薄羽蜉蝣の唄
夏の夜。大引けの拍子木が鳴り響く。
今宵も万事つつがなく夜半を過ぎたと清川は腰に纏わりつく男の腕を撫でた。
「ひと汗かいたらやっぱり夜は冷えるなあ」
「そうですねえ」
冷えると言いながらも着物を羽織るだけでごろりと膝の上へ横になる男に清川は布団を掛ける。
煙管に火を灯すと男はプカリと輪を吐き出した。
「こんな夜は誰かがおはぐろどぶを越えてゆくもんさ。ほら、追っ手の声が聞こえやがる」
清川が耳を澄ましても他の部屋から艶かしい声が聞こえるだけ。
「お前さんは年季はあと幾つだい」
「五年ですよ」
「結構長えな。なあ、お前さんは廓抜けしようって相手は居ないのかい?」
「そんなもの居ませんよ。間夫なんて面倒なだけじゃないですか。まして廓抜けなんて上手くいくわけがないでしょう。捕まって折檻で済むならまだしも益々借金が増えるだけですからね」
「お前さんは冷めてるねえ。おおっ寒い。お前さんの冷たさに凍えそうだ温めてくれねえか」
「あら、それはごめんなんし」
男が冗談めかして言うものだからつい清川も笑いながら男の身体に手を伸ばす。
その手を掴まれて引き寄せられると清川の身体はあっという間に男の胸の上に乗っていた。
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「よおっ清川」
張り見世に出てすぐ顔馴染みが格子越しに無駄に整った笑顔を覗かせた。
驚きながらも悪びれた風は一切ない男に清川は笑い返し煙管を渡した。
「ご無沙汰じゃありませんか。忘れちまうところでしたよ」
「悪いね。おお寒い。すっかり秋も終わりだなあ」
男はわざとらしく肩を抱いて震えて見せる。
そそくさと清川の膝に寝転がると煙管に火を灯してプカリと輪を吐き出した。
「ああやっぱり清川、お前さんは良いね。大見世は何もかもがお高いからねえ」
「大見世? 小見世のあたしより上等じゃないですか」
「女に触れるまで金はかかるし女はすましてやがる」
「もうっそんな事を言って⋯⋯」
「何よりお前さんは悋気がない」
にんまりとした男はぐいっと清川を引き寄せてあっという間に天地を入れ替える。
呆気に取られる間もなく口を吸われて煙管の味が広がった。
「夏頃、廓抜けした遊女がいたっけな。覚えているかい」
「逃げられた見世は大騒ぎでしたよ」
「俺の前でしらを切るのはよせやい。お前さん知っているんだろう?」
「一体何の話ですか。ほら温めてあげますよ」
清川が紅の映える口を男に寄せて首に腕を絡ませる。そのまま身体を寄せれば男も応えて清川を抱きしめた。
「そうかい、そうかい。ならこれは俺の独り言だ」
「あい」
「おはぐろどぶを越えたのは大見世の遊女⋯⋯お前さんの姉女郎だった女だろ」
囁く声は内緒話。清川はより強く男に抱き付いた。
清川の姐さんは元々この小見世の看板遊女だった。
運良く付いた大口のご贔屓が自分が通う見世としては格が低いと大金を降らせ姐さんを大見世へ見世替えをさせたのだった。
そんな事をせずとも姐さんを身請けしてくれれば良いのにと当時の清川は姐さんを気の毒に思ったものだ。
しかし、自分が遊女として独り立ちした今は事情を理解している。遊女の身請けは身代金と遊女の残りの借金を身請け人が支払う規則。つまり大見世に通うよりも遥かに多い金額が必要となる。だからご贔屓は大見世で稼がせながら姐さんが年増になり身代金が下がるまで置いたのだと。
それが五年前。あれから姐さんの借金も身代金も大分下がった。
「あたしは姐さんが幸せになるなら何でも良かった」
見世は違っても清川と姐さんは互いを慰め合う関係は続いていた。
そろそろ姐さんは身請けを受けられる。清川は姐さんは幸せになれるんだとはしゃいだ。
