八月の出来事・①
●夏期講習編
:或る日
夏休み。しかし清隆学園の生徒は遊んでばかりいられなかった。エスカレーター式に高等部から清隆大学に進学する生徒が多い中で、一部の生徒は他の国公立大学や他の有名私大などの受験組だからだ。
そのため一年生の段階から(もちろん三年生まで)各教科の夏期講習が用意されていた。
一学期の期末試験をしくじった連中は、空調のない高等部校舎で汗をかきかき追試を受講するが、こちらの講習は寒いぐらい温度が下がる大学の校舎で行われた。
時限のチャイムが鳴り、ドヤドヤと講習室から夏期講習に参加している生徒たちが出てきた。
その中に一人の少女が混ざっていた。背は高からず低からず。セミロング程度の髪は背中に流している。白い肌には紫外線が大敵らしく、鼻のあたりにはソバカスが散っていた。しかしそんな些細な減点も、その強い意思を感じさせる切れ長の瞳が持つ印象でかき消されてしまう。
魅力的な瞳を除けば「そこそこの美人」で片付けられてしまいそうな彼女こそが、清隆学園高等部図書委員会にその人ありと、学園内に剛腕伝説が響き渡っている副委員長、藤原由美子なのだった。
まだ一年生ながら進路をしっかりと見据えている彼女もまた講習に参加している一人なのだった。
「あれ? 藤原さん」
去年改装工事で外見よりきれいになった廊下を〈数Ⅱ〉を終えた由美子は、次の〈英単語集中講座〉の講習をする講義室に移動しようと歩いていたところを呼び止められた。
「ああ? あー、権藤か」
夏期講習でも制服着用という規則を忠実に守っている由美子は、同じように夏服を真面目に着けている銀縁眼鏡をかけた男子学生に振り返った。
彼もまた男子として平均的な体格をした少年であった。髪などは、お洒落に気を遣うより校則を守る方を優先しているらしく、短めに刈り込んでいた。顔にかけた銀縁眼鏡のせいもあって品行方正な模範生徒だと大人は見るだろう。
彼は権藤正美。由美子と同じ高等部一年生であった。
「なンだ、オマエも受験組かよ」
「ま、まあね」
ちょっと正美の腰が引けているのは由美子が『拳の魔王』と呼ばれているからだ。
その由来は、図書委員会副委員長の彼女が、図書室の平穏を守らない男子に、遠慮無く鉄拳制裁を下すところからであった。その男子の中に正美も含まれていた。
「ほかにハナちゃんも来てるわよ」
時間に余裕があるので立ち話とばかりに、共通の友人の話題を持ち出した。『ハナちゃん』とは由美子と同じく図書委員会で、一学期の間に副委員長を務めた岡花子のことであった。
「へー」
正美は目を丸くしてみせた。
「じゃあコジローは?」
由美子と仲のよいもう一人の少女の名前を出す。『コジロー』とは図書室常連の佐々木恵美子のことだ。
「あの娘は無理よ。剣道の都大会があるもの」
恵美子は一年生だてらで剣道部のエースであった。呼び名の由来がその苗字と、剣道小町ということで、剣豪で有名な歴史上の人物にあやかって『コジロー』というわけだ。
「そっちのいつものバカどもは?」
由美子が訊いたのは正美といつもつるんでいる不破空楽と郷見弘志のことである。この二人と正美の三人で、いつも図書室で騒動を起こしている『正義の三戦士』である。
「空楽が来てると思う?」
「うっ…」
成績優秀な正美はともかく、時間も場所も選ばずに居眠りをする空楽が来ているとは思えなかった。彼は居眠りと読書、そして何よりもアルコールを愛する少年なのだ。(未成年が飲酒はいけません)
「じゃあ郷見は?」
「さあ?」
根っからの騒動屋で事件があれば必ずいるという、一番の問題児の名前を挙げると首を傾げる正美。その様子では本当に知らないようだ。いつも三人セットで考えていたが、さすがに夏期講習となると違うようだ。
「そこらへんで出くわすんじゃない?」
