1話ー③
何気ない1日が変わることは何時だって突然やってくる。
ベットの光を通す天幕から差し込んだ淡い朝日の中、レイティの薄らと開いた寝ぼけた瞳に飛び込んで来たのは光の鱗粉を撒き散らしながら自身の上部を飛ぶ美しい色をした蝶だった。
レイティは大きく伸びをして惰性を要求する体を起こす。木々が青々とした葉を付ける寝苦しい季節だが、魔道具により快適な環境に整えられた公爵邸には欠かせない薄い掛け布団の上に置いた手を蝶に向けて差し出すと蝶はなんの疑いも無くレイティの指の上に止まる。
(何かしら?)
しばらくレイティの指の上で羽を上下させていたが、レイティは不思議な蝶の観察に飽きたのか蝶を払い除けるため手首を振ると瞬く間に蝶から手紙に変わってしまう。
レイティは蝶からら変化した手紙が落ちる前に指の間に挟み差出人を確認した後、裏面を光に反射させる。無地のシンプルな封筒に微かに浮かび上がる簡単な隠蔽の魔法式に隠された複雑な魔術式を見て差出人が真であることを確信した。
「さすがに寝起きドッキリは驚きます、お兄様…」
レイティはここには居ない人に向かって苦言を漏らす。レイティは公爵令嬢であり更に将来王族に仕えることが確定している。そんなレイティに嫉妬する輩は大勢いる。そのため彼女を警護する護衛も多くいるがベットの天幕の内まで護ってくれることは無く睡眠中は無防備になってしまう。レイティは暗殺の可能性を心配したのだ。
手紙を開くと整った文字で定型文から始まりレイティの身を案じる文書が目に留まる。レイティは過保護な兄を思い出しひとりでに懐かしい気持ちと共に苦笑し、次の文書へと移って行く。
「今日…?」
思わず呟いた声と共に目線は文字を追うのを止めひとつの言葉を何度も確認する。そこには今日、帰省することが記載されていた。
レイティは嬉しい気持ちでいっぱいになるが、もう少し早くに知らせてくれてもいいでは無いかと内心愚痴る。手紙のその先の文書ではレイティを驚かせたかったと書いてあったが、朝の蝶で十二分に驚かされている。これ以上はレイティの心臓が持ちそうにない。
「もうお目覚めですか?レイティお嬢様」
レイティの独り言が聞こえていたのか天幕を半身ほど開けて隙間からレイティ専属侍女のライカが確認をする。
「ええ、カーテンを開けてくれてありがとう。おかげで今日もいい朝を迎えることができたわ」
「それは良かったです」
ライカは穏やかに微笑むと「支度の用意を持って来ます」と断りを入れその場を離れようとするライカに手紙を預ける。
「アノール様が今日ご帰宅されるそうですよ」
差出人の名前を確認したライカは思い出したようにレイティに教えてくれる。アノールはレイティの兄の名前だ。
「そうね、久ぶりに会えるのが楽しみだわ!急で大変かもしれないけれどよろしくね」
「はい!」
はっきりとした少女特有の高く元気のあらる声が返ってくる。レイティは朝の身支度をスタートさせた。
昼下がり、公爵邸の図書室の窓辺のソファに深く腰掛けてレイティは読書を楽しんでいた。窓からは明るい昼の日光が降り注ぎ手に持っている古いインクの匂いがする分厚いのページを照らしている。外は緑の葉が勢いよく茂り夏の花々が蕾をつけている。
今日は王宮での講義やレッスン、公務補助が無い珍しい完全休日でレイティは数日前から図書館に籠る計画を立てていた。それはレイティの兄が帰宅するという嬉しい知らせが届いたとしても変える気は無い。
読み終えた本を閉じサイドテーブルに積み上げた19冊の本の1番上に置く。あと1冊読み終われば本棚に戻そうと思いつつ、同じサイドテーブルに置いている未読の11冊の1番上にある本を手に取る。否、取ろうとしたが本が重くてレイティの細い片腕では持ち上げることができなかった。
もっと正確にいうと毛並みの整った黒い猫のようなのような耳を持つけれど先が白い尾は狐のようにふっくらとした柔らかみがある黄金と明るい青緑のオッドアイの四足獣の前足が本を抑え付けていた。レイティと四足獣は暫し見つめ合う。
「あの〜、その脚退けて頂けませんかね〜…?」
レイティが四足獣にお願いしてみたが四足獣は瞬きひとつせずにこちらを見つめる。
「あ、の〜…?」
またもやレイティは四足獣と暫し見つめ合うことになる。人が滅多に寄り付かない屋敷の隅に位置する図書室は部屋の内部外部に関わらず静かで、1人と1匹の間を空気が通り過ぎていく。
四足獣の瞳が僅かにレイティから外れる。レイティはここぞとばかりに四足獣の前足と21冊目の本の間から20冊目の本を引き抜く。
「やった!」
レイティはそう言って喜びのあまり手に入れた本を頭上へ持ち上げる。すると次の瞬間手に握りしめていた本が意図も簡単に滑り取られる。見上げると予想どうりの人物が眉間に皺を寄せ見下ろしていた。
「ああああぁぁぁぁ!!」
「集中しすぎだ」
レイティから本を奪い取った犯人は手に持っている本でレイティの頭を軽く叩き、隣に腰掛けて膝を組む。本はレイティが座っている反対側のサイドテーブルに置かれてしまった。
「酷いですわ!お兄様!」
レイティは隣に腰を下ろした本を盗った上に頭を叩いてきた人物を叩かれた既に痛みのひいた頭をわざとらしく撫でながら目で追う。
お兄様はレイティと同じプラチナブロンドに淡い光を放つ澄んだ水の色をした瞳を持っており、レイティの31歳上の頼りになる(?)ミナミノ公爵家嫡男だ。魔力量の多い生物は成長スピードも寿命も大きく長くなる為兄弟間で30以上年齢が離れていたとしても何も不思議ではない。
「その言われようは心外だな。愛する妹のせっかくの休日に合わせて帰省したというのに、妹は読書に夢中で私の出迎えに来てくれないばかりか酷い呼ばわりだなんて…」
「う…、、」
痛い所を衝かれレイティは何も言えなくなる。レイティはアノールの出迎えをしないつもりは無かった。ただ読書に没頭しており呼びに来た侍女の声すら届かなかっただけなのだ。
「さらにティルが嘆いている私を慰めようと奮闘した結果を一蹴するとは…」
「うぐっ…」
容赦なく突き刺さる言葉の刃にレイティは胸を抑える。そして、すぐさま姿勢を整えアノールに向かい頭を勢いよく下げる。
「申し訳ございませんでしたぁぁ!」
アノールはレイティの頭を優しく叩くように撫でる。レイティは恐る恐る顔を上げるといい笑顔のアノールと目が合う。
「謝罪の前に言うべきことがあるのではないか?」
それを指摘されレイティはアノールが帰宅してから掛けた言葉が苦情と謝罪であることを思い出した。
「…おかえりなさい」
アノールの笑顔が緩く解け自然な微笑みに変わる。細められた瞳から覗く瞳には慈愛の色が写り、周囲の空気が窓から注ぐ光と共にほのぼのとしたものに変化する。
「ただいま」
アノールが満足気に言うと横からも「ナー」と声がした。