それなのに姐さんは表情を曇らせ清川に間夫の存在を告げた。
『あたしはあの人じゃないと幸せになれないんだよ』
『姐さん⋯⋯間夫が居たのあたし気付かなかった。でもっ、ご贔屓さんも姐さんを幸せにしてくれるよ』
姐さんは廓抜けする事も実行する日もあの人が誰なのかも清川には告げなかった。
あの夜おはぐろどぶを越えた遊女が姐さんだと清川が知ったのは翌日。
大見世の若い衆が妹女郎だった清川に何か聞いていないか、知っていたのではないかと押しかけて来た。
自分は姐さんに信用されていなかったと悲しくもなった。けれどそれは違う。姐さんは清川を巻き込まない様に告げなかったのだ。
「あたしは姐さんが廓抜けするなんて本当に知らなかったんだ。誰と逃げるのかも教えてもらっていない」
「ああ、そうだろうな。お前さんが知っているのは廓抜けした女郎が誰かって事くらいだろうなあ」
「……ねえ、どうしてそんな話をあたしにするんですか」
「さあなあ。俺はただの独り言を言うだけだよ」
男は清川を抱いたまま褌から半紙を取り出しにやりと笑う。
「俺も兄弟子が行方をくらましたんだ。そりゃもう尊敬していた兄弟子だったんだ。突然居なくなってよ。同じ時期に居なくなった遊女がいるってんで大見世に調べに行ったりしてな」
「それって⋯⋯」
まさか。姐さんと逃げたのはこの男の兄弟子ではないのか。
清川がそう口を動かす前に男の節くれ立った人差し指が紅をなぞった。
「最近になってこんな文が俺の仕事場から見つかったんだ。俺が普段片付けないのをよく分かっている場所に隠されていた」
半紙を広げる男の顔はとても穏やかで清川は「ああ」と声を漏らした。
この男も同じ。何も知らされず消えられてしまったのだ。姐さんと男の兄弟子が手を取り合った夜、奇遇にも妹女郎と弟弟子もまた出会っていた。
「鬼の川 怒れる流れに 恋衣」
泣きそうに読み上げた男は文を清川に渡してその身を離し無言で火鉢を見て顎をしゃくる。
清川も何も言わず炭に文をかざせば瞬く間に緋色を上げて煙と消えた。
「怒れる鬼の川はもう寒いだろうな」
「ええ、寒いでしょうねえ。ここにも流れる鬼の川⋯⋯どぶも冷えてますから」
姐さんはここの鬼の川を越えて行った。障子から見える夜空は姐さんが居る鬼の川に繋がっている。幸せであってくれればそれで良い。
「会いに行かねえか俺と」
その誘いに清川は首を振る。自分は姐さんとは違う。
「あたしは行きません。間夫なんて面倒なだけ。まして廓抜けなんて上手くいくわけがない。捕まって折檻で済むならまだしも益々借金が増えるだけ」
「お前さんはそう言うと思ったよ。なら、俺はお前さんの年季が明けるまで通うとしよう」
満足げに男が笑うと拍子木が鳴り響いた。
「さあ床へ入りましょう。今日は本当に冷えますねえ」
「ああ寒くていけねえ」
お互い身を寄せ合って寒さをしのぐ。
男の腕中で清川はクスクスと笑った。
「なんでい」
「いえね、あたし旦那さんの名前聞いていないなって」
「そういや名乗ってねえな。俺は辰次郎ってんだ」
「辰さま。今後もどうぞご贔屓に」
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大門が開く。
年増の女が一歩踏み出しそこに待つ男の元へと駆け寄った。
女が頬を染めながら手荷物の一つを開いて大量の文を見せると男は驚いた様に目を瞬かせた後大笑いを上げた。
「これまた随分と書き溜めたもんだな」
「その時その時で言いたい事を書き続けましたからね」
「ああ、清は今日までよく頑張った。さあ、清も鬼の川を越えたんだその文を届けに行こう」
「はい。辰さん⋯⋯あ、旦那様」
清と辰次郎は寄り添いながら大門を後にする。
二人を見送る様に風が吹いて桜が舞い、おはぐろどぶをその花弁で覆い隠した。