百四十六回目『本当の想い』
目的地に転移した少年たちは、言葉を失った。
大きめの石に背中を預けて地面に腰かける見慣れた姿。大地を染めるかの如く、全身の至るところから血を流すレイディアがいたのだ。
レイディアならば返り血もあり得たが、ミカヅキたちにはわかった。紛れもなく彼本人の血だ。
ミーシャに至っては口元を両手で押さえた。無理もない、言葉は出ずとも代わりに叫んでしまいそうなのだ。あまりにも悲惨な姿に驚愕しない者はいるまい。
「僕たちがセリスと戦っている時、戦争を回避するため、被害を出さないため、レイディアは……」
泣きそうになる少年はそれでも言葉を紡ぐ。
「世界の時間を止めていたんだ」
「そんなっ、そんなことをしたらっ!」
「数メートルなら耐えられるくらいの反動だけど、僕たちの戦いが終わるまで世界を丸ごとなんて――。でも、それがなければ戦いに集中できなかった。…………ありがとう、レイディア」
真剣な眼差しで、世界を守った少年は感謝を告げる。端から見れば薄情な光景かもしれない。だが、口元を、瞳を、よく見ればわかる。
「……っ……」
時間操作がレイディアの〈特有魔法〉。強力無比のその能力で彼は各国に名を轟かせた。しかし、下手に使えば文字通りその身を滅ぼすほどの力。上手く調節し、塩梅を見定めて使いこなしていたからこその名声。
「また……助けられちゃったよ」
空間と時間は、世界の修正力。つまり、もとに戻ろうとする力の影響を受ける。ミカヅキたちがセリスとの戦いの時間を稼ぐため、レイディアは世界そのものに抗ったのだ。
動き出した時間は、止まっていた時間の分だけ修正力が働く。その間に止まっていなかった者に――。
「……ぁ……ぉ…………」
シルフィがその存在を確かめるように、何かを掴むように手を前に伸ばしながら、一歩、また一歩と、今すぐにでも膝から崩れ落ちてもおかしくないような足取りでレイディアへと歩み寄っていく。
見ている方が辛くなる少女の姿に、ミーシャは堪らずミカヅキをしがみつくように抱きしめる。抱きしめられた側の少年は当然照れや歓びの感情はなく、彼とて叶うなら目を覆いたかった。
それほどまでに歩む少女の姿は、外傷など全く無いと言うのに痛々しかった。
だが少年は決して目を背けない。なぜなら彼は理解していた――否。理解していったからだ。世界の記録が、ミカヅキの記憶へと昇華される。
レイディアがこれまで、この世界でいったい何をして、何を経験して、何を選択したのかを――。
そしてやがて少年は悟る。これが世界から恐れられるほどの人物、レイディア・D・オーディンの――最期の姿なのだと。
もしミカヅキ一人だったら、込み上げる感情のままに咆哮にも似た声を上げていたことだろう。今にも必死に口をつぐんでいなければ飛び出してしまいそうだ。
故にミカヅキは抱きつくミーシャにこう言った。
「ミーシャ……僕もいるから、だから……」
「……うん」
震える言葉で思いは伝わり、ミーシャはこくんと頷いた。
少しでも互いの気持ちを和らげるために二人は手を繋いで、行く末を見届けることを選んだ。
それが、それこそが、レイディアが言った“勝者としての責務”だと思ったから。彼らはもう目を背けたりしなかった。
――ゆっくりと歩んだシルフィは時間をかけてようやくレイディアの前にたどり着いた。
地面を踏みしめる音が聞こえたのか、耳が微かに動いたようだ。そしてすぐに見間違いではないと証明される。
「……ったく、ミカヅキめ、余計なことを……しよって」
辛うじて言葉として認識できる程度の声でレイディアは悪態をつく。
初めて目の当たりにする、兄と慕う人物の弱々しい姿を前に、シルフィは今にも泣きそうな顔をしていた。
「……お兄さま」
「無様な姿を、見られたくないと思うのは……私もまだまだだよなぁ」
――何も見えない。それは瞼の有無などもはや関係ない。
――何も感じない。痛みで感覚が麻痺しているのではない。
――何も匂わない。強烈な匂いを嗅ぎ、他の追随を許さないわけではない。
――何の味わいも得られない。舌が味を忘れたわけではない。
青年に残された五感は今や聴覚だけ。許されたのは言葉を交わすことだけ。終わりを待つ生きた屍にも等しいレイディアは己への皮肉を口にした。
「どうして……どうしてですか。どうしてお兄さまは」
絞り出した皮肉は無視してシルフィは問いかける。もちろんレイディアが認める人物である彼女は理由など充分すぎるほど理解していた。だが訊かずにはいられなかった。確かめずにはいられなかった。
目の前で石に腰かける傷だらけのその姿をどうしても認めたくなかった、勝手に去ろうとするのを許したくなかった。
――ずっと一緒にいる。
そう微笑みと共に交わしたあの約束を破る気なのかと、問わずにはいられなかったのだ。
「わかっているだろう……。この世界を守るために、お主らを……いや、お主のために結果を良い方向へと導いただけのことよ。お主はどうやら勘違いしているようだからな、ここではっきりと宣言しよう」
もう何も捉えることのない目を自身を見下ろすシルフィに向けてレイディアは文字通り宣言した。
「私が愛したのは――シルフィ、お主だ」
ずっとソフィだけを見ていると、想っているのだと諦めていた。この胸に秘めた気持ちは叶わないと。でも、たった一言で思考が停止し、世界の時が止まったかのような感覚に襲われる。
