2話ー⑫
レイティは季節外れな美しい光を反射する半透明な白い薔薇が咲き誇る湖の畔で静かに景色をぼんやりと眺めていた。地上は秋の盛だとしても山に囲まれた標高の高いここは気温が低く、昼間でも羽織る薄手の上着が欲しい程度には涼しい地域だ。
風が強く吹かない今日は湖面が周囲の山々を映し出す。彼女の周りに咲く薔薇は靡くこと無く、湖の周りに立つ建物も2大公爵家と王家の別荘、小さな町しかないから世界が静止したように物静かだった。
「レイティお嬢様…」
草を踏む音がして声が掛けられる。振り返ることなく声の主が隣まで来たタイミングでそちらを見れば、レイティの専属侍女であるライカが心配そうに顔を覗き込んでいた。
茶髪の彼女は15年前から成長し、少女の幼さは消え立派なレディとなっていた。8年ほど前に結婚し、今年5歳となる息子と1歳の娘を見せてくれていた。
「そのような格好では風邪をひいてしまいます…」
そう言って手に持っていたブランケットを肩に掛けてくれる。レイティは元々薄いラフなワンピースに厚めの上着を着ていたが、上着がいつの間にか肩から落ちてしまっていたらしい。上着の着せ直しもついでにしてくれる。
世話焼きなライカのふくよかな胸がレイティに彼女が2人の子供を持つ母親であることを印象付ける。
「今夜は冷えるそうです。…お早めに屋敷へお戻りください」
レイティはライカの言葉に頷くことなく彼女から目を離して風のない静かな湖へ視線を移す。ライカが拳を握り締める気配がする。
つい昨日も気が付かないうちに日が沈んでしまい、戻らない主人に使用人達が頭を悩ませたことは聞かなくても想像できることだった。
1人になりたいと我儘を言い人を遠ざけており、護衛も黒いリボンと王都の公爵邸から持ち出した防衛グッズがあることを言い訳に基本的に一人だ。こうしてライカが話し掛けている方が別荘に来てからは珍しい。
「あとこれを…」
そう言って渡してきた物は特に模様などは無いシンプルな白い封筒に入った手紙であった。表には親愛なるレイティへと書かれ、裏にはクロウ公爵家の封蝋印が押されてあった。レイティは手紙を受け取ると何を考えているのか分からない表情でそれを眺める。
「それでは、失礼します」
見て確認しなくても声色からはっきりと分かる憂いを残して再び草を踏む音を立てながらその場を去って行く。レイティは封筒の栓を風魔法で開き、中から質の良い紙が使われた便箋を取り出す。
―友人との別れは辛いだろう、今のうちにしっかりと療養しておけ。だが、レイティがいないと仕事が滞ってしまうところもある。できるだけ早く戻って来てくれるとありがたい。マルティーヌ湖の辺りは既に寒いと聞く、風邪は引かないように。其方の健康を祈る―
1枚目にはだいたいこのようなことが綴られていた。レイティは無言のまま文字を目で追う。彼女の翡翠色の瞳は光を映さず陰鬱なとした印象を与える。表情を変えることなく1枚目の便箋を読み終えると他2枚の事務的な連絡を見る。問題がないか確認して欲しいらしい。
洪水により被害を受けた地域には一時的な免税をし、代わりに畑や家、橋の修繕を命じたらしい。それにかかる費用は補助が出るように領主に働きかけたそうだ。治安悪化の食い止めなどの問題も山積みで、レイティの代理にアノールを置いているがそもそもアノールが任されていた案件もあった為、レイティを補う程は見込めないようだった。
それもあり、フィンクスはレイティの様子を見に来れる暇は無いと手紙で語っている。アノールは一度だけ顔を見せたことがあるが、かなり疲労の色が濃かったようだったことを覚えている。しかし、そうであっても使い物にならない妹に優しく接した彼はまさに理想の兄であろう。
手紙は全て出したと思っていたが、封筒にはまだ何か残っているようで手に取った時に固形物がレイティの手に当たる。
封筒をひっくり返して固形物を掌に出せば、それはビー玉のような丸い石だった。レイティが持ち上げて太陽に透かしてみれば、中に白く輝く模様―魔術式が入っていることが分かる。石はキーホルダーになっており、輪になっている紐に桃色の紙が結んであった。
解いて中を確認するとそこには習い始め特有の拙い文字で『おねえさま、げんきになってください』と書かれてある。
―おねえさま―
レイティは何度もその文字をなぞる。脳裏に何度もその言葉を口にする愛らしい姫を追憶する。口から言葉にならない音が出て、目から留まることなく涙がこぼれ落ちていく。
動く度に揺れる軽く巻いた白銀の髪に菫色の美しい瞳を持つ、かつてレイティを『お姉様』と呼んだ彼女はもうこの世からいない――
「あぁ…ぁぁぁああ゛」
レイティは膝を胸へ寄せてそこに顔を埋める。彼女が亡くなってから声も涙も枯れる程泣いた。だけれど少しも楽にはならなかった。心にぽっかりと穴が空いたようにどうしようもなく虚しい。
何故彼女が亡くならなければならなかったのか―これはレイティが龍について学び始めていた頃から理解していた。彼女は自らの体の中を流れる龍の血によってこの世から居なくならざる得なかったのだ。これまでならば仕方ないと割り切ることができたが、可愛らしい友人の死はレイティにとってとてつもなく重いものだった。
目から涙が溢れる度に閉じ込めていた憂鬱な感情が入り乱れ、深く沈んだ心は何がそれ程までに悲しいのか、苦しいのかすらわからなくなっていく。ただ空っぽになったような錯覚をする心は哀しみを訴えてくる。
空気の流れと生物の気配を感じてレイティは膝に埋めていた顔を上げる。涙と目の隈は彼女の心理状況をよく表している。
「第9の…ひめ……?」
白い髪が澄んだ太陽の光を受けて白銀色に輝く。ふんわりと風がその髪をたなびかせる。だけれどその髪は長くは無かった。顔立ちだって似てはいるが、少女らしさは無く中性的な美貌がだった。何よりレイティを捕らえる瞳は感情が様々に変わる菫色の瞳ではなく、七色に光の加減により移ろう不思議な白い瞳だった。
(違う……、第9の姫は永遠の眠りについたのよ……。彼女は―…彼は――)
レイティは瞳を閉じる。足元に咲く半透明な薔薇が彼の魔力と共鳴しているのか輝き、光の胞子のようなものを飛ばす。レイティはもう一度目を開け、訪問客を見据える。
「――ノア…」