天使と歌呼
「マーニ、久しぶりですね。――それにしても、どうしたのですか? びしょぬれじゃないですか」
老人、いやマーニの先生は穏やかに微笑んだ。マーニもほっとしたように微笑む。
「えへっ、雨に降られちゃった。先生、ご無沙汰していてごめんなさい。なかなか、こっちには来にくくって」
先生は、声を出さずに数度うなずいた。
「さあ、とにかく入りなさい。風邪をひいてしまいます。今、拭くものを出しますからね。そちらの方もどうぞ」
先生が扉を大きく開けると、マーニが慣れた様子で部屋に入っていく。突然招き入れられた唱も、恐縮しながら扉をくぐる。
「すみません。お邪魔します……」
部屋は六畳ほどの広さで、部屋の壁が本棚のようになっており、たくさんの書物が収まっていた。奥には、シンプルな形の机が一つ置いてある。
先生は、暖炉に火を入れると、唱とマーニにごわごわした布を手渡しながら言った。
「あれから、この教会もとんと活気が無くなってしまってね。今ではほとんど人も来ないのですよ」
マーニが、少し表情を曇らせた。
「そうなんだ……歌唱隊のみんなは?」
先生は、目を閉じて首を横に振る。
「そう……」
残念そうな顔をしたマーニだったが、すぐにパッと笑顔になった。
「でもね、先生、安心して。悪魔を倒せる人がいたんです! これで、きっとまた昔みたいにみんなで歌えるようになるわ!」
「おお、まさかその方が……」
「えっ、えっ? おれのこと?」
突然、マーニに指をさされ、唱は動揺した。先生が、興味深げに唱のことを見ている。
マーニは興奮気味に続けた。
「そうよ! ショウ様こそ、悪魔を倒して、世界を闇から救ってくれる音楽騎士なのよ! ねぇ、先生。推薦状を書いてください!」
「なるほど。なぜマーニが今日こちらに来たのかわかりましたよ。そのためだったのですね」
「は? は? いやだからその音楽騎士って……」
目を白黒させていると、先生が座っていた椅子から立ち上がって言った。
「音楽騎士というのは、神書に登場する英雄のことなのです」
「は、シンショ……?」
先生は、きょとんとしている唱を一瞥するとうなずいた。
「あなた様は外国の方ですね。見慣れない装い、かなり遠方から来られたのではと拝察します。今、説明いたしましょう。神書は、我が国コンセール王国の民が信仰するダカポ教の教えが書かれた書物です」
「あ、なるほど……」
聖書のようなものだろう。と、唱も理解し、うなずく。
そして、先生は古びた一冊の本を本棚から取り出すと、ページを開いた。
「神書の第三章、『世界の退廃』。争いの絶えない人間たちの営みに怒った神は、天罰として空を闇で覆ってしまい、世界には人を喰らう悪魔がはびこります。しかし、そこに、歌の力で悪魔を倒す音楽騎士が現れたとあるのです」
「歌の力……? 歌うと悪魔を倒せるってことですか? そんな、まさか歌なんかで……」
「何言ってるの。さっき、ショウ様、歌って悪魔を倒したじゃない!」
「え? あ、あれのこと?」
先生は穏やかな声で続けた。
「ダカポ教では、歌は神と対話するときに使う神聖なものです。普段から、神に祈りを捧げる時、教えを乞う時は、選ばれた歌唱隊が歌を歌うのです。そして、歌唱隊には、神の使いである天使をこの世に降ろすことのできる歌呼がいます。マーニは、その歌呼だったのですよ」
「へー、そうなんだ。マーニすごいじゃん……って、え? 天使をこの世に降ろすって何ですか?」
「言葉通り、天使を皆に見える姿でお呼びするのです。ほら、このように」
先生は本を開いてページに描かれた挿絵を指さした。
そこには、祈りを捧げているたくさんの人の前で、おそらく歌っていると思われる少女が描かれている。そして、少女の目の前に、巨大な白い鳥が舞い降りようとしているのだった。
「いや、これ天使……じゃなくて、鳥ですよね?」
唱は驚いたが、マーニはもっと驚いた顔をした。
「えぇっ、ショウ様ったら天使様も知らないの?」
「えっ……」
馬鹿と言われたような気がしてショックを受けた唱だったが、先生が優しくマーニをたしなめる。
「マーニ。国が変われば、神様や天使様のお姿も変わるのですよ。そのようなことを言ってはなりません」
マーニは、ぺろっと舌を出して「はーい」と返事した。
「天使は、いつも違った姿で現れます。この絵のように鳥の姿であったり、大きな蝶であったり、人の姿の時もあります。私たちの心のありようを映しているのだと言われています」
先生の説明は突拍子もないように聞こえるが、何しろここは異世界だ。日ごろ、オカルトとかスピリチュアルなことには懐疑的な唱ではあったが、そういうこともあるのだろう、と自分を納得させた。
「へぇ……そういうことなんですね。深いな……」
唱の思い描く天使の姿は、羽が生えた裸の少年だけである。その時々に姿が変わるなんて、なんだかガチャのようで面白い。
「きっと、きれいなんでしょうね。おれも見てみたいな。マーニ、今、天使を呼ぶことできるの?」
何の気は無しに、唱は軽く声をかけたが、マーニは急に表情を暗くした。
「今は、ダメ」
「え? なんで?」
さっきまでの元気いっぱいな様子とは打って変わって、また、マーニは暗く沈んでいた。言いづらそうに何度か口を動かすと、やがて、絞り出すような声で言った。
「今、あたしが歌うと、悪魔を呼んでしまうから」