それは数秒の間に渡って続き、後にやって来たのは感極まる、まさにその言葉の通りだった。込み上げ、溢れ出るものを止める術は知っている。なのに今は、何故か止めようとはせずに身を任せた。
だが、同時に考えてしまう。本当に自分で良いのか……と。
――嬉しい……でも……。
彼女の中には二つの感情。言葉にして選ばれた喜びと姉への罪悪感。
――レイディアから語られた真実。一人の幼い少女にとって、シルフィにとっては大きすぎる愛。
ソフィとシルフィの二人が危険に陥った時、レイディアにはシルフィを優先すると、そうせざるを得ないように契約を行っていた。
あたかもレイディアはソフィを一番大事にしていて、人質ならばソフィを選ぶようにと。
彼女自身が望んだことで、レイディアは珍しく彼女の提案に反対の意を示した。
しかし、彼は結局、頭を縦に振った。
理由は簡単で、説得されたから。ただそれだけである。他国から恐れられ、味方からも距離を置かれるような彼でも、ソフィの覚悟を前に拒むことなどできはしなかった。
敵を倒すために敵になりながらも、やはり傷つけることは叶わなかった。シルフィだけは……。
「――嫌です」
「な……な?」
予想など到底していなかったあり得ない言葉にレイディアは驚きの表情を見せる。完全に意表を突かれた青年は経験したことの無い驚愕を体験する。
そんな困惑にも似た状態のレイディアに、シルフィは答え合わせをしてあげた。
「わたしはお兄さまが大好きです。誰にも、お姉さまにも負けないくらい大好きです。……でも、このまま去ってしまうならわたしは、お兄さまのことが大嫌いになります。絶対に、絶対に大嫌いです」
ミカヅキとミーシャですら唖然としてしまう光景が繰り広げられた。当然だ、あのレイディアですら思考が追いつくのでやっとだった。
それでも構わないとシルフィは言葉を続けた。
「わたしに黙ってふたりで勝手に契約していたことも許しません。怒ります」
「そ、それはだな……」
「大嫌いになってほしくないですか? 許してほしいですか? 怒られたくないですか?」
考える余地など与えないようにシルフィは畳み掛けた。薄れいく意識の中で、彼女が何を望んでいるかを察したレイディアは苦笑を浮かべる。――わかっているだろうに、無茶を言ってくれる。
「なら……約束を守ってください。お兄さまに残された選択肢はふたつだけです」
「ふっ……はははははっ」
「な、なにがおかしいんですかっ」
「悪い。やはり私は、お主のことが大好きなんだと思ってな。改めて実感したら笑いが込み上げてきたのさ」
突然の不意打ちに顔をボンと真っ赤にするシルフィ。レイディアは目で見えていなくてもその顔を確かに見ていた。してやったりの表情で口角を上げているのが証拠だ。
「ふぅー。じゃあやるべきことをやるとするか」
動かないはずの身体を、残りの魔力で無理やり動かして立ち上がる。そして、離れたところから見守っていたミカヅキとミーシャに手招きし、そばまで来てもらった。
近くまで来たのを確認すると、二人の頭の上に手を乗せる。
「血が付くのは我慢してくれ……と手短に済まそう。此度の戦で先陣を切り、他者に勇気を与え、最後まで戦い抜いた素晴らしき者たちを私は称賛する。辛く、苦しく、悲しく、痛かっただろう。それでも諦めずによく頑張った。お主たちは私の誇りだ」
初めて見る、穏やかで優しい微笑みと共に送られた言葉は、まだ幼さを感じる少年と少女の枷を簡単に破壊した。
「うっ……うぐっ……レイディアぁぁ」
「この……ぐすっ、卑怯者ぉ……」
「酷い言われようだな、そう思わないかシルフィ」
「お兄さまがずるいのは本当のことです」
同意を求めたのに、そっぽを向くシルフィに歩み寄って名を呼ぶ。
「シルフィ――」
「ッッッッ!!?!? おおお、おにいさまっ!?」
わがままな妹の頭を掴んでぐいっと自身の方を向かせるや否や、レイディアはお互いの額をコツンと添えるように当てた。
お互いの息がかかるほどの距離で、シルフィは顔どころか耳まで真っ赤になってしまう。
「私を大嫌いだと? 良い度胸だ。その言葉、恥として記憶に刻ませてやらねば気が済まん。――良かろう。やってやろうではないか。ずっと一緒にいてやるとも。故に、本当に私が必要になったら私の名を呼べ。いつ、何処であろうと私はシルフィの呼ぶ声に応える」
言い終えるとシルフィからスッと静かに離れる。
ミカヅキ、ミーシャ、シルフィ。これからの世界の未来を担う者たちに順番に視線を送り、再び微笑みを浮かべた。
そして三人に後ろを向くように指示し、自身も同じような後ろを向く。背中を向けたままレイディアは告げた。
「簡単に振り向くなよ? お主らは未来を担う者であり、この戦いを生き抜き、これからも生きていくのだから。……さてと。私は一番素晴らしかったからな、呼ばれるまでしばし休むとする」
「――っ」
ミカヅキが振り向きかけるのを、シルフィが制止する。
「さらばだ、我が誇りたちよ――」
そこまで聞こえた言葉を最後に、背後の気配が完全に消えた。
白い雲が漂う、高い高い空の下。
未来へと歩むミカヅキ、ミーシャ、そしてシルフィの頬を伝った滴はしっかりと大地へと刻まれ、歩むための掛け声は確かに空の先に届いたに違いない。
――こうして永遠に語り継がれる、世界『アルデ・ヴァラン』の歴史上最大の、世界を巻き込んだ戦争の幕は閉じた。
それでも、少年たちの舞台の幕は……まだ上がったばかりである。