九十二回目『希望なんて』
今から二十年程前。
まだファーレント王国領土内で、まだ奴隷売買が頻繁に行われていた頃。
茶色の髪を持つ一人の少女が、首輪を鎖で繋がれて同じような者たちと一緒に馬車に揺られていた。
中には獣の耳を持つ獣人の姿も見える。少女は何気なしに木の床を見ていた。
ここにいるほとんどが子どもだが、泣きわめく者などいやしない。そんなことをしたら酷いことをされるとわかっているからだ。
みな、生気の抜けた表情をしている。
かの少女も例外ではない。希望なんて無い。誰かが助けに来てくれるかもなんて願いは、とうの昔に捨て去った。希望を抱くだけ辛くなるだけだと思っていたから。
なぜなら、ずっと「絶対に助けが来るからね」とこの最悪な状況下でも笑顔を絶やさずに手を握ってくれた、同い年くらいの亜人の少女が目の前で見せしめとして殺されたのだ。
後から知ったことだが、どうやら彼女は病気持ちで長くなく、売り物にはできないと判断されて“有効活用”されたらしい。
少女たち奴隷たちの目の前で、奴隷商に弄ばれ蹂躙された挙げ句、鞭で叩かれ続けて息絶えた。
胸の奥から沸き上がる憤りを感じて、今にも奴隷商に飛び付こうとした時、彼女は手を掴んでいつもの優しい微笑みのまま首を横に振った。
それは、痛め付けられているとは思えないほど、穏やかな表情だった。
少女は彼女と一つの約束をしていた。
「――もし誰かに助けてもらったら、その人に精一杯の恩返しをしよう」
「うん、そうだね」
答えた時はありえないと決めつけていたこともあり、どうでも良いように返した。
そう、彼女が死ぬ間際まで希望を捨てなかった姿を見て、少女は誓った。必ず生き残り、彼女が果たせなかったことを自分がやるのだと。
だが、ろくな食事も与えてもらえず、馬車で揺られる日々。何もしなくても体力は勝手に減っていった。
その間にも一人、また一人と主人が見つかり連れていかれる。いつ自分の番が来るのかなんて考えていた。
誓ったはずなのに、少女の覚悟なんて弱いもので、全てがどうでもよくなり、諦めかけていた――その時だった。
「なんだお前たちは!?」
奴隷商の怒号と共に馬車が止まる。直後、誰ともつかない男の叫び声が聞こえたかと思ったら次の瞬間には静寂が辺りを包んだ。
が、静寂は長くは続かず、外から複数人の声がした。男性だけではなく女性の声もする。
「この中です」
「お前を辺りを警戒しろ、ここは俺がやる」
「了解。こっちは任せな」
扉がガチャリ、キーと木造独特の音を出しながら開いた。そこには見知らぬ男性が中を覗き込んでいた。隣には女性もいる。
どちらも少女たちを見るなり、悲しそうな、そして安堵したような表情をした。
だからと言って少女たちは気を許す訳ではない。こういう顔をして、平気で奴隷商をやっている者も少なくない。
案の定、少女たちは訳もわからない現状に、怯えきって固まってしまっていた。
中にも泣き出しそうな子もいた。
すると、男性はそんな少女たちの心を見透かしたように苦笑した。
「怖い思いをしただろ。もう大丈夫だ。俺たちは、君たちみんなを助けに来たんだ。すぐに信じろとは言わない。ただ今は、手荒だがここから離れることを優先する」
男性が落ち着いた口調で説明していると、外から別の男性の少し低めの声が聞こえた。
「急いだ方が良さそうだ、何人かこっちに近づいてくるぞ」
「案外早かったな……。仕方ない、強行手段に出るか。みんな、お互いに手を握りあって。安全な場所まで転移するよ」
そう言って男性は扉から身を引いた。代わりに女性が中に入ってきて、扉に一番近い子の手を握った。
「みんな、ちゃんと掴んだ?」
訳もわからないし、信用したわけではないが、他に方法も無いのでみんなは言われた通りに手を握り合う。お互いの肌の冷たさ、握る手の力の無さ、触った時の指の細さを感じながら、心が張り裂けそうになりながらもしっかりと掴んだ。
半ばやけくそみたいだったのかもしれない。
天使でも悪魔でも、この状況から脱せられるならなんて、考えてしまっていたのだ。
それほどまでに、少女たちは追い詰められていた。
「よし。じゃあ、行くよ……瞬間転移!」
女性はみんなが手をちゃんと握り合ったのを確認すると、笑顔でこう言った。
すると、女性の首もとにあった宝石のついたネックレスが光り、少女たちを包んだ。と思った次の瞬間には、女性を含めた奴隷たちは姿を消した。
文字通り“転移”したのだ。男性たちが言う、安全な場所とやらに。
男性は残された者がいないかと、念のため馬車の中を確認すると、驚いたことに本当に一人残っていた。
そう、あの少女だ。
目の前で希望をくれた人を失った、あの弱き少女だ。
転移寸前まで隣の子の手を握っていたのだが、直前で振り払ったのだ。幸い、女性は両手で奴隷たちの手を握っていたため、自ら手を離した少女のみが残る形となった。
俯いていた少女は顔を上げ、男性にこう告げた。
「わたしも……たたかう」
「……」
男性は迷った。こんな幼い少女を戦わせるわけにはなどと言う考えもあった。が、何よりも男性の判断を鈍らせたのは少女の“瞳”だ。
彼には見覚えがあった。戦場に赴く、死ぬ覚悟をした騎士のそれと同じなのだ。いや、正しくは生に執着が無くなってしまっている、と言うべきなのだろう。
