルが低く吐き捨て、剣を引き抜いた。アルエットは、無駄に敵を作るだろうからものの言い方に気を付けなさいと言ってやりたくなったが、今は緊急事態であり、しかも毎度のことであるからと小言をぐっと飲みこむことにした。




