幕末青春冒険物語 その壱
幕末の江戸(東京)の町・・・
石井隆之介は数え年が二十代半ばの
若い北町奉行所の定町廻り同心であった。
江戸の町奉行所は、現代の東京都庁にあたり、
旗本が都知事にあたる奉行に就任し、奉行の下に
与力と同心が江戸の行政を分担していた。
旗本も与力も同心も、江戸幕府の徳川将軍さま直属の
家臣であったが、旗本は将軍にも謁見できる大名クラスで
与力は江戸市中巡回のさいに馬に騎乗できる中級クラスで
あったのに対して、同心は最下級の家臣だった。
刀の腕と学問の両方に秀でていた石井隆之介であったが、
なにせ出世も俸禄(給与)も封建社会の世襲制で
決まってしまう武士の世界、江戸幕府の下級御家人であった
隆之介には、政治の表舞台に出る可能性はゼロであった。
ぎらぎらと照りつける暑い夏の太陽とまとわりつく湿気
の中で、隆之介は今日も江戸の下町長屋を見廻っていた。
「暑いなぁ~近頃の江戸の暑さは異常じゃな。」
額にしたたる汗をぬぐいながら隆之介は日陰をえらんで
巡回し、道を忙しく行き来する町人どもを見るともなく見ていた。
下町長屋のはしくれで開業している町医者のボロ家の前を
通りかかったとき、
「おい! 隆之介!」
小生意気な声で呼び止められた隆之介が振り返ると
今で言えば中学生ほどの、花柄の夏物の小袖を着た少女が
ニヤニヤしながら立っていた。
「またおぬしか、隆之介殿と呼べと言っておろうが、
今日はところてんはおごってやらぬぞ。 向こうに行って
子らと遊んでおれ。 おれは見廻りで忙しいのじゃ。」
この少女、名前はかなといい、町医者の小娘である。
隆之介は奉行所には内緒で小銭を稼ぐために
町外れにある寺子屋でアルバイトをしているのだが、
かなは、そこに入門し通ってきている少女だった。
「隆之介、そちほどのものが、こんなところで
退屈そうに市中の見廻りに興じておる場合ではないぞ。
世は風雲急を告げるご時勢じゃぞ。 徳川将軍様の世も
もう長くは続かぬと言うではないか。」
この少女、寺子屋ではいつも居眠りしているくせに
妙に世の中の情勢には詳しかったのである。
「口を慎まぬか小娘! おれはこれでも幕府の役人じゃぞ。
おれだからいいものの、他の同心に聞かれたらどうする。
おぬしもぬしの父御もただではすまぬぞ!」
「もうすぐ、薩摩と長州が江戸に攻め込んでくると
言うではないか、そのとき隆之介はどうするのじゃ。」
かなは続けた。
「もうよい! 隆之介殿と呼べ! おれはぬしたちが
思うほどの玉ではない! かいかぶりじゃ!」
まだ続けようとするかなを振り切って
隆之介はその場を足早に立ち去った。
「なんなのだ、あの小娘はいつも・・・
このおれにどうせよと言うのじゃ。」
なぜか刀の柄に手をかけ握り締めて
全身の震えを抑えながら早足で歩いていた隆之介は
いつしか北町奉行所の門の前に着いていた。
すると門番の雑兵が近付いて来た。
「おお、石井殿、大変でござるぞ!」
「うん? どういたしました?」
「奉行様が公金を横領されていたのが
ばれましたのじゃ! 切腹ですぞ!」
「・・・・・。」
隆之介は呆然と立ち尽くしていた。
「なんたる不正義なことをしてくれたのだ。
これはおれたち小役人もただではすまぬかもな。」
隆之介は、急に真っ暗になっていく夏の曇天を
仰ぎ見ながら、妙にしらけた気持ちで思っていた。
「次の奉行はどの旗本がなられるのかなぁ・・・」