カラオケの受難
くぐもった音と共に、ガラスの扉が左右に開いた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
自動ドアをくぐった先の受付カウンターの中で、にこやかに笑いかけるお姉さんを前にした唱は、思わず小さくうめいた。
すでに心が折れそうだ。やっぱり帰ろうか。いや、しかし。と気を取り直す。ここでくじけたら、明日はもっとひどいことになる。始まったばかりの大学生活を、いきなり黒歴史にしたくはない。
「は、はい……」
お姉さんと目を合わせないようにカウンターの上だけを見つめながら、促されるまま、受付用紙にガリガリとボールペンを走らせる。
名前:トキワヅ。年齢:19歳。人数:1名。利用時間:1時間。
頭上から、お姉さんの声が聞こえてくる。
「会員カードは、お持ちではないですか? 会員様ですと、料金がお安くなります。三十分で二百五十円のところ、二十円ごと割引となります。フリータイムですと更にお得で、通常料金の二十パーセント割引となります。今作っていただいて、本日からご利用可能です」
「……けっこうです」
別に悪いことをしているわけでもないのに、何ともバツの悪い気持ちになって、思わずうつむいた。
お姉さんは、唱の目の前にあるメニュー表を指さしながら、さらに続ける。
「ワンドリンク制となります。こちらからお選びください」
「えっ。あ、じゃ、じゃあ、コーラで……」
何? 何? 次々あれこれ聞かれるけど、面接か何かなの? まだ終わらないのかな。大学の誰かに見られたら最悪だよ。早いとこ、ここから立ち去りたい。
唱は祈るような気持ちだった。
手元で何事か操作していたお姉さんだったが、やがて、百円ショップに売っているような安っぽいプラスチックのカゴを唱に手渡した。
「お部屋番号は203になります。エレベーターは、この先右手を進んでいただいて、突き当り左側です。終了時間の十分前にご連絡いたします。お飲み物は、お部屋にお持ちします。では、ごゆっくりどうぞ」
カゴの中には、黒いマイクが一本と、部屋番号と時間が書かれた伝票が入っている。
唱は、カゴを抱えてそそくさと受付を後にし、冷や汗をかきながらエレベーターに向かった。歌う前から一苦労だ。
上がっていくエレベーターの中でふと考える。
カラオケに来たのは人生で二回目だ。前は高校に入ったばかりの春、つまり三年前。クラスの友達に、無理やり連れられて入ったのが最初だった。あの時は――
思い出すだけで胸がきゅっとなるつらい思い出だ。今でも、みんなのぎょっとした顔が忘れられない。特に、密かにかわいいと思っていた立花さんの、恐ろしいものを見るようなあの目つき――
唱は、音痴だった。
それも並大抵のレベルではない。某国民的アニメのいじめっこキャラのような、と言えばよいだろうか。歌い出せば、周囲が止まる。まさに音の暴力。圧倒的破壊力。
三年前に、唱はその事実を知った。いや、気づいてはいたのだが、そのレベルがどれほどのものなのかを思い知ったというのが正しい。
それ以来、唱はカラオケという場所に足を踏み入れることはしなかった。つらくなるからだ。だが、それがなぜ今、しかも一人で来ているかと言うと。
明日、サークルの新入生歓迎コンパがあるからである。
文芸サークルなので安心しきっていたのだが、今日、新入生同士のLINEグループを確認して知った。毎年恒例で、新入生はカラオケ自己紹介なるものをしなければならないということを。
どうやら、好きな曲を歌って、なぜその曲を好きかプレゼンするのが自己紹介の代わりらしい。
それ、このご時世的にどうなんだと思いたくもなるが、しょっぱなから先輩の心証を悪くする勇気は唱にはなかった。何とかして、音痴をごまかせるような曲を探して、そこそこ歌えるようにしなくてはならない。
203室に入ると、唱は早速、曲を検索し始めた。
流行りの曲か、いや、ここはアニソンの方がいいだろうか。自分のキャラに合わない曲だと事故になってしまうかもしれないし、ここは慎重に――
必死にデンモクを操作しているうちに、ふと気づいて手を止めた。隣の部屋の客が歌っている声が、壁越しに聞こえてきたのだ。
いいなぁ。うまいなぁ。おれもこれくらい歌えてれば、何の苦労も無かったのに……
唱は大きなため息をついた。
世の中の人の大半は、自分のような破壊的音痴ではない。それなのに、なぜ、自分だけこんな音痴なのだろう。音痴であることに、何か意味でもあるのだろうか。改めて考えてみると、不公平極まりない。
そんなことを思いながら、しみじみと曲に耳を傾ける。
Create the Worldという男性四人組バンドの曲だった。このバンドは、よくアニメやゲームのタイアップをしていて、唱も彼らの曲を好んでよく聴いている。
そういえば、この前、アニメのエンディングになってた曲はラップが多かったな。そうだ。歌うパートが少なければ、案外いけるかも。
「えーと、あのアニメ。タイトルなんだったっけ。なんかやたら名前長いやつ……」
唱は、曲のタイトルを調べるために、リュックの中からスマホを取り出そうとした。すると、リュックが倒れ、中身が床に転がり落ちる。
「わっ、やっべ」
慌ててテーブルの下にもぐった瞬間、何かを踏みつけ、ぐらっと体が傾いた。
「えっ?」
声を出すのとほぼ同時に、頭に強い衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。
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