正美の無責任な言葉に、背筋の辺りに嫌なモノを感じながら由美子は辺りを見回した。
「夏期講習の間ぐらいは静かに過ごしたいンだけど」
弘志にかかれば石につまずいた程度の事件が、いつの間にか国家陰謀の謀略の中心になりかねない。できれば遭遇したくない相手だった。
「だめか…」
少し脱力して由美子は言葉を吐いた。
噂をすれば影。廊下の向こうから他の講習生より頭一つ高い痩身の少年が、移動でごった返す廊下に確認できた。
茶色がちな髪の毛は中途半端にシャギーをかけた少女のような短い髪型で、アーモンド型の綺麗な瞳や、まるでつついてもらいたいと主張しているかのような柔らかそうな頬などが相俟って、男子用制服を着ていなければ女子に間違えそうだ。
文具を放り込んであるのだろう、いつものディパックを肩にかけ、貼り付けた微笑みで人ごみを泳いでこっちにやって来ていた。
再確認するまでもない、間違いなく弘志だ。正美と同じ男子の夏の制服姿だが、ネクタイはぶる下げていてもワイシャツのボタンはだらしなく二つも外していた。
「あのバカ、だらしのない」
まるで姑のような言葉が出てしまう由美子。拳を握ると、まだこちらに気がついていない様子の弘志に向かって歩き出した。
弘志の頭頂部へ、後ろからノートの角でツッコミが入れられた。
「えっ…」
由美子と正美の目が点になる。弘志は痛むであろう頭を押さえて振り返った。
そこには茶襟のセーラー服を着た少女たちが一個集団立っていた。意識しているのかいないのか、こちらに向けて傘型陣形を組むような並びだ。その番の位置、中心に立っていた一際身長が高い娘が、自分のノートを肩の高さに構えて胸を張っていた。
「あれ、だれよ」
自分の出番を取られた由美子は傍らの正美に訊いた。
「さあ、夏期講習には清隆じゃない人もくるからね」
正美の言うとおり、ゴッタがえしている廊下には清隆学園の紺色ブレザーだけでなく、セーラー服やら縞模様のパンツ姿、明らかに私服の受講生まで存在した。
「ンなことはわかってンのよ!」
「だから、弘志ぐらいの見た目なら女の子も寄ってくるんじゃないかと…」
そんな廊下の喧噪の中で、弘志へノートでツッコミを入れた娘が何事か話しかけていた。内容は雑踏に紛れてここまで届かないが、明らかに照れ笑いに表情を変化させた弘志が、後ろ頭を掻いていたりしていた。その照れているままにワイシャツのボタンを留めてもらったりもしていた。
何やら不穏な空気を感じて、恐る恐る正美が確認すると、明らかに彼女の額に青筋が浮いていたりした。
相手の少女は作業を終えると、バシッと今度は弘志の背中にツッコミを入れてから、集団を促してその場を去っていった。
「へえー。郷見くん、やるじゃない」
二人の後ろから声がした。振り返るとそこに清隆学園高等部女子の制服姿をした、頬の高さで黒髪を切り揃えた日本人形のような印象の少女が、いつの間にかに立っていた。
彼女が岡花子である。
「は、ハナちゃん」
「あのセーラ服、聖アドルフ学園の制服でしょ」
どうやら彼女も一部始終を見ていたようだ。
「中高一貫教育のミッション系のお嬢様学校よ」
「というと女子校?」
正美の質問に花子はうなずいた。
「今時珍しいぐらいの厳格な校風らしいわよ」
そういえばセーラー服の全員が着崩すことなくちゃんとしていた。そんな画一化された少女たちの集団に、弘志はヘラヘラと手を振って見送っていた。
「なんなのよ、あのバカ」
そんな弘志を見て、由美子はそう言い捨てると、次の教室へ向かうため背を向けた。
正美は話しが判らずに目を丸くしている。その横で花子はちょっとうれしそうな顔をしていた。
「やっぱり、コジローの言う通りなのかしら」
「???」