こんな少女のどこにそんな覚悟を宿せるのだろうか。どのような環境が、この幼き少女をそこまで追い詰めたのだろう。
――ここでこの子を戦わせたら、恐らく最後は自分で命を……。
少女に戦えるほどの能力があるかないかは定かではないが、結末は予測できた。それには確信に近いものがあった。
「良いだろう。だが、条件がある。――誰であろうと殺すな。それが守れるのであれば、戦わせてやろう」
だが、彼が出した答えは、戦うことを望んだ少女でさえ予測していないものだった。
殺さずに敵を倒せ、と言う条件。
彼が考え抜いた末に出した答え。ここで手を汚してしまったら、二度と戻れなくなる。
そう判断した結果だった。
少女としては誤算だったが、戦えるのならと妥協した。
「……わかりました。その条件で戦います」
わがままを言って、ここで殺されては困ると判断したからもある。
だが何より、少女の目をまっすぐに見る男性の瞳が、綺麗だと思ったからだ。
少女は、その時初めて人の瞳を見た。
あの子が話しかけてきた時も俯いていてばかりで、顔なんて口元までしか見ていなかった。ましてや目なんてまともに見たことなんて、最後のあの時に辛うじて程度だ。
だから、条件を了承した。
「よし。……そう言えば、名乗っていなかったな」
話ながら空中の何も無い空間から短めな剣を取り出して、微笑みながら少女に差し出した。
「アルフェンベルト・ユーレ・ファーレント。この国の王だ。だからって畏まる必要はない。気軽にアルフとでも読んでくれ。こんな場所では階級なんて関係ない。ただ生きるか死ぬかだ。だが、君は助けると言った以上、俺が守る」
「え……おう、さま……?」
衝撃的な発言に驚く少女をよそに、男性、もといアルフは話を続けた。
「さて、俺は名乗った。君の名前を聞きたいのだが?」
どこか子どもっぽい表情を浮かべ、少女に問いかけた。
それに心のどこかで温かいものを感じて、自然と口角が上がっていたことを気づかなかった。
アルフは気づいてたが、あえて口にはしなかった。代わりに満面の笑みへと表情を変えた。
「わたしの、なまえは……」
名前なんて無いと言おうとし、ここまで口にして記憶の奥底にあったものが呼び覚まされる。
「――名前が無いの? なら、私がつけてあげるよ。そうだなー」
「え、いいよ。どうせ、呼ばれることなんて無いんだから……」
「ダメだよ。女の子なんだから、お嫁に行った時に名前が無いと不便だよっ。んーと……ミルダ、ミルダなんてどう?」
「ミルダ……うん。良いと思う」
「じゃあ、今日からあなたはミルダね。あと私の名前をあげる。大切にしてね」
「……ミルダ……。ありがと……」
「どういたしまして。これからもよろしくね、ミルダ――」
――あの子につけてもらった名前。そうだ。それが私の名前なんだ。
ふと視界がぼやけた。
だが、これだけは言わなければと、しっかりと自分の名前を言った。
「私の名前は――ミルダ。ミルダ・カルネイドです」
「そうか。君があの子の……。よし、行くぞミルダよ!」
「はい!」
――それからアルフに付き添う形で、向かってくる敵を倒していった。約束通り、決して敵を殺さずに気絶させていく。
アルフが主に戦っていたのだが、ミルダは大の大人相手にも引けを取らない戦闘力で圧倒していた。
彼は少女の戦い方を見ながら思った。良くも悪くも、この少女は“殺しの才能”があると。
訓練して身に付くものではないと、彼は感覚で理解していた。
そして、ミルダの視界に一人の人物が入り込んだ。一時も忘れたことの無い、憎きあの子の仇き。
頭の中が一瞬だけ真っ白になる。次にやって来たのは、怒りと憎しみ。
「お前さえ、お前さえいなければぁ!!!」
「な、なんて貴様が生きてるんだ!? やめっ、やめろ、命だけはぁああぁぁぁ!!」
足を斬り、動けなくする。痛みに耐えきれず膝をつく。その隙をついて体に無数に斬り傷を増やす。
憎悪に飲まれていたと言えばそうだろう。
だが、矛盾しているかもしれないが、同時に無心でもあったのだ。いや、冷静だったと言うべきか。
教えられたことも無いのに、どこをどう斬れば死なないか、苦しめられるかが理解していた。
「そうやって助けを求めるあの子にっ、お前はっ――」
全身から血を流し、痛みにうずくまる奴隷商に、最後に一撃を食らわそうとした時。剣は動きを止めた。
「そこまでだ」
剣から血が滴るのが見えた。うずくまる奴隷商のものだけではない。
剣を止めるために、自らの手を犠牲にしているアルフのものも含まれていた。
ミルダは、何とも言えない恐怖と申し訳なさに襲われて、剣からパッと手を離した。
「大丈夫だ。もう、戦わなくて良い」
これが人の温もりなんだ、と当たり前のことのはずなのにそれを感じられることが嬉しくて、涙が止めどなく溢れ出た。
――やがて月日が流れ、成長したミルダは王妃のお側使い兼メイド長として仕事をこなしていた。
同時に王国でも知っている者は数少ないが、暗殺者としても行動していた。通称――王の影と呼ばれ、周辺諸国を始めとし、盗賊や奴隷商たちをも畏怖させた。
そして国王と王妃の間に一人娘が産まれた。
名を――ミーシャ。ミーシャ・ユーレ・ファーレント。
この子こそが、自分の運命を大きく変えることになるのを、ミルダはまだ知らなかった。