失われない情景
兵隊たちが去ると、すぐにヘオン夫妻が倒れ込むように家に入ってきた。
力が抜けたのか、妻のトーンは赤ちゃんを抱いたまま床にへたり込む。そして、ボロボロと泣き出した。
「だっ、大丈夫ですか……?」
唱は駆け寄り、頭を下げた。
「すみません……おれのせいで、お二人と赤ちゃんを危険な目に遭わせてしまって……」
すると、ヘオンが呆然としたような表情を唱に向けた。
「いえ、あの……あの方は、光の巫女様だったのですか……?」
唱がうなずくと、ヘオンは頭を抱えた。
「何という恐れ多いことを……畑の近くで、体に合わない服を着て歩いてらしたので、てっきり、貧しい村から食べ物を求めてさまよっている子供なのかと……なんてご無礼を……」
「いやいや、大丈夫ですよ。彼女は、そんなこと気にするような人じゃないと思いますから」
苦笑いで答えたが、すぐに唱は顔つきを険しくした。
「おれも、もうここを出ます。これ以上ここにいると、迷惑になっちゃうと思うんで」
それを聞いたヘオンと妻は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。ショウ様のお役に立つこともできず……返って、見つかるようなことになってしまって」
唱は笑顔で首を横に振った。
「とんでもないですよ! 十分に助けてもらいました。ここでのこと、ずっと忘れません。食事も果物も美味しかったし、寝るところも貸してもらえて、本当に助かりました。何より――おれを信じてくれて、守ってくれようとして、本当にありがとうございました」
ヘオン夫婦は涙を流しながら、唱の手を握った。
「道中どうぞお気をつけて」
「少ないですが、パンとボンボンです。途中でお召し上がりください」
妻が差し出す布包みを受け取ると、唱もお辞儀をした。
いつ、どうやって出ていくか。唱は少し悩んだが、すでに、ヘオンの家に唱がいたことはばれてしまっていたし、今更隠すこともなかった。それよりも、唱が出ていくところを印象付けた方が良いだろうと思い、唱は、すぐに出ることにした。
ドアを開けると、まだ、家の周りに住民が何人も残っていた。
皆の視線を浴びたが、気にしないように馬小屋に行き、カルを出す。
「よし、カル。少しは休めたか。また行くぞ」
カルは、また返事をするようにブルブルと鼻を鳴らした。
唱がカルの綱を引いて歩き始めた時、道の脇から年寄りが若い男に支えられながら出てきた。
年寄りは、唱を見ると深々と頭を下げる。
「音楽騎士様、勘弁してくださいよ。わしは、この村を守らなくちゃいけなかったんで……」
隣の若い男が言う。
「この村の村長です」
どうも、と言って、唱も会釈する。
村長は、神妙な面持ちで続けた。
「あなた様のことは、それはもう、感謝しております。村中全員、あなた様のことは英雄として、ずっと語り継いでいきたいと思っていますよ。もちろん、誰一人、あんな手配書のことも信じてはおりません。ですが、今のあなた様を村でかくまうと言ったら、話は別でしてね……近頃は監視も厳しくて、もし、ばれてしまったとしたら、村全体が国家反逆罪扱いだ。ですが、密告という形であれば、少なくとも、村全体を犠牲にしてしまうことはない――わしには、ああするしかなかったんです……」
再び、村長が深く頭を下げると、周囲の村人たちが、次々に唱に頭を下げた。中には、拝むように手を合わせている人もいる。
悪魔を恐れるように、いや、悪魔を恐れる以上に、みんなこの国を、王様を、恐れているんだ――
頭を下げている村人達を見ながら、唱はそう思った。
考えてもどうしようもない、と、唱は笑顔を作った。
「大丈夫ですよ。事情はわかります。そもそも、おれがこの村に来たこと自体が問題だったわけだし……その代わりと言っては何ですが、一つ、約束してくれますか?」
村長は不安げに顔を上げた。
「ヘオンさん達を責めたりしないでください。絶対に。お願いします」
村長が笑ってうなずいた。
「お約束します。ヘオンは、人として当然のことを、したまでですから」
唱は微笑みかけると、もう一度会釈をして歩き出した。
「音楽騎士様ぁ!」
と、背中から声がかかって振り返る。見ると、道の途中に三人の少年少女が立っていた。
「悪魔倒してくれてありがとう!」
「夕べ、うちの近くだったの。母ちゃん達助けてくれて、ありがとう!」
「またいつか、遊びに来てねぇ!」
三人は可愛らしい声で口々に叫び、大きく手を振っていた。
唱は笑った。
「うん! みんな、悪魔に気を付けてね! 夜は家を出ちゃダメだよ!」
そう叫んで、唱も大きく手を振った。
村の外れまで来たところで唱はカルに乗り、オルケスとは反対方向に向かった。
「カル。また二人っきりになっちゃったな」
カルの首を撫でながら唱は呟く。
状況は何も変わっていない。いや、むしろ、唱の居場所を一度でも突き止められてしまったことから、状況はより悪くなったと思われる。
しかし、今は、この村に来る前より、どこか気持ちが楽になっていた。
先のことを考えて不安になっても無駄だ。それよりも、今、できることだけを考えて進もう。
そんな前向きな気持ちになっていた。
しかし、そんな思いは甘かったと、すぐに唱は思い知らされることになる。夜になった頃には、ペトラン村を出た時の明るい気持ちなど、掻き消えていた。
人目を避けて入った山の中で、突然、唱は三匹の悪魔に囲まれてしまったのだ。
「カル、いいから逃げろ。いいな」
カルから降りると、唱は、ブルブルと怯えたように鼻を鳴らしているカルのお尻を思いっきり叩いて走らせる。幸い、悪魔はカルを追うことはしなかった。
唱は一人、三匹の悪魔と向かい合った。