話がわからず目を白黒させる正美の前で、含み笑いの花子は由美子を追うように廊下を行ってしまった。この場にいないがコジローこと佐々木恵美子は、由美子と弘志が恋仲になるべきだと思っているのだ。事あるごとに二人をくっつけようとあからさまな態度を見せていた。
そんな彼女の名前が出てきた理由が思い付かなかった正美は、次の講習を告げる予鈴を聞いて廊下を走り出した。
なにか悶々としたまま英語の授業が過ぎていった。
夏期講習の時間割は各二時間づつとなっているため、次はもう昼休みであった。
(もうどうでもいい。次に郷見と出くわしたら問答無用で殴ろう)などと乙女にあるまじき思考をしていた由美子は、昼食を取ろうと大学の学食へ足を向けた。
彼女は自分でお弁当を作ってきていたが、大学校舎内は原則として飲食禁止だからだ。
学食は先程の休み時間同様に、講習会に参加している近隣高校の制服に埋め尽くされていた。防御本能のような調子で同じ清隆学園の制服を求め、人ごみの中を目線が泳いだ。
無料で飲み放題の給茶器の横で目が止まった。そこに一人だけ清隆学園の制服が席を取っていたのだ。
何のことはない休憩時間に会った花子であった。由美子の視線を感じたのか、自分のお弁当に向かって俯いていた彼女が顔を上げると、由美子を見つけて小さく手を振ってくれた。
「あ、また会ったね」
誘われるままに近づくと、花子から先に声をかけられた。
「空いてる?」
「どうぞ」
座るなり花子の表情が微妙に変化した。あえて言うなら意地悪げに微笑んだという感じだ。
「ねえさん。あれから郷見くんに会った?」
「会ってないけど、なに?」
「あ、そお」
花子の微笑みがさらに変化した気がして、由美子の表情がちょっと険しくなった。
「なによ。なにが言いたいのよ」
「ん? 気になるのかなぁって思って」
「なンで、あンなやつ」
お弁当を開いて言い捨てた。すると花子がたまりかねたようにクスクスと笑い出した。
「私、『何が』気になるのって訊いたのに『誰が』気になるの?」
花子の誘導尋問にひっかかった気がして、由美子の頬が赤くなってきた。花子は花子でこれ以上弄るとせっかくのガラス細工が壊れてしまうという風に表情を引き締めた。
「〜〜〜〜〜っ!」
由美子が言葉にならない声を漏らしていると、座席の位置関係で入口を向けていた花子が気がついた。
「ほら、また噂をしたら」
花子が由美子の背後に当たる学食の入口を指差した。
ちょうど弘志が学食に入ってくるところであった。肩のディパックといい休憩時間となにも変わるところがなかった。彼は学食の人ごみに辟易したような表情を見せたが、黙ってそのまま食券売り場の順番待ちの列に並んだ。
どうやら由美子たちのようにお弁当など持ってきていなかったので、学食の安い定食かなにかで昼を済ませるつもりのようだ。
その背中を誰かがつまんで引っ張った。
さっきのセーラー服の美少女である。いまは取り巻きを連れておらず一人きりだ。おかげで今度は充分に彼女を観察できた。
長い栗色の髪を後ろで束ね、身長は弘志とほぼ同じくらい。顔には先程はかけていなかった赤い細いフレームの眼鏡をかけていた。
頭は意外にちいさくて九等身ぐらいはありそうなプロポーションは、清隆学園において『学園のマドンナ』に選ばれた恵美子より良さそうだった。顎のラインも細く、鼻筋もまっすぐで唇はリップをひいているかのように輝いていた。
彼女はなにかを弘志に差し出した。ハンカチに包まれたそれは、大きさといい雰囲気といい、どうやらお手製のお弁当のようだ。
最初は照れて受け取らなかった弘志だが、彼女のきついツッコミを腹にくらってシブシブと受け取ることのしたようだ。
彼女は一部始終を見ていた二人に気がついたのか、こちらにウインクを一つ流して学食を出て行った。
そのまま呆然としていた二人に、上から声がかけられた。
「やあ、二人とも講習会に参加していたんだね」
