七月の出来事・①
登場人物紹介
藤原 由美子(ふじわら ゆみこ):清隆学園高等部一年生。その剛腕をもって図書委員会を切り回している。最近読んだ本は「我が闘争」
郷見 弘志(さとみ ひろし):一見女顔の美少年。実態は突拍子な非常識という由美子の天敵。最近読んだ本は「ニュークリア・ボーイスカウト」
不破 空楽(ふわ うつら):酒と読書と居眠りをこよなく愛する弘志のクラスメイト。最近読んだ本はフェアリーゲームシリーズ四巻「最終案内」
権藤 正美(ごんどう まさよし):中学時代は真面目な生徒であったが、弘志と空楽に出会ってしまったのが運の尽き。最近「こち亀」全巻読破。
佐々木 恵美子(ささき えみこ):由美子のクラスメイト。『学園のマドンナ』として選ばれるほどの美貌を誇る。最近読んだSFは「スラン」
岡 花子(おか はなこ):副委員長として由美子の片腕を務める和風美人。最近の愛読書は「立原道造全集」
副題:『夏の想ひに』
夏の朝はやくである。こんな時間でも、すでに清隆学園の敷地内は蝉がうるさく鳴く声に包まれていた。
あまりの大音声にかえって耳が静寂を感じてしまう程だ。
そんな今日も強い日差しが差し始めた学園の北側に、格技棟と呼ばれる建物が存在した。中には体育の選択授業で使用する柔道場と、剣道場が設けられていた。
その二面の試合場は、外界の喧噪から隔離されて、本物の静けさに包まれていた。
夏休みだから誰もいないのではない。現に壁際に朝練をしにきた剣道部員が並んで正座をしていた。
制服姿の男子が二人程あいだに混じっているが、残り全員が面こそつけていないが防具はつけて真剣な顔をして、道場の中央を見ていた。
けっこうな人数がいるのにも関わらず、しかし全員がしわぶきもしないため、剣道場はシーンと静まりかえっているのだ。
全員の視線が今おこなわれている二人の試合に注がれていた。
竹刀を握る一方は、白い胴着に薄茶色の防具を着けた、身長の割に細い体の人間だ。前垂れには『佐々木』と書いてあった。
身に着けている物から竹刀まで、中の上といった程度の品質であった。しかも買ってきたばかりの新品ではなく、どれもが程良く使い込まれていた。
軽いステップで身体をわずかに揺らして竹刀を中段に構えているのは、剣道では当たり前の様子だ。
頭のてっぺんから足の先まで、その様になった姿は間違いなく剣道部員の一人だ。
対して相手をつとめている者は、授業で使用されているボロっちい青い胴着に、これも学校の備品である黒の安物の防具を身に着けている。
手に握る竹刀すら年季が入っており色褪せていた。前垂れには、これまた薄汚れた布に『不破』と書いて縛り付けてあった。
試合相手と違い、彼は竹刀を中段に構えてはいたけれども、体を揺らすことなく自然体でそこにすっくと立っていた。
道場には二人のぶつかる波動のような気迫が満ちており、審判役の剣道部顧問ですらその圧力のような気合いに、呼吸すら遠慮しているかのように無音になっていた。
突然、その気迫を発している片方である黒い防具の人物から気配が消えた。
ゆらゆらと上半身が揺らぎ、竹刀も行く先を失ったかのように下がり始める。
壁際に並んだ部員に混じって正座していた夏服姿の二人は、お互いの顔を見合わせた。
「あいつ、まさか」
「居眠りしてるんじゃ…」
緊張に包まれていた部員たちがうるさいぞと言うように抗議の視線を向けてくるが、二人は一向にかまわないようだった。
「あいつにこんな早朝は無理だったか」
向かって右に正座していた方が、そのまま腕組みをして感想を漏らした。
見た目は、茶色がちな髪の毛を中途半端にシャギーをかけた少女のような短い髪型にしている美少女である。アーモンド型の綺麗な瞳や、まるでつついてもらいたいと主張しているかのような柔らかそうな頬などが相俟って、男子用制服を着ていなければ女子に間違えること間違いなしだ。
