泡沫
美しい歌声だった。
限りなく澄み切ったその声により、時が止まる。その場にいる者全員が、何が起こっているのかわからず、動きを止めた。
歌声は、静寂を生んだ。あれほど濁った男たちの叫び声が飛び交っていたこの場所は、今は水を打ったように静まり返っており、歌声だけが降り注いでいる。
その歌は、讃美歌のようであった。メロディは荘厳で、清らかだった。
はっと我に返り、唱は歌声のする方に顔を向ける。
唱の予感は当たっていた。
マーニだった。
目を閉じ、祈るように手を胸の前で組み、厳かな表情で、マーニが歌っていた。
やがて、唱は気づく。次第に、景色がかすんでいくのを。
目の前のマーニが、仲間が、討伐隊が、まるで霧の中にいるかのように、だんだんぼやけてかすんでいく。
地面から、蒸気が立ち上るように、黒っぽいもやが漂う。
もやは、次第にその粒子を大きくしていき、水中の泡が次から次へと浮かび上がってくるかのようだった。
しかし、その泡は、闇のように黒かった。
「うわあぁぁぁぁ!!!」
静寂をかき消すように、悲鳴が上がった。
「あ、あ、悪魔だぁあ!!」
気が付くと、周りはおびただしいほどの数の悪魔で埋め尽くされていた。
大きいもの、小さいもの、地を這いずるもの、宙を飛ぶもの、巨大な蛙や鷲、空飛ぶ馬や、のたうち回る大蛇……
「やばい。みんな、逃げろ!」
唱はとっさに叫んだ。と、同時にあちこちから悲鳴が響く。
「ぎゃあああああ」
「助けてくれ!」
「やめろ! このヤロウ、このヤロウ……ひいぃぃぃ!」
「ああ、ああ、おれの足が、足がぁ!」
「やめてくれ、喰わないでくれ」
「助けて、たす……」
今度は、周囲が叫び声で溢れかえった。
耳元で悲鳴が聞こえ、驚いて顔を上げると、唱を抑え込んでいた兵隊二人が、鬼のような姿の悪魔に足から喰われていた。
そのおかげで、唱は立ち上がることができた。手は拘束されたままだったが、幸い足は自由で、すぐにそこから距離を取る。
一瞬、唱は迷った。しかし、恐怖で顔を引きつらせながら喰われている二人を見て、思いを改めた。
唱は歌った。
いつも通り、歌はすぐには効かない。唱も、飛んでくる小さな悪魔にところどころ喰われ始めていた。しかし、動じずに歌い続けているうちに、周辺の悪魔は皆キラキラと輝き、消えて行った。
同時に、どさりと二人が地面に落ちる。
よし、少しでも体が残っていれば、とりあえず救えるぞ。
助かった兵隊二人は、とても唱を捕まえるどころではなく、ぽかんとして倒れたままだ。唱は、一瞥した後、その場を後にした。
唱は歌いながら、地獄と化したこの草原を、仲間を探して歩いた。
さっきまでさほど遠くない距離にいたはずだが、この混乱で移動したのか、なかなか見つからない。しかも、大量の悪魔と逃げ惑う者達で、人を確認するのもやっとだった。
悪魔を倒す術のない兵隊達は、抵抗むなしく、次々と悪魔に喰われていく。
体の一部を喰われ、動けなくなった者達が、悪魔から逃れようと必死で這いずり回る。そこを、更に他の悪魔が喰いつき、呆気なく飲み込まれていく。複数の悪魔に寄ってたかって喰われている者もいる。
フオゴ組も必死に応戦していたが、戦闘力がそれほど高くない者は、やはり兵隊と同じく、貪り喰われていた。
だめだ。歌が効き始める前に喰われてしまうし、悪魔が多すぎて倒しても倒してもキリがない……
唱は改めて、フオゴのような即効性の力ではないことを悔やんでいた。
「ショウ! ショウ!」
飛び交う悲鳴の中に、聞き覚えのある声があった。
「リュウさん!? どこですか?」
必死に叫ぶと、少し先の方で手を振っている人影が見えた。
こけつまろびつ声の聞こえた方に急ぐと、石像のように動かなくなった悪魔の輪の中に、クリワの四人とランテとマーニがいた。唱は、ほっとして駆け寄った。
「ああ、ショウ様、なんて酷いことに……今、縄を解きますわ」
顔をケガし、腕も縛られたままの唱を見て、ランテが取り乱したように叫ぶ。
「ランテさん、ナイフか何かありますか? この縄、結構太いし結び方きついから手じゃ……」
