欲望の淵
コンセール王国の国王、マイスター三世はご機嫌だった。
周辺諸国が、次々に助けを求めてくる。それに対し、光の巫女と音楽騎士を派遣する代わりに、忠誠を誓うことを約束させるだけで良かった。
こんなに簡単に世界を屈服させる方法があったとは。玉座にどっかりと座った国王は、満足げにひとり頷く。
莫大な費用と人間と労力を賭けて、武力で制する必要はもうない。天を人質にしたことで、国王は、今、まさに全世界を手中に収めんとしていた。
すべては、ディレトーレの言う通りであった。
あの嵐の日、ディレトーレは国王にこう言った。
「国王様、世界をお望みであるならば、今からわたくしの望みを三つ叶えてくださいまし。ご心配には及びませんわ。国王様にとっては、取るに足らない程度の望みですのよ。
ひとつ、わたくしに、地下にある部屋をお与えください。
ふたつ、わたくしと会う時は、常に二人きりで。誰も部屋に入れてはなりません。
みっつ、わたくしの言うことは、全てその通りになさってください。
この三つの望みを叶えてくださるのであれば、遠からぬ先に、世界は国王様の手の中に落ちてまいりますでしょう」
「ふん、信用できんな。二つ目までは雑作もないが、三つめはどうだ。全て貴様の言う通りというなら、際限がないではないか。騙されるものか」
「国王様、誤解されては困りますわ。わたくしの言う“言う通り”というのは、戦略のことでございます」
「戦略だと? 貴様、我が国の軍務大臣にでもなるつもりか」
「そうお考えになるのがわかりやすければ、それでもよろしゅうございましょう。兎にも角にも、これから、わたくしの言う通りにことをお運びくださいまし。さすれば」
「世界が、余の物に、か」
考えてみれば、三つの望みを叶えてやることに何の労苦もない。もし、都合が悪くなれば、女を殺してしまえば良いのだ。
そう考えた国王は、ものは試しとディレトーレの望みを叶えることにした。
「ではまず、望み通り、地下の部屋をくれてやろう。余の祖父の代に使っていた監獄だ。以前に火事があってから、今はもう使っておらぬ。怖気づかないと言うのであれば好きにするがよい」
国王は意地悪くそう言って、彼女がたじろぐ姿でも見て笑ってやろうとしたが、
「まぁ、なんて素敵な部屋でございましょう。最高の場所ですわ」
と、ディレトーレは喜び、まるで、宝石や美しいドレスを与えてやった時の妾婦のような笑顔を見せた。
そして、
「これから間もなく、世界は闇に覆われます。ですが、国王様は何も恐れることはございません。世界を手に入れる、第一歩なのですから」
と言って、姿を消したのだった。
ディレトーレが次に姿を見せたのは、空が晴れなくなってから十日後、悪魔が跋扈するようになった頃だった。
「国王様。これから、悪魔討伐のための軍をお作りください。悪魔には、通常の武力は効かず、音楽の力のみが有効です。国中から、悪魔討伐のための歌の才のある人間を集めるのです」
寝室で、これから眠りに就こうとしていた時に、ディレトーレは突然現れ、そう言った。
「なに? てっきり、悪魔を使って戦争でもしかけようとしているのではないかと思っていたが、悪魔討伐のための軍だと? せっかくはびこった悪魔を倒してどうするのだ」
いぶかし気に言った国王に対して、ディレトーレは不敵に笑った。
「国王様。世界を収めるのであれば、英雄でなくてはなりません。国王様はこれから、世界を救う救世主となるのですよ」
かくして、国王は世界だけでなく、英雄の称号まで手に入れることになったのだ。これが笑わずにいられようか。
あの女狐め。どこから連れて来たのかは知らんが、光の巫女などという小道具まで用意しおって、面白いことをやりおるわい。せいぜいうまく利用してやる。
国王が玉座でほくそ笑んだ時だった。
分厚いビロードのカーテンが揺れ、そこからディレトーレが現れた。
「国王様、よろしいですかしら」
「なんと。いつもそなたは唐突に現れる。全く、年寄りをあまり驚かせるな。まぁ、良い。そなたには感謝しておるのだ。望みがあるなら何でも言うが良い。さぁ、近う寄れ」
国王は笑顔を浮かべてディレトーレを手招きした。
ディレトーレは、するすると床を滑るように国王の側にやってくる。裾の長い黒のドレスが後ろに伸びて、まるで蛇の尾のように見える。
口づけをするのかと思うほど国王の近くまで顔を寄せたディレトーレは、血のように紅い唇を動かした。
「国王様、一人、殺して欲しい者がおります。その者は、国王様の身を脅かす者でございます」
国王はぎょっとした。
「なんじゃと。誰じゃ。城の者か。それとも他国の王か。すぐに処刑してくれようぞ。誰なのか、早く申せ」
聞き捨てならないことだ。この優勢を失ってなるものか、と、国王の気は焦る。
ディレトーレが続ける。心なしか、いつもより冷たい声に聞こえる。
「その者は音楽騎士でございます。残念ながら、わたくしはその者の顔も名前も知りません。ですが、音楽騎士たちは同僚ですから、存じておりますでしょう。音楽騎士達に探させ、そして、裏切り者として抹殺するように命令してくださいませ」
「音楽騎士に裏切り者だと? しかし、そうは言っても音楽騎士の人数は多い。まさか片っ端から処刑するわけにもいかぬ。何かしら手掛かりはないのか?」
ディレトーレは、うっすらと笑みを浮かべた。
「その音楽騎士は、特殊な力を持っております。その力とは――」




