暗き森をさまよう
唱は目を開けた。
「いてて……なんだ、おれ。今、頭ぶつけたのか?」
体を起こすと、後頭部がズキズキと痛んだ。どうやら、さっき何かを踏んづけて体制を崩し、頭をカラオケの機械だかドアだかにぶつけたらしい。
そしてもう一つ、唱は妙なことに気づいた。周囲が真っ暗だったのだ。
必死に目を凝らしても、何も見えない。カラオケだから薄暗いのはわかるが、何にも見えないのはさすがにおかしい。
あ、もしや停電? なんかの事故?
事故なら大変なことである。逃げなくてはならない。しかし、それにしては、辺りがやけに静かだ。何かしら店内アナウンスでもあってもよさそうなのに、一人の声も聞こえない。
不思議に思いながら、ぼんやりと周囲を見回しているうちに、おそろしい考えが頭に浮かんだ。
「えっ、まさか、頭打った衝撃で、目が見えなくなったとか……」
慌てて、顔の目の前で手を振ってみる。すると、うっすらとではあるが、自分の手が闇の中で動いているのがわかった。自分の目が見えなくなったわけではないらしい。やはり停電だろうか。一度、部屋の外に出た方が良いかもしれない。
そう思った唱は、這いつくばりながらゆっくり移動を始めた。
おかしいな。部屋って、こんなに広かったっけ?
おかしなのは、部屋の広さだけではなかった。あるはずのソファやテーブル、カラオケの機械が見当たらない。
さっきまでいた部屋は、せいぜい二畳もないほどの個室である。大して動かずとも、すぐにテーブルの脚や、ソファにぶつかるはずだ。それなのに、移動しても移動しても、何かにぶつかることもなく、進めてしまう。
そして、もう一つ奇妙なこと。それは、手で触っている床が、明らかに床ではないのだ。ざらざらとした、土の手触りがする。
だんだんと暗闇に目が慣れてくると、ぼんやりと周囲の様子がわかるようになってくる。しかし、それは、唱にとって新たな恐怖の始まりだった。
「なんだよ、ここ……森の、中か……?」
唱は気づいた。周りに背の高い木がたくさん生えていて、自分はその中の小道のようなところにいることを。
風が吹いて木が揺れ、ざわざわと葉擦れの音が聞こえた。
「ちょっと待て待て。意味わかんねー。カラオケにいたのに、どうして目が覚めたら森の中なんだよ。おかしいだろ、これ……」
唱の頭は、驚きと恐怖でパニック寸前だった。しかし、こんなところでパニックに陥ったら、ますます危険だ。唱は大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
全然意味わかんないけど、とにかくこの森を出なくちゃ。何がいるかわかんないし、こんな暗いところ、怖すぎる。
唱は立ち上がると、辺りを見回した。どちらに行けば森を出られるのか。しかし、真っ暗だし標識もないし、わからない。
「よし、道なりに行ってみよう。道があるなら、いつかは森を出られるよな」
自分に言い聞かせるように言って勇気を振り絞ると、唱は暗闇の中、目を凝らしながら歩き出した。小道の脇には木が生えているので、それを触りながらゆっくり進んでいった。
それにしても怖い。風で木が揺れて音がするたびにびくっとするし、鳥の鳴き声が聞こえるたびに身がすくむ。背後から恐ろしいものに襲われそうな気もする。
「ひっ、ひぃっ……」
何か音が聞こえるたびに悲鳴を上げていた唱だったが、やがて、その声は歌になった。
大声で歌っていると、幾分か恐怖が和らぐ。
どうせ誰もいないのだ。気にすることもない。童謡、J-POP、アニソンと、とにかく思いつくまま歌った。こんなに思いっきり歌ったのは、何年ぶりだろうか。
その時だった。
――ヒィィィィィィィーーーーーー……
闇の中に、聞いたこともないような恐ろしい音が響いた。
「ぎゃっ、ぎゃああああーー!」
はじかれたように、唱は駆け出した。
なんだ? なんだ今の? 悲鳴? 動物? そうだ、動物だ。熊だか鹿だかの鳴き声だ、きっと。きっとそうに違いない。
必死に走ろうとするも、何せ闇の中だ。何度も転びそうになりながら、とにかく足を動かした。
どれだけ走ったのだろうか。気が付くと、森の外に出ていた。
唱は力尽きて、地面の上に倒れた。草のにおいがした。
しばらくハアハアと荒い息をしていたが、呼吸が整うと、起き上がって辺りを見回す。
草原が広がっている。空はなんだか薄暗い。夕方だろうか。
振り返ると、後ろは黒々とした森だった。さっきまで、この中にいたのだ。
唱は確信した。ここはカラオケなんかじゃない。自分は、どこか変な世界に迷い込んでしまっている。
夢? いや、夢にしては、風も、空気の匂いも、草の感触も、すべてがリアルだった。
もしかして、これが世に言う異世界転生――ってことは、おれ、死んじゃったのか?
ぞっとして、自分の姿を確かめようと思ったが、辺りに鏡などあるわけでもない。必死にスマホを探してみたが、どのポケットにもない。
やがて、スマホを探すのにも疲れた唱は、がっくりと肩を落とした。
だが、ここでうずくまっていても何も解決しない。まずは情報を得ようと立ち上がる。
今いるところは小高い丘のようで、先の方に、小さな家がいくつも建っているのが見える。村のようだ。
人がいるんだ! 助かった。あそこで、何かわかるかもしれない。
唱は藁をもつかむ思いで再び足に力を入れると、村に向かって歩き出した。