表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/20

2.芸妓の日常

 このように、芸妓さんはお昼ごろ起きてやって来る。


 とはいえ、今日は昼食に誘ったから来ただけなのだ。皆、普段は自分の家から出勤して来る。


 午前中に同伴(お客さんと外でする営業)やお稽古がある時以外は、大抵出勤前にやっておくことがある。




 まずは湯浴みである。


 この新地界隈には銭湯があって、そこに入りに行くのだ。


 ざっとひとっぷろ浴びてから来るというのが粋だった時代の名残なのか、癒着なのか、営業の一環なのか、なぜだかは定かではないが(または全てのせいなのかもしれないが)、これは決まっている。


 銭湯を出ると、次は美容院だ。


 芸妓はかつらをかぶる。昔は髪結いがやっていたらしいが、その技術は昭和に廃れてしまった。美容院でちゃっちゃと頭を仕上げ、出勤して来る。この時、大体夕方になっている。


 出勤したら、まずは準備室に入る。


 そこで、着付けのおば様が二人、待っている。彼女たちはパートさんである。美容関係の仕事を退職された主婦だという。化粧を終えた芸妓はその二人に水の出ない雑巾のごとく絞り上げられ、引っ張り上げられ、美しい芸妓になって行く。かつては男衆おとこしという男性がやって来て着付けてくれたそうだが、もうそのような男は新地にはいない。


 昭和の終わり、新地は次第にその置屋の数を減らしていたからである。


 着付けや御用聞きだけでは、彼らも暮らして行けなくなっていたのだ。


「粋に着付けておくんなまし」


 はつ花は着付けてもらう時、なぜかよくこの言葉をまじないのように言った。


 喪服の時も同じことを着付けさんに言い、襟を抜いた妙になまめかしい喪服姿になってしまったそうだ。


 笑えるような、笑えないような。


 


 それから、この置屋の女主人である祖母は、裏にある料亭「穂積ほづみ」に料理の注文を入れる。お茶屋を兼ねるこの置屋「おうぎや」は、客への飲食も提供する。


 おうぎやは一階が居住スペース、二階がお座敷である。


 建物はロの字型になっていて、中庭がある。中庭には松や竹や梅や季節の花々が植えられ、石灯篭が二カ所にある。日が暮れると、祖母はそこに蝋燭の火を入れる。


 暗がりの中、二階から見下ろすライトアップされた中庭は風流である。音がいいように造った庭だと言う。漁師町の潮風に吹かれ、中庭はいつでも葉っぱの音が鳴っていた。


 ふと、芸妓の誰かが琴の練習を始める。


 毎日新地では、必ずどこかで三味線や琴、太鼓の音色が鳴り響いていた。


 私はそれを聞きながら、夕飯を食べる。


 新地の夕飯は五時。六時には開店なので、妙に早い。


 穂積から料理が届くまで、祖母はお勝手の中を縦横無尽に走り回っている。


 突き出しを作っているのだ。


 いわば、懐石に入る前の「つなぎ」である。更にその間、ひっきりなしに電話が入る。


 私の母が出る。


 検番からの電話だ。


「お母ちゃーん。司はん、九時から寿ことぶきまで行けるかー?」

「司はんね、九時から行かすわ」


 検番とは、いわば新地の事務方である。芸妓のスケジュール管理は、置屋ではなくこの検番が請け負っている。派遣元はこちらなのだが、采配は検番と言ったところか。検番はシフトを組んで、各お茶屋に芸妓を派遣するのである。ちなみにお稽古も検番がつけてくれる。芸妓の権利を守ってくれるのも、この検番なのだ。大変にありがたい存在なのである。




 さて、夜も暗くなってくるとここからが本番だ。


 衣装に着替えた芸妓は、言われたシフトで各お茶屋を回る。今日この「おうぎや」では、地元医師会の会合が開かれる予定でいた。


 ……と、ここで気をつけねばならない。


「医者か……」


 工場から帰ってビールを一杯ひっかけている祖父が声を落とす。


「また何かあるやろな」


 そう、これは恐るべき事実。


 医者はヤバイ。


 水商売あるあると言えるが、警察官、教師、医者はヤバい。


 世の中の「先生」と呼ばれる職業、または「聖職」は、水商売での羽目の外し方がえげつないのである。


 芸者置屋の男主人である祖父は、その日は用心棒と化す。


「せやからお父ちゃん、今日は夜っぴいて起きといてよ」


 祖母が言い、祖父が答える。


「……はい」


 祖父は婿養子。


 断る権限などない。




 とにもかくにも、芸者置屋の夜が始まる。


 外にはタクシーの列が出来ていた。


 はつ花と司が待機。母も配膳要員として、階段下に待機する。


 五歳の私は誰もいなくなった準備室にひとり隔離される。


 かつて芸妓が道行く人に顔を見せるためにあったという透かし窓から、私はいつも外の様子を眺めていた。


 よその置屋の美しい芸妓が、男の人と同伴で出て行く。


 うつろな笑顔。赤いガス燈の桃色の光。スーツ姿の男たち。駆け回る岡持ち。


 鳴り響く琴の音。カラオケのテープの音。


 広い玄関をどかどかと入り、二階へ上がって行く大量の足音。


 おじさんたちの大きな笑い声。


 けたたましい、三台もの電話のベル音。


 私はその喧噪の中、祖父が炊いてくれた風呂釜に入り終えると、からっぽの準備室で布団を敷き、横になる。


 喧騒が私を眠りへといざなう。


 それっきり、子供の私は情報を遮断せんとするように、深く深く眠ってしまうのだった。



次回はお座敷と、予約方法についてです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] エッセイというよりは、純文学を読んでるような気分になるのは私だけでしょうか?w
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