だが中身の方が外見を完全に裏切っており、下ネタと化学実験大好きの騒動屋と来ている。名前を郷見弘志といった。
隣の、銀縁眼鏡をかけた真面目そうな少年も、同意しておなじようにうなずいていた。彼の方は年相応の高校生男子らしく髪は校則通りに短く刈っており、夏服においてシャツの胸ポケットに着けることとされている校章などの徽章類も規則通りに着けていた。
清隆学園中等部から成績優秀者のみに与えられる特権で、無試験により高等部への進学を果たした品行方正の秀才、権藤正美である。
今日は二人して同級生の不破空楽を、現在試合相手をしている剣道部のエースに頼み込まれて、彼の家(どころか自室)へ乗り込んで強引に連れてきたのだ。
白い胴着を着た相手には、その気配が薄れた様子が『隙』と取れたようだ。裂帛の甲高い声を上げると大きく踏み込んで面を取りに竹刀を上段に上げて突撃した。
「きえええええええええぃぃ」
「ムッ」
その切り込んでくる殺気に反応して黒防具が反応した。
ビッバシッ
鋭い音が剣道場に響いた。
お互いの竹刀は相手に向けられたまま二人はすれ違い、すり足で突撃の勢いを殺しつつ残心で、剣先だけは誘導装置があるかのように相手の中心に向いていた。
すぐにお互いが向かい合って止まった。
その鋭い音と互いの位置が変わっていなかったら、何事も起きていないような速さだった。
「一本!」
竹刀の音が、蝉の鳴き声の戻ってきた場内に消えようとするころ、ようやく審判の赤旗が差し上げられた。
『不破』の勝ちであった。
「なにが起きたの?」
「説明しよう!」
正美に喜々として弘志が答えた。その口調はまるでタイムボカンシリーズのナレーションのようだ。
「いま奴は上段から切り込まれて面を狙われた。それを逆手に取って、首を傾げて相手の竹刀をかわしてそれを肩に受けながら、すれ違いざまに胴を打ったのだ」
「おお」
正美だけでなく剣道部員たちからも、弘志の説明に感嘆の声が出る。
「コジローから一本取れるのは不破さんだけですよ」
弘志の向こう側に座っていた同じ一年の女子部員が感激の声を出した。
道場の二人は向かい合って蹲踞すると竹刀を収め、立ち上がって一礼すると壁面に下がって、並んで面を外した。
「おつかれさん」
面を外すのを手伝いながら弘志は声をかけた。
中からなかなかの男前が顔を出した。男らしい眉に切れ長の眼を持ち、綺麗に通った鼻筋など、知らない者が見たらどこかの芸能事務所に所属している男性モデルと勘違いするかもしれない程だ。
だが、その眉が微妙に顰められている。なにか不満らしい。
「どした?」
「学校の面はなんかヌルッとしていて不快だ」
「そうか、剣道はそんなことがあるんだ」
選択体育が柔道である正美が感心したようにうなずいた。
「強いわね不破くん」
薄茶色の面の下から爽やかな風のような声が声がした。
男らしい空楽と対等に試合をしていた相手がどんな偉丈夫かと見てみれば、ちょうど面を外したところだった。その下からは麗しい卵のような美しい顎のラインをした、美少女という言葉が陳腐に感じられるほどの女子が顔を出した。
いまは自慢の長い髪を手ぬぐいの下に纏めていたが、すこしも彼女の美に遜色を見せていない。生徒会主催の(裏)投票にて毎月選出される『学園のマドンナ』に、入学式以来ずっと選出されていた少女。例えるならそこに立体映像投影機があってCGで合成された究極の美を投写し続けている。そんな完璧な美貌の持ち主であった。
彼女は三人とよく図書室にたむろっている佐々木恵美子である。都大会にも顔をだす剣道の実力と、苗字が佐々木だということで、巌流島で有名な佐々木小次郎になぞらえて親しい仲間からは『コジロー』と呼ばれていた。
いまは剣道の防具姿という無粋な格好であるが、これでお洒落などしていたらファッション誌の表紙がそのまま立体化されたと誤解する人がいるかもしれなかった。