振り仰げばたったいま謎の美少女と絡んでいた弘志であった。右手にキテ▽ちゃんのハンカチに包まれた物を摘むように下げ、左手には学食で飲み放題の麦茶を持っていた。
弘志の声は、聞いていると音質が高めのとてもいい声なのだが、安心してはいけない。この声で下ネタ連発するなどして、声質のイメージはいつもぶち壊されるのだ。
いまは不思議そうな顔をして、茫然とした様子の二人を見下ろしていた。
「どうしたの? 二人して?」
なにも言い出せずにいると、それをどう取ったのか、いつもの笑顔を増量してみせた。
「ここ空いてる?」
返事を待たずに手にした物を二人の横に並べた。
肩にかけた荷物は足元へ、空いていた由美子の隣に遠慮無く席を取った。
そして二人に見せびらかせるようにキ▼ィちゃんのハンカチを解くと、その中からスミッ□ぐらしのお弁当箱が出てきた。
「中身はなにかな」
フリカケをかけたご飯にタコさんウインナー、きれいに巻かれた厚焼き卵。まるでおかあさんが作ったお弁当であった。
それを見て、由美子は慌てて自分のお弁当箱に蓋をした。
「どしたの? 姐さん」
「ちょっと…」
あいまいな微笑みを残して由美子は席を立った。
「???」
弘志が声をかける間もなくそそくさと荷物を纏めて学食から出て行ってしまった。
説明を求めるように不思議そうな顔をした弘志は花子のことを見た。
花子は溜息が出るのが止められなかった。
「罪作りな人」
「???」
その日、由美子は暗い顔をして家路についた。
「みつけた」
大学の敷地からいつも使っているバス亭に向けて歩いていると、後ろから花子が追いかけてきた。
聞き慣れた声に半分だけ振り返るが、すぐに前を向いてしまった。
「どうしたの、ねえさん?」
横に並んだ花子へ目線だけ向けて素っ気なく答えが返ってきた。
「あらハナちゃん。どうもしないわよ」
「うそ」
その横顔をじっと見つめて花子は言葉をつないだ。
「深刻そうな顔してる」
「そ、そう?」
由美子は両腕を曲げてガッツポーズをしてみせた。
「こんなに元気なのに?」
その空元気を微笑みで受け止めた花子は遠慮無く言った。
「郷見くんのことを気にしている顔してるよ」
「そ、そんな…」
「気にしてるんでしょ」
ニコッと花子が微笑みなおした。
「仲良かった子が彼女つくっちゃって、いままで通りにできないんじゃないかって思ってる?」
「それは…」
「それとも郷見くんのこと盗られた気がする?」
「…」
由美子は花子の顔を見た。彼女はクスクス笑っていた。
「取り戻したいの?」
花子はどうしたものか、クスクス笑いを続けながら由美子を見つめた。
「夏だし、花火大会でもやってみる? 権藤くん誘ったらもれなくついてくると思うけど」
まるでお菓子のオマケ扱いである。
「いいのよ。あたしには講習があンだから」
「おやあ」
心外そうな顔を無理矢理作った花子は、追い打ちをかけることにした。
「じゃあ郷見くんが彼女とデートしに行っちゃってもいいんだ」
「…」
急に黙って前方を睨み出す由美子。
「デートしちゃってもいいんだ」
「知らない!」
その追い打ちをかわすように由美子は足を速めて行ってしまった。ちょっと苛めすぎたかと思った花子はその背中を見送ってしまった。
:また或る日
翌日も夏期講習は続いていた。
「はい、ねえさん」
昨日と同じく一限と二限の間に設けられた休み時間に、由美子のところへ花子が現れた。
もう何やら準備していたと見えて、由美子に一枚のコピー用紙を押しつけてきた。
「なによこれ」
「昨日言った花火の計画。しおり作ったの」
「はい?」
見れば決行日時は未定と書かれているが、高等部の裏にある雑木林で花火をやる旨が記されていた。几帳面な彼女らしくどこで花火を購入するのか、予算はどのくらいなど思い付く限りの項目が計画されていた。
