3話ー⑥
嬉しいのか怒りなのか悲しみなのか喜びなのか分からない感情が錯綜する。ひと目で彼女が番であると分かった。ふた目で彼女への龍としての本能が告げる欲望を知った。みつ目でそれらを拒絶した。
レイティはノアが目覚めた姿を認めて顔を輝かせる。
「ノア!」
屈託のない笑顔で声を上げると生きていることを確かめようとノアの手を取ろうとした。しかしノアはそれを避けるようにレイティ側にあった右手を移動させる。それを見て行き場を失った手をレイティは自分の膝の上へ戻す。
(今は駄目)
落胆の色が読み取れるが、一度触れれば歯止めが効かなくなるだろうから許して欲しい。避けた手の爪が反対の腕の皮膚に食い込む。
「目覚めてよかった!もう…もう目が閉じたままかと思ったから…」
レイティの安堵の表情を見てノアも息を吐く。安堵すれば急に涙が出てきたようで彼女は目頭を押さえる。
「僕はいなくなったりしないよ」
「ほんとう?」
慰められるように安心させれる微笑みを浮かべれば、レイティは縋るように上目遣いでノアを見つめる。
「本当だよ、レイが僕の側からいなくならない限り絶対に、ね」
レイティは口元を緩めるが、伏せ目がちな瞳には憂いが含まれており、元気づけるためだけの虚言だと捉えたようだった。
「約束…わたしを置いて逝かないでね…」
「うん、約束」
弱々しく吐かれた言葉にノアは強く頷く。
この神殿内には王家とミナミノ公爵家、クロウ公爵と限られたシスターと神官しか入ることができない。故に人手の多くは後片付けに追われ、ノアの様子はレイティが見ることになったらしい。また、神殿に入られない為に第11の君の友人であるアミンから頼まれて第11の君の無事との手紙の配達役もするそうだ。
狭い部屋でささやかな会話をしていると不意に木製の扉を叩く音がする。返事をすると扉が音を立てて開く。
「レイティ、そろそろ帰ろうか」
中を覗いた薄い金色の髪に皺ひとつないアノールに似た美貌を持つ顔立ちの美青年。しかし既に250歳を過ぎているレイティの父親のミナミノ公爵だ。優しげな物腰のミナミノ公爵は娘に続いてノアが目覚めていることに気がついたらしく貴族らしい礼を取る。
ミナミノ公爵が部屋を出ていき、それに続いて帰宅の挨拶を簡単に済ませたレイティも出ていくのをベットの上から見送る。
部屋の扉が音を立てて閉まると途端に寒くなる。部屋が実際に外からの冷気によって冷やされていることもあるだろうが、それ以上に心の埋められていた穴が空っぽになったようだった。
本能が奪われたのだと叫ぶ、理性が家へ帰ったのだと諭す。
(家は自分の隣であるべき、ね……龍になんてなりたくなかったよ)
彼女の家も彼女の居場所も彼女が決めるべきもので他人が決めてはならない。ノアは振って固まっていた手を下ろす。右手が掴んでいた左腕の箇所にはいつの間にか血糊が付着していた。
レイティがノアから離れることは無いと根拠無しに確信できることが唯一の救いだと言える。
龍が持つこの欲望はレイティが教えてくれた綺麗で有頂天になるように心地いい温かな感情―恋とは似ているようで全く違った。恋はレイティを幸せにしようとした、彼女が笑顔でいて欲しいと願うのに対して、龍の欲望は酷く醜い、自分の幸せを相手に押し付けている。
「何を見ているんだ?」
声を掛けられて振り返るとそこには第2の君が立っていた。王宮で見かける時は後ろで1つに縛っている癖のあるシルバーブロンドは下ろされて風に揺れていた。ノアは初めこの質問に対してどう答えるか迷ったが、第2の君の何処も写さない瞳を見て彼もまた龍の血を共にひく者だと悟る。
「何も」
「そう、私の弟達は本当に呑気なものだよ。第6の君は空を眺めて第11の君は中で魔術本を読んでいるのだからね」
淡白に答えれば彼は特に興味も無さげに答える。
「それで僕に何の用事があるの?」
第2の君はノアの言葉に目を細める。会話の反応からわかる通り第2の君がノアに話しかけて来たのは無意味な雑談をするためでは無く、彼に問いたい事柄があるから未だ夜の凍える風が吹くデッキへやって来たのだ。
「単刀直入に訊くけど、何故儀式を失敗させた?」
「失敗?」
国王は成功と呟いたのだから失敗であるはずがない。ましてノアは容姿こそ変化は無いが、龍化を確かに体験したのだ。だからノアは初め言葉の意味が分からなかった。だが、第2の君の体の横に下ろしている腕が微かに震えているのを確認して、彼は自分が生き長らえていることに気持ち悪さを抱いているのだとはたと気がつく。
ノアにとって魔力を分け与えた行為は単なるその場を収める為の処方だった。だが、された相手からすれば寿命は伸びるだろうが自分を構成する時間が望まずひて無理矢理引き伸ばされた。さらにその時間は自分のものではなく引き伸ばさせたその人のものだと神話に記述されているのだから耐え難いものだ。
それも踏まえて第2の君が失敗だと言うのならばそれもまた正しい。