もちろん体のラインも本業のモデルのようにスラリとしていて、出るところは出ていて引っ込むところはちゃんとしているという、何を食べたらその体型が維持できるのか本を書いたらベストセラーになるだろうと想像できるほどだ。
そんな彼女は同じく図書室の常連という気安さからか、親しげな笑顔で話しかけてきた。
「郷見くんと一緒に入部しない?」
髪を包んでいた手ぬぐいを払うように解くと、長く黒い髪がはらりと散って綺麗だった。
「ね?」
口元に八重歯を覗かせて明るい笑顔で誘われてしまう。少し傾げた笑顔が彼女の魅力を最大限に発揮させていた。
「いや、俺は…」
「オレ弱いから」
なにか言いたげな空楽の横から弘志が言葉を取った。片眉を上げた空楽は弘志の顔を見た。
「剣道の授業、期末試験が総当たりの一本勝負だったけど、オレは一回も勝てなかったし」
「あら」
意外そうに恵美子は弘志を見た。
「そのかわり負けもしなかったって聴いてるけど。有段者も含めて全員に引き分けるなんて、そうできないわよ」
「それに、空楽の場合重要で深刻な問題がある」
弘志の立てた人差し指に全員が注目した。
「試合にしても練習にしても、遅刻魔の空楽がちゃんと起きられるわけがない」
「そうかぁ」
剣道部員すら含めて全員が納得してうなずいてしまう。つまり学園内で有名なことなのだった。
「あら、こんな時間」
ちょっと大袈裟に恵美子は壁面の時計を見上げた。
「不破くんじゃないけど遅刻しちゃうじゃない。先生、わたし先にあがります」
「図書委員会の手伝いだったな」
審判だった顧問は大きくうなずいて許可を出した。エースだから優遇しているのではない。剣道場はこのあと空手部が使うことになっており、もう少しで部活を終わらせることが決まっていたのだ。それならば少々早引けするのに心苦しいことはなかった。
「さ、遅れちゃう」
ちゃんと出入口で礼をして、予定がある四人は道場を後にした。
その事件は突然に起きたのだった。
「郷見。オマエ明日あいてる?」
三日間に及んだ夏休みの蔵書整理もメドがつき、やっと涼しげな夕方の風が吹き込むようになった司書室で一人の少女が振り返った。髪をセミロング程度にのばした一見どこにでもいそうな女の子である。
しかしその実態は、『剛腕』にて、頼りにならない先輩方を置いておいて、一学期中の図書委員会を事実上一人で切り回した副委員長であった。
名前は藤原由美子という。もう一人いる副委員長のサポートがあったにしろ、実質彼女がこの四ヶ月間、図書委員会しいては清隆学園高等部図書室の運営を背負っていたと言って過言ではない。
その優秀さから、一学期が終了した直後だというのに、二学期からは委員長就任が内定しているという実力派であった。
もっとも、いつも仕事を手伝わされる三人組に言わせると「武闘派」らしいが。
制服のスカートは校則どおりに膝下、靴下も一時期流行ったルーズソックスなどではなく小さな花柄のワンポイントが入った白いハイソックス、小柄な身体に長い黒髪を無造作に後ろへ流している。
この平凡な女子が男子から一目置かれているのは、言うことを聞かない輩には『拳』で命令することにある。
一見暴力的で恐れられてはいるが、みんなから本当に嫌われていない理由は、常識的な判断の持ち主であり、また姉御肌で面倒見が良いからだ。
「明日? まあ、特にないけど」
深くなにも考えないで、休憩用のお茶菓子であるカリントウをくわえていた弘志はそのまま顔を半分向けた。
「じゃあデートしてみない?」
…。
その瞬間オーロラの織り成す北極圏の空気が辺りを支配し、人々は聖典に書かれているあの町を振り返ってしまったロトの妻ごとく塩の柱と化した。
「それって」
静寂を破ってキャアアアッと黄色い悲鳴を上げながら、由美子の同級生でもある恵美子が両拳を口にあてた。