当日は夕暮れに近くの駅に集合し、のんびりと場所に移動して花火大会を開催、そして解散。解散後は適当な人数のグループに分かれて帰路につく。その場合、二人きりになっても問題視しないことなんてことまで書いてあった。
由美子は頭痛すら感じて溜息が出た。
「ハナちゃん」
「郷見くんに男子の分頼むつもりなんだ」
花子は小脇に抱えたバッグを開いて、コンビニで増刷したらしいコピーの残りを見せた。
「ちょっ、ちょっと」
動揺する由美子に片目をつむってみせて「だってその顔。ろくに寝てないんでしょ」
「これはただ、復習と予習に手間取って…」
「手間取ったのは郷見くんのことを考えてたからでしょ?」
「そんなことないってば! いらないわよ、こンなもの」
ムキになって言い返して渡された紙を突き返すと、返された花子の方はこちらを見ていなかった。
「?」
彼女らしからぬ反応に、その目線を追いかけてしまった。どうやら廊下の先の方を見ているようだ。
そちらからは噂をしていた弘志が、こちらに向けてやってくるところだった。昨日とは違ってちゃんとワイシャツのボタンも留めており、黙っていれば美少女…、いや美少年の彼が色とりどりの制服が行き交う中をのんびり歩いていた。まだ二人に気がついていないようだ。
まるで昨日の再現である。
「郷見くんみっけ」
チラリと由美子を見て「ねえさんの代わりに私が誘ってきてあげようか?」
さらにヒラヒラと返された紙を揺らしてアピールしてみせた。
「は、ハナちゃん!」
いつもは物静かにしている花子にしてはちょっとイジ悪な態度であった。
「あれ」
花子が声を上げたので見ると、昨日と同じ聖アドルフ学園の制服を着た集団が弘志の前にやってきていた。もちろん昨日の美少女もいた。
一見美少女の弘志と、本物の美少女がにこやかに挨拶を交わし、今日はそのまますれ違うかに見えた。行き違う瞬間、弘志の手が謎の美少女に伸び、その肩をやわらかく掴んだ。
そして力を込めずに振りかえさせると、なにごとか言いながら豊かなバストを飾るセーラー服のリボンに手をかけて、わずかな歪みを直してやっているではないか。
こんな大勢の行き交う廊下で女の子の胸元へ手を伸ばすなんて、二人の仲がどれだけ進展していようとも、大胆な行いであることに間違いなかった。
美少女は礼を言いながら廊下を向こうに去っていった。
「ねえさん?」
突然、肩が小刻みに震えだした由美子へ、花子はおそるおそる声をかけた。
「ハナちゃん」
由美子の手が花子に伸びてきた。つい後じさってしまったが、彼女は花子が持っていたバッグから紙の束を乱暴に鷲掴みにした。
「別に気になるとかじゃないからね。ただ、あのバカに人前で、女の子とやって良い事と、ダメな事があるのを、二人きりで教える機会が欲しいだけだからね」
花子を、というより自分を説得するように言いながら紙束を奪い取るようにして取ると、由美子は弘志の方へズンズンと歩いていった。
廊下の人ごみの中で彼女を見つけたのか、彼が手を上げて挨拶した。
人ごみの喧噪で声は聞こえないが、いつもの会話をしている雰囲気が見て取れた。
由美子は問答無用とばかりに花子が用意した紙束を押しつけていた。
「あ、ハナちゃんまた会ったね」
こちらでその無音劇を花子が見守っていると、廊下の反対側から正美が現れた。
「あ、権藤くん。いま面白いものが観れるよ」
「面白いもの?」
ボーッとした態度で振り返った正美の背中が凍り付いた。
「げげ」
正美はわざわざ眼鏡を外してシャツで拭ってみせた。
「どうやらまた目が悪くなったらしい。僕には藤原さんが弘志をデートに誘っているように見える」
「その通りよ」
「しかも、照れた藤原さんが弘志を、思いっきり殴り倒しているような…」
「その通りだってば」
