15.帰って来た舞妓
そういうわけで京都の高校で教師を始めた志乃であったが、その三年後、おうぎやに帰って来ることとなった。
理由は、上司の度重なるセクハラ行為に耐えかねてのことであった。
学生時代はとりあえず気に食わない相手をブン殴って来たものの、相手が上司となるとそういうわけにも行かなかったのだ。卑猥な言葉を投げかけて来るのを無視していたら付き合っているという噂を立てられ、外堀を埋められた挙句その上司に婚姻を迫られた。あろうことか、それを承諾しない志乃を周囲は攻撃して来たのである。
志乃は逃げ帰った。おうぎやに戻って来た志乃は、騒動に疲れ果て、無気力に暮らしていた。
今まで何もかも、志乃は自分の力のみで切り拓いて来た。しかし社会はそういう場所ではないらしい。驚くような理不尽な目に遭ったり、事故のように突然暴力が降って来ることもあるのだ。
志乃は、今で言うニートになっていた。
おうぎやにもう舞妓見習いは来ない。志乃はしばらく家の手伝いをして暮らした。
そんなある日だった。
家の中に、無言で走って来る足音を聞いたのは──
「お母さんおる!?」
ある日、お勝手の扉が開き、ばたばたとひとりの女が駆け込んで来たのだ。
女は子どもを連れていた。
志乃はその女を見て、声を上げる。
「──恭子ちゃん!」
しかし、いつもの恭子が違っていたのは。
顔面を殴られたように、目元を青黒く腫らしていたその顔──
「ああ……志乃ちゃん。助けて」
「なっとうしたん恭子ちゃん。怪我しとるやないか!」
恭子は震える唇でこう告げる。
「もう、限界なんや」
志乃は目を見開いた。
「殴られるのは、もう……」
志乃は叫んだ。
「クソがあああああああ太一いいいいい!!」
その騒動に、銘子が奥から出て来た。
「あらっ、司はんやないの!どうしたのその顔!」
「お、お母さん、私……」
「細かいことはええ。とにかく一度医者に診せな」
「でもお母さん」
「ああ?太一に怯えとるんか?安心せえ、あんたは今日からここで住みなさい。とにかく医者にかかることや。傷が治ったら芸妓でもすりゃええやろ」
司はその場で土下座した。
「すんません、お母さん。私お母さんに何も恩返ししてへんのに……!」
「かまへん。恩返しせえって一度でも言うたか?私」
「うううお母さん」
「まあええわ。その男の子、名前はなんやの」
「恭一です」
「恭一君、今日から私らと一緒に住もうな」
恭一はじっと銘子を睨み返して黙っていた。
一方志乃は、怒りに我を忘れて駆け出して行く。
「あっ、志乃!」
志乃は太一の家へと走った。
不動産屋を営んでいた太一の家に、志乃は文字通り転がり込んだ。
すぐそこに太一がいた。嫁を殴っておいて、平然と客と談笑していたのだ。
志乃はいきなり太一の胸倉を掴んで声を上げた。
「歯ァ食いしばれぇ!!」
意外にも太一は歯を食いしばった。
志乃は太一の頬に、一発拳をブチ込んだ。
勢いで、壁に背を打ち付ける太一。
その時客は、平然と太一にこう言い放った。
「……いつかこうなると思ててん」
実は既にこの時、太一が恭子を殴り回していることは近隣住民の噂になっていたのだ。
「志乃ちゃん、ようやった」
その時客人にそう言われ、志乃はそれでようやく我に返った。
これでは恭子の居場所がバレてしまうではないか。
今更ながら志乃は自分のしでかしたことを後悔した。
が。
(ふん、ええわ。どうせ無職や。ずっと家の中で見張っていて、太一がやって来たらブン殴れば)
志乃はいつしか無職から無敵の人にジョブチェンジしていた。
それにしても、気になったのはあの恭一のことだった。
(お母ちゃんが殴られとったら、見てる方は色々歪みそうやな)
挨拶もしないで人を睨みつける幼児、恭一。
教育学科に在籍していた志乃は、そこが少し引っかかっていた。