「公式の恋人宣言!」
「断っても地獄、受け入れても地獄」
司書室の大テーブルで文庫本を開いていた空楽がぼそっと言った。
「ちがう! 誤解だ! アタシじゃない」
やっと自分が言った言葉の意味に気がついた由美子は顔を真っ赤にした。
「いつも漫研の月刊に投稿してくれる子が中等部にいるんだけど、オマエにお願いしたいんだってさ」
「藤原さんの後輩?」
横から正美が聞いた。ちなみに由美子も清隆学園中等部出身であるから、そのお願いしたい子は正美の後輩でもあるはずだ。
「ま、そんなトコね」
「男とデートする趣味は…」
由美子は黙ってポキポキと拳をつくった右の指を鳴らした。
「なンでアタシの後輩が男って決まってンだよ」
睨まれて弘志は黙った。
由美子は、こやつが黙っていれば美少女と間違えられそうな美形だが実態はとんでもない奴であることを、一学期だけ…、いや四月の一ヶ月間で見切っていた。
その美しい顔を見て溜息をつき、カバンから封筒を取り出した。
「この娘よ」
封筒の中にはロウ紙に挟まれた写真が入っており、フレームの中では中等部の校門と思われる場所で、お澄ました微笑みを浮かべる少女がいた。
背後で満開の桜といい、真新しい中等部の制服といい、おそらく彼女が清隆学園中等部に進学した時に撮られたものであろう。
「名前は池上透。中等部の二年生」
「普通の娘だね」
テーブルの上に置かれた写真へ、幾人かの女子も含めて、その場にいた全員が群がった。
銀縁眼鏡の正美が眼鏡の焦点を合うように動かす。ちょっとカメラマンの腕が悪いのかピンボケなこともあった。
「普通か? ちょっと痩せすぎじゃないか?」
俺はもう少しふっくらしていた方が好いなんて空楽は勝手な事を言っていた。
「う〜ん。オレは貧乳から巨乳まで、なんでもOK!」
「彼女、オマエに幻想を抱いてンだから、変なことすンなよ」
テーブルに手をついて写真を覗いていた弘志に、由美子は頭の上から念を押した。
「姐さんはいいの?」
「は?」
彼女を見上げながらシナをつくって色気たっぷりの流し目で、弘志は由美子にきいた。
「あたしが他の子と仲良くなっても」
弘志の口調が気のせいか女言葉のような発音になっている。まるで少女が自分の気になる少年に拗ねてみせるみたいだ。
こやつは確信犯的にこういうことをする。
「…」
由美子が耳まで赤くなって絶句していると、恵美子が横からうれしそうに高い声をあげた。
「すねないでサトミ。王子はあなた一筋よ」
「誰がなンだって?」
その迫力のある声に一同は少し下がった。
ちなみに『王子』とは彼女が由美子を呼ぶ時に使う呼び名だ。由来はよく判らないが女子生徒の間に由美子のファンクラブがあって、そこでの呼び名だとか。また『サトミ』とは女の子のふりをしているときの弘志の呼び名だ。他人から求められるとこうしたことはやらないくせに、こういう時に女の子扱いしないと異常に怒るのだ。
「冗談はさておき、オレは断ってもいいんだよな」
地の少年の声に戻って弘志が訊いた。
「オマエ、明日あいてる言ったじゃないか」
「あんまり好みの顔じゃない」
即答した弘志は写真を指で弾いた。それを見た由美子は、二日前にこの司書室で行った弘志の「科学実験」とやらで、残骸となってしまったテーブルの軽合金製の脚を一本握った。
ちなみにその科学実験と言うのは『電磁誘導式ピコハン』の破壊力試験だったらしい。
ピコハンのどこを電磁誘導式にしたのかは長々と弘志が講釈をたれていたが、一人として理解できた者はいなかった。
「オマエに選択の余地があると?」
その後かたづけに一苦労した由美子は、その棒を両端を持ち力一杯曲げようと試みる。ボディビルダーならば易々とひん曲げる事ができて当たり前だろうが、普通の女の子には無理があるだろう。だが彼女がやって曲がったように見えたのは気のせいであろうか?