正美は花子を見て、現実に目の前の事態が進行していることを見ているのだと再確認した後、溜息をついた。
それからボウッと廊下の天井を見上げてつぶやいた。
「やだなー、僕の生きているうちに世界が滅びるの」
「そんなことがあるか」
まだ興奮が残っているのか、上気した頬の由美子が帰ってきて正美も殴り倒した。
「うまく行った?」
「うまく行くも何も、ただ話し合う約束をしただけだよ」
まだなにか言いたそうな二人を睨んで黙らせると、この話題はこれで終わりとばかりに、長めの髪を揺らして振り返った。
その先に、いつの間にかさっきのセーラ服のリボン直してもらった謎の美少女が立っていた。あまりのことに三人とも息を呑んだ。
「いま、弘志になにをしてたの?」
どうやら紙を渡すところを見ていたようだ。
見られていたという事よりも、彼の名前を呼び捨てにしたことにカチンと来たらしく、由美子はそっけなく答えた。
「オマ…。アナタには関係ない事です」
「関係なくないかもよ」
身長差から見おろして言ってきた。そのせいか自然と胸に留められた校章とクラス章が目に入ってきた。クラス章には〈Ⅲ−A〉という数字が入っていた。常識的に考えて先に記されている数字が学年を表す数字であろうから、三年生ということになる。どうりで由美子たちよりも大人びた雰囲気を持っているはずだ。
「ちょ、ちょっとネエさん」
四人の後ろから弘志が慌てて声をかけてきた。どうやら直接対決を見つけたようだ。
「なによ」
「なに?」
由美子と謎の美少女が同時に振り返った。それを見て弘志は腹をかかえて、ひとしきり笑い転げた。
「なにがおかしい」
由美子と彼女が同時に弘志を殴り倒した。
「ム、できる」
「あなたもだいぶ弘志のことを殴り慣れているわね」
お互いが相手の実力を認めた瞬間、さらに後ろから寝ぼけた声がかかった。
「あれ? アカネさんじゃないか」
すっとぼけた声に全員が顔を向けると、そこにはだらしなく制服を着た清隆学園の男子がいた。ワイシャツのボタンなんか三つぐらい留めていなく、ネクタイなんかぶる下げてもいない。なにより感じるのは彼が眠そうだという雰囲気。誰でもない『正義の三戦士』最後の一人である不破空楽だ。
「オマエなんでココに?」
「そりゃ夏期講習を受けにだが? なにかおかしいか?」
「おかしいもなにも…。アカネさん?」
由美子が問いつめるように空楽に近づいたのをいいことに、弘志がアカネと呼ばれた彼女の背中を押した。
「ネエさんは、とりあえずこっちに」
「なんで? アン! 不破くんジャアネー」
そんな二人を見送ってから正美は空楽にきいた。
「空楽、彼女が何者か知ってるの?」
「知ってるも何も…」
めんどくさそうに空楽。
「彼女、弘志の姉ちゃんだろ」
…。
沈黙が訪れた。
そして問答無用に由美子の鉄拳が空楽に炸裂した。
「いてぇ! なにしやがる!」
「じょーだんも、やすみやすみいいなさいよ!」
「何が冗談だ?」
「そンな、つごうのいいおねえさんが、いるわけないでしょお!」
「ねえさん。セリフがぜんぶひらがなに、なってるよ」
「本人に訊けばよかろう」
殴られた頬を押さえて憮然とした空楽。由美子は二人の去ったほうへ首をめぐらせた。
すでに影もなかった。
「だいたい、あのセーラー服はなによ!」
「アカネさん女子高生だから」
弟が高校一年生で姉が高校三年生。全然不思議ではなかった。
その可能性を考えついてもいなかった由美子と花子は顔を見合わせた。
「何度も言うが、嘘だと思うなら本人に確認してくれ。じゃ、俺行くから」
「逃げるのかよ」
由美子の挑発に、空楽は上を、つまり廊下の天井を指差した。
「次、始まるぞ」
さっさと背中を見せる空楽に取り残された三人の耳に、予鈴が聞こえてきた。