「不可抗力だよ、あのままだったら状況はさらに惨いものになっていたよ」
第2の君は眉間に皺を寄せる。
「だけど魔力を送り込まれたのには吐き気がする」
「すみません」
ノアは咄嗟に謝罪の言葉を述べる。魔力を分け与えるのは切羽詰まったあの状況では最善解に思えたが、抑えきれない魔力は誰もいない神殿上空に放出しても解決できたのでは無いかと思う。その場合は龍に姿が転変するだろうが、自らが龍であることを隠蔽したかったわけでは無いのだから特に問題は無い筈だ。
どうにしてもノアは魔力を分け与えるという方法を取った。その影響で今の彼の魔力は極端に少なくなっており、目に見えて分かるようになるにはもう少し時間が掛かりそうだ。それに魔力が全回復したとしても魔力の総量は減少している。
魔力の器そのものを他者に分け与えるとは、聖典に書かれていた魔力を分け与えるの意味だ。龍の番が長い間歳を取らなくなるのはこれを結婚式で行うことによるためだ。ちなみに、既に飽和している器にそれ以上の魔力を無理矢理注ぎ込むのは殺す行為を意味する。
「別になんでもいーじゃん、したのおにーさまのおかげで延命できたわけだし!」
いつの間にか神殿内とデッキを隔てる扉から顔を覗かせて言う。月明かりで2人の方へ近付いてくる第11の君の場違いな程の笑顔が照らされる。第2の君は怪訝そうに第11の君を見返す。
「おかげでアミンをまた助けることができそーだよ」
第11の君は腕に抱えて開いていた分厚い魔導書を閉じる。アミンはカタラーナ伯爵令嬢で彼の遊び相手として5年前から王城に出入りしている少女だ。第11の君はアミンを友達だと言うが、ノアには玩具として遊んでいるとしか思えない言動が多い気もする。
王城を抜け出してカタラーナ伯爵領へ密かに訪れる計画は雪が降る前に成功したらしく、1週間、第11の君失踪事件が起こり彼は帰城後1ヶ月の謹慎が言い渡されたそうだが、全く懲りていない様子だ。
第2の君は溜息を吐いて笑顔になる第11の君へ失望の表情を寄越す。そして厚い雪雲がぽっかりと空いた隙間から照らす月と星を見上げて徐ろにデッキの端へ移動する。
「私は寿命が延びて残念に思うよ」
独り言のように小さな声で呟かれた言葉は悲愴が含まれていた。ノアと第11の君の方向へ向き直ると柵を背にもたれる。
「弟達のようななにか大切にしたいものとかもないからね。今の生活に不満を持っているわけではないけれど、ずっと………死ぬことを望んでいるんだよ」
その静かな叫びはきっと悲痛だ。第2の君は今世の王族の子供の中でこれまで1番典型的な『王族』だった。だけれど、そんな彼の実情は空虚で寂しいものだ。
「うえのおにーさま、かわいそう」
凍える北風が吹いて雪が舞う。第11の君がそう第2の君に対して感想を呟く。第11の君の言葉に対して第2の君は同情とも皮肉とも捉えたわけでもない。はなから言葉を掛けて欲しいわけでも無さそうに薄い笑みを浮かべる。
第2の君は空を見上げる。力を込めたようにも見えなかったが、神殿の一部で壊れるはずも無いデッキの柵が崩れ落ちる。厚い雲を分けてぽっかりと空いた空間にある星と月を背景に柵と共に体勢を崩して崖の下へ落ちていく様にノアと第11の君は仰天して慌てて縁へ近づく。
しかし、デッキの下は暗黒で切り立つ崖に立つ神殿のために落差も大きい。ノアや第11の君ならば魔術の使用で助かるかもしれないが才能が開花していない第2の君の生存確率は極めて低い。
「落ちちゃった!どーしよぉ!」
崖下を見ながら慌てふためく第11の君だが、助けに後を追うという選択肢は無いようだった。
(ヒトが落ちた場合は救助をすべし。だけど…、)
それはまたノアも同じで延命を行ったのはあの時他の方法を思いつかなかっただけで短命の兄を助けたいという思いなど少しも無かった。そして兄は死を願っており、ノアもデッキから落ちて死を迎えるとしても助けたいという思いは湧かない。
「レイなら助ける」
そう結論を出すと不思議な程自然と体が第2の君救出に動く。
だが、デッキ10メートル下、神殿を包む結界に指が触れた先、躊躇して空中で止まってしまう。この結界を今出るのは危険だと本能が告げる。神殿を包むように張られた結界は龍力を安定させる補助を担っている。
儀式が成功したとはいえ、他の魔術陣に乗る肉親に魔力を分け与えた為か不完全だった。今この結界を出ることはゆっくりと行われていたものが急激に進行することになる。
「おにーさま!」
上から第11の君の叫び声が聞こえる。見上げれば下を覗き込んでいる彼と目が合う。第2の君救出を断念してデッキへ上がると第11の君が胸を押さえて息を吐く。
「第2の君を見つけ出すのは不可能かな」
「僕も。おにーさまみたいに空すら飛べないからなぁ」
レイティは龍にも人と同じように感情があって、寂しさや喜び、愛おしさは感じることができると言っていた。それは本当のことなのかもしれない。ノアと第11の君は崖下の暗黒を見つめた。