ギラリと彼女の目が光ったような気がした。
「もう一度訊こうか?」
「はい! 喜んで行かせてもらいます! もちろんですとも!」(ガクガクブルブル)
直立不動の姿勢から敬礼なんてしてみせる弘志の様子に、イマイチ不安を隠せない由美子。
その表情を見た恵美子が助け船を出した。
「じゃあさ、グループ交際ってどお?」
「グループ交際?」
「王子は郷見くんがオイタするんじゃないか心配なんでしょ、だったら私も行くから、その子と女の子三人で…」
「俺たちもか」
恵美子のセリフの先読みをした空楽が平坦な声で正美と顔を見合わせた。弘志と空楽、そして正美の三人は、学内に『正義の三戦士』として有名だった。
「どうせ面白がって尾行するぐらいするつもりでしょ」
「まあな」
その即答に横から由美子が睨みつけた。
「だったら、みんなで行きましょうよ」
「オレらはいいけど」
不安そうに三人が由美子を見た。
勝ち誇って口元に八重歯を覗かせている恵美子の顔を見返して由美子は溜息をついた。
「トールに聞いてみるわ」
「決まりね」
「わーいデートだグループ交際だあ」
「わーいわーい」
「夏だデートだ! せーしゅんだぁ!」
「コジロー」
無邪気にはしゃぎだした男子どもの横で、暗い顔をして由美子は小さな声できいた。
「アンタもついて来たかったのね」
恵美子は可愛く舌を小さく出して首をすくめてみせた。その拍子に口元から彼女のトレードマークである八重歯が覗いた。
「で、どこ行くの? 今日の明日だったら行く場所はもう決まってるんだよね」
万歳三唱(なんでだ?)をしていた輪から外れて弘志は由美子に訊いた。
「映画? 遊園地?」
「トールは海に行きたいって」
「海か〜」
ニヘラ〜と弘志の表情が弛んだ。それを由美子はキッと睨み返した。
「またヤらしいこと考えてるでしょう。殴るわよ」
「にゃぐってきゃらひはなひでほひい」(殴ってから言わないで欲しい)
由美子の右拳がめり込んだ頬をマッサージしながら弘志は言い返した。
「海って言ってもドコの海?」
恵美子が目を瞬かせた。
「そりゃあ…」
そこまで考えていなかったのか由美子の言葉が詰まった。慌てて取り繕うように早口で男子どもに振り返った。
「静かな穴場みたいな場所を見つけておくように!」
「え〜っ」
抗議の声は眼力でねじ伏せた。
「じゃあ、僕が検索しておくよ」
三人の中で比較的にまともな正美が、まともな答えを口にした。
「じゃあ、明日朝に。詳しくはメールしてね」
その微笑ましい(?)様子にまた八重歯を見せた恵美子は早々に帰り支度を始めた。自分のバッグを掴んで立ち上がってから、手にしたスマホを手にわざわざ振り返ってみせた。
プリーツスカートの裾と、後ろで一回ヘアクリップでまとめた黒い髪がフワッと広がり、まるでダンスの一動作のようだった。
それが収まってから空楽の瞳を見た。
「そうそう不破くんは遅刻しないようにね」
「大丈夫。オレが起こしに行くよ」
呑気に笑顔を返している弘志に由美子はまた溜息をついた。
「ねえ、王子」
恵美子は頭を傾げて彼女を廊下にさそった。
「あによ」
もう別のことに興味が沸いたのか、大テーブルで頭を寄せ合って何やら話し始めた男子どもは放って置いて、彼女は恵美子に続いて廊下に出た。
こんな時だから通行人は一人もいなかった。
「王子、本当にいいの? 中学生に郷見くん譲っちゃうの?」
「譲るも何も」
由美子は牙を剥いてみせた。
「もとからそんな関係じゃないもの」
「ほんと〜?」
ドコを勘違いしたのか、恵美子は由美子と弘志の二人がつきあうべきだと考えているのだ。もちろん常識人の由美子に騒動屋の弘志は願い下げであった。
「コジロー!」
「あ、怒ったおこった。じゃあね〜」
恵美子は彼女から逃げるように廊下を駆け出した。その背中を見送って由美子はさらに溜息をついた。