その日の昼休み。手早く昼食を片づけた由美子、正美、花子は知的好奇心を満足させるべく、大学構内で弘志を捜していた。
しかし学食どころか、どこの講義室でも見つけることができなかった。
その代わりと言ってはなんだが、構内の中心的な役割をしている噴水広場に設けられたベンチに聖アドルフ学園のセーラー服を見つけた。
みんなが揃えたように畳んだお弁当箱を膝に乗せて、どうやら昼食後の談笑というヤツのようだ。
その集団の真ん中には、空楽が弘志の姉と言った美少女の姿があった。
「ちょっと、藤原さん」
遠慮無くそこに突撃しようとする彼女を正美が押し止めた。
「あの集団に突っ込んでいくの?」
「あたりまえでしょ。そうじゃないと、いつまでも謎が解けないじゃない」
「ねえさん。こっち見てるよ」
じいっと彼女を観察していた花子が気がついた。
「あ、ほら立ち上がって、こっちに来るみたい」
周囲の取り巻きに何事か挨拶をしてから、長い栗色の髪を風に流しつつ由美子に固定した視線を動かさずに、彼女は一人でやってきた。
「こんにちは」とニッコリ。
「こんにちは」由美子は厳しい表情のまま挨拶をかえした。
「不破から聞いたンだけど、本当にアナタが郷見弘志のお姉さんなンですか?」
覗き込むように疑いの視線を投げかけてくる由美子を見おろして、彼女は軽く握った拳を唇に当てた。
「え、えっと〜、弘志の姉の郷見茜で〜す」|(猫なで声)
その後ろ頭にカンペン(しかも角)でツッコミが入れられた。
「なにをブリっコしとる」
「手加減無しにつっこんだわね」
頭をさすりさすり彼女が、いつのまにか現れていた弘志に振り返った。姉弟の気安さからか口調がだいぶ砕けたものに変化していた。
「こちらの方は?」
もう一度振り向いたときには余所行きの顔になっていた。尋常でない自制心であった。
「ええと、こっちの男は権藤正美ね。空楽と同じで、クラスメイトなんだ」
「ああ。お噂はかねがね」
「よ、よろしくお願いします」
間近で美人に微笑まれ、正美が柄になく緊張した声を出した。
「こちらのお人形さんみたいな娘が、岡花子さん」
「よろしくお願いします」
流石に花子はちゃんとした挨拶であった。両手を揃えての一礼までしてみせた。実は彼女は清隆学園高等部において華道部にも所属しており、部活中は和服を見事に着こなす所作のしっかりとした娘なのだ。こういう外面が必要な時にかしこまった挨拶をするなんてお手の物なのだろう。
「で、こちらが…」
弘志の掌を向けられて由美子はどう振られてもツッコめるように身構えた。四月に知り合ってから半年足らずで弘志の習性は把握しきっているのだ。
「マイハニー由美子です」
「だれがハニーじゃ!」
顔を真っ赤にした由美子は、平手をグーに変えて弘志を殴り倒しておいて、弘志の姉にお辞儀をしつつ自己紹介をした。
「清隆の図書委員会で、弟さんに迷惑をかけられている藤原由美子です」
「あ〜」
茜は思わずといった態で声を漏らすと、まじまじと彼女を観察した。
「あなたが『あの』藤原さんね」
「ちょっと待て。その『あの』ってのはなンだ?」
素早く弘志に振り向いたが、彼は床にのびていた。
「不出来な弟ですみません」
目の前で実弟が殴り倒されているというのに、笑顔にヒビも入れずに彼女もお辞儀を返した。由美子も相当な女傑であるが、彼女もまた別の意味で肝が据わっているのだろうと思わせた。
「で? オマエら姉弟なのかよ」
由美子が遠慮無しに、床から復活した弘志に訊いた。後ろで花子が小声で言葉遣いを注意していた。
主に弘志に向けて訊いた言葉だったが「そうよ」と彼女があっさりとうなずいた。
