足元に影がうごめく
ランテとマーニの悲鳴が上がった。
「ランテさん、マーニ! 逃げて!!」
唱の声で、二人は机の後ろに逃げ込んだ。
悪魔は泥水のようだった。ドアの隙間から次から次へと吹き出し、壁にぶち当たってはどろりと壁から垂れ落ちる。そして、悪魔がぶつかった壁は、どんどん漆黒の闇に変わっていく。
壁から垂れ落ちると、悪魔はじわじわと床に広がり始める。少しずつ、唱たちがいるスペースが小さくなっていく。部屋が、どんどん闇に覆われていく。
うわ、どうすりゃいいんだ。こんなの。
突然の事態に、唱は冷静さを失っていた。このままでは、自分も、この姉妹も、悪魔に飲み込まれてしまうかもしれない。
おろおろしていた時、
「ショウ様、歌って!」
と、マーニの叫び声で、はっとする。
そうだ。おれは、音楽騎士だったんだ。歌で、悪魔をやっつけられるんだ。
「よ、よし。歌うぞ。『森のくまさん』をくらえ!」
唱は大きく息を吸い込むと、歌を声に乗せた。
視界の端で、二人の姉妹が耳をふさぐのが見えた。ランテが目を丸くしている。正直に言って、彼女に自分の歌を聞かせたくはなかったが、やむを得ない。
「ショウ様、その調子! 悪魔たち、動かなくなった!」
マーニの声が飛ぶ。
言われて床を見ると、浸食されたスペースがそれ以上小さくなっていない。
いける。いけるぞ。
手ごたえを感じて、唱は歌い続ける。しかし、昼間はすぐに悪魔が消滅したのに、今度はなかなかそうはならない。そうこうしているうちに、歌の終りが近づいていた。
あれ? 『森のくまさん』の三番って、どんな歌詞だっけ?
よく考えれば、二番までしか知らないことに、唱は気づいた。さっきは二番を歌い切るまでに悪魔が消えたから気づかなかったのだ。
げっ。どうしよう。やばいやばい!
気ばかり焦るが、結局、思い出せないまま歌い終わってしまい、再び部屋が静かになる。
「ショウ様! 早く! 次の歌!」
マーニが叫ぶのとほぼ同時に、悪魔たちがまたじわじわと動き始める。
「ええと、ええと」
焦ると頭が働かない。
パニックになっていると、一瞬、目の前が真っ暗になった。
「うわぁっ!」
反射的に体が動く。のけぞった体をかすめるようにして、ぼとりと足元に黒いものが落ちた。悪魔が飛んできたのだ。
はっと上を見ると、墨汁が紙にどんどんしみこむように、天井が悪魔に浸食されていた。その黒は、もはやこの世のものとは思えない濃さで、文字通り、“闇”だった。
唱は、心底ぞっとした。しかし、その恐怖は同時に冷静さをもたらしてくれた。次の歌を思いついたのだ。子供の頃に見たバトルアニメの主題歌。再び、唱は声を張り上げる。
すると、悪魔がぶるぶると震え出した。まるで部屋全体が振動しているように見える。マーニの嬉しそうな声が飛んだ。
「さっきより、なんか、効いてるみたい! ショウ様、頑張って!」
よし、この曲だったら二番もわかるぞ。
サビのメロディに来たとき、今度は、唱の歌とは別の音が部屋に響いた。
――ヒュウウウウウウウゥゥゥ……
最初に道で遭遇した悪魔と同じ悲鳴だと、唱にはすぐにわかった。
まるで、壊れたリコーダーから漏れているようにも聞こえるが、どこから聞こえてくるのかわからない、耳鳴りのような不気味な音。
二番を歌い始めた頃、ランテの声がした。
「だんだん、後ろに下がっていってるわ……」
少しずつ、水が引くように、じわじわと悪魔が後退している。上を見ると、天井の木板もだんだん見えるようになってきた。
――ンンンンヒュウウゥゥゥゥゥン、ヒュウゥゥ……
また悪魔の悲鳴が上がる。さっきよりも更にか細く、息が絶えそうにも聞こえる。
すでに、部屋の端まで引っ込んでいた悪魔だったが、色が薄くなっているのがわかった。漆黒の闇だったものは、どんどん透明度を帯びていき、それと同時にきらきら光り始める。
――ヒィィ――――――――――ッ……
空気が抜けるような音がして、悪魔だった“モノ”は消えた。後には、きらきら光る砂塵のようなものが、宙に舞い上がっていく。
光が消えると、部屋は、何事もなかったかのように元に戻った。
「は、ははは……」
一気に力が抜けて、唱はその場にへたり込んだ。
「ショウ様、やったあ! すごーい!」
マーニが叫びながらとびかかってきて、唱は床に倒れこむ。
「おいおい、マーニ、やめてくれよ。もう、へとへとなんだよ……」
見上げると、ランテが祈るように手を組んで唱を見下ろしていた。
「ショウ様、なんて素晴らしいんでしょう。さすが音楽騎士様……」
ランテの美しい微笑みを見ながら、唱は心の底から思った。
ああ、よかった。おれ、こんな風にスゲー音痴で。