と、言ったそばから、ランテが縄を素手でブチィッと引きちぎった。
「もう大丈夫です! ショウ様、私達を守ろうとしてくださって……でも、でも、もうあんな無茶なこと、もう止めてください……!」
「え? あ、は、はぁ……あ、ぁりがとぅござぃま……」
ランテは唱に縋りつくように泣いていたが、彼女の凄すぎる握力のせいで全く頭に入ってこない唱だった。
「しかし、本当に助かったな。マーニちゃんが歌ってくれなかったら、正直、やばかった。このどさくさに紛れて逃げよう」
「ったくこいつら、討伐隊の名が聞いてあきれるぜ。悪魔に全然対処できてねぇじゃねぇか」
「いつも万全の体制を敷いての戦闘しかしてないだろうからな。しかもアイザッツさんもペルデンさんもいなけりゃ、戦力はほぼフオゴしかいない」
YAMAとRYU-Jinの会話に名前が出て、唱は思い出したようにマーニを見た。
すでに歌うのを止めていたが、マーニは両手で口元を抑え、震えていた。よく見ると、顔も真っ青だ。
「マーニ! 大丈夫か?」
両手で肩に触れると、マーニは唱を見るなりぼろぼろと涙をこぼした。
「あの、あた、あたし……あたし、こんな……」
その悲痛な声を聞いた唱は、思わずマーニの小さな頭をそっと抱いた。
「もういい。もう言わなくていいから。わかってる。おれ達を助けようとしてくれたんだよな。ありがとう、マーニ。おかげで、おれもみんなも、こうして無事だよ」
すると、堰を切ったようにマーニは大声で泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ……あたし、あたし、どうしよう……みんな、みんな食べられちゃうよぉ……」
唱の胸の中で、マーニは泣き叫んでいる。
「マーニちゃん。自分を責める必要なんかないんだよ。君はおれ達の命の恩人だ」
「そうだぜ? おれ達みんな、マーニちゃんにめっちゃ感謝してる。泣くことねぇよ」
YAMAとRYU-Jinも口々に慰めるが、マーニは泣きじゃくるばかりだった。
しばらくマーニの小さな頭を撫でていた唱だったが、やがて顔を上げて言った。
「悪魔を全部倒しましょう」
「は? なんだって?」
皆、驚いたような顔をしたが、唱は表情を変えずにもう一度言った。
「マーニは、人が喰われることを望んでいるわけじゃない。だから、ここにいる悪魔を倒すんです」
「ショウ様……」
ランテがぽつりと呟く。その眼差しは、唱への感謝があふれているようだった。
しかしRYU-JinとYAMAは、険しい顔つきで唱に問う。
「お前……本気か? この量、尋常じゃねぇぜ? どんだけ時間かかると思ってんだ?」
「悪魔を倒しているうちに、討伐隊や兵隊に捕まる可能性だってあるぞ。わかってるよな」
唱はうなずいた。
「はい。もちろん承知の上です。――でも、たぶん大丈夫ですよ。やつら、あのザマですから」
そう言って、周囲で唱達のことなど目に入らないように逃げ惑う討伐隊や兵隊達を指さす。
「ふ……ふふふ……」
「……くっくっく……」
「? ヤマさん? リュウさん?」
ふいに笑い始めた二人にきょとんとしていると、唱はYAMAとRYU-Jinからバンと背中を叩かれた。
「マジで大したやつじゃねぇか、ショウ、コラ! おれは最初からわかってたよ!」
「ずいぶん肝が太くなったな、ショウ。よし、そうと決まったら、早速開始だ。手始めに、タイヨウとカッシーが捕まえてる悪魔、景気づけにやっちゃってくれ」
「げっほげほげほ……はい! 任せてください!」
すると、服を引っ張られる。マーニが、不安げに唱を見ていた。唱は、笑顔でマーニの頭をぽんぽんと撫でる。
「安心しろ、マーニ。おれが悪魔をやっつけるから。みんなを助けるから。だから、気に病まないでいい」
しばらくマーニは唱をじっと見ていたが、微笑んでうなずいた。
やがて、地獄が広がる草原に、きらめく光が幾筋も煙のように立ち上り始めた。
それはまるで、希望を表す狼煙のようだった。