肯定されて改めて並んだ二人を見比べてしまった。背の高さは同じぐらいだ。ということは弘志の姉である茜は女子として相当背の高い部類に入ることになる。肩幅や線の細さなどは、恐ろしいことに弘志の方が、本物の女子であるはずの茜よりも華奢な印象を与えた。ただ茜の自然体としての美しさに対して、弘志のそれはどこか作り物めいて見えるのは確かであった。遠くから見ていた分には気がつかなかったが、瞳の色や髪の色は似通っていることは間違いない。万年微笑みの弘志と違って、茜は短剣のような鋭さも併せ持った含みのある笑顔で、すでに『女性』として自分の魅力を把握している物だった。
先入観を無しに姉弟ですと紹介されれば、確かにこの二人は血の繋がりを持った関係と理解できるのだった。
ただ弘志の見た目が見た目だけに、制服を着ていなければ『姉妹』と言われても違和感がない組み合わせだったが。
由美子は遠慮無く指差して問うた。
「こンなンが弟で恥ずかしくありませン?」
「そうね、たしかに」
間髪入れずにそう答えた茜がコロコロと笑った。年の割には余裕のある態度であった。
「でも安心した。高校に行って、ちゃんとお友だちができたのね」
まるで彼の保護者のようなことを口にした。
「酷いなあ。この清廉潔白眉目秀麗のボクは、どこに行っても人気者だよ」(棒読み)
「オマエはどちらかというと爆発炎上火気厳禁だろうが」
白々しい事を言った弘志に、間髪入れずにツッコミを入れてしまった。
茜はさらにコロコロと笑うと、深く頭を下げた。
「ホントこんな弟ですけれど、よろしくお願いしますね」
「あ、いえ…」
二つどころか十は年上に見える茜に頭を下げられて、一同がどう答えていいものか戸惑っていると、噴水の脇から声がかけられた。
その遠い声に茜は元気よく手を振ってこたえた。
「それでは、呼んでいますので」
一同に色気のあるウインクを贈ってから再び一礼した。
「それでは、ごきげんよう」
「あ、はい」
呆気にとられてろくな返事ができない由美子を残して、彼女はセーラー服の中へ戻っていった。
「本当に『ごきげんよう』なんて挨拶するんだ」
正美が感心した声を漏らした。
「お姉さん、歳いくつ?」
「二つ上だけど?」
花子の質問に弘志はこともなく答えた。
「したわれてるのね…」
講義棟へ消えていく集団を見送りつつ、半ば呆然としたまま由美子は弘志に言った。
「ネエさん『白百合さま』なんだってさ」
「何よ、そのナントカさまって」
「あー、白い薔薇だとか、黄色い薔薇とか、女子校でよくあるアレね」
腕組みをした正美が、一人合点した顔をする。二人の少女に不審な顔をされて、あわてて少女向け小説の最新刊を、教科書の間から取り出してみせた。
「こういう奴でしょ」
表紙にでかでかとした丸っこい字で『ファラリス様がみてる』とパステルカラーで表題が書いてあった。
「ああ、これね」
二人とも図書委員なだけに本の虫でもあった。タイトルを見ただけで納得し、そして怪しげに正美を見た。
「なンで最新刊をオマエが持ってンだよ」
「確か昨日発売だったような」
「変態」
最後に発言した花子の台詞が一番重かった。
「コバ○ト文庫を男が買ったっていいじゃないか」
「オマエどの顔して、これレジに持って行くンだよ」
必死の正美の発言に、由美子は冷静に訊いた。
「そりゃ、普通に棚から抜いて。平積みの時もあるけど」
「ある意味あたしゃ、オマエを尊敬するわ」
「まあ、そういうわけで。じゃ、また」
さっさと背中を見せて消えて行く弘志。取り残された三人の耳へ、午後の予鈴が聞こえてきた。
「誘っちゃったね、花火」
ポツリとつぶやいた花子に、由美子は反応した。
「いいのよ。どうせ姉弟でも、公衆の面前でやって良い事と悪い事には変わりがないんだから」
「ねえ、花火ってなに?」
「それを答えるには、まず受講してからだね〜」
本鈴が鳴りそうなスピーカーを見上げると、由美子はバッグをしょいなおして次の講義が何だったかを想い出そうとした。




