百三十回目『選択の代償』
ミカヅキは呼吸を忘れ、殴り飛ばされて壁に叩きつけられたマリアンに恐る恐る顔を向けた。
「……っ!」
言葉にすることのできない衝撃が彼を襲う。こうもあっさりとやられてしまうものなのか、と。もし皇帝が本気を出せば、自分たちなんて一瞬で殺されるのだと思い知った。いや、思い知らされたのだ。
手が震えた。死ぬかもしれないと考えた途端、胸の奥から恐怖が込み上げてきた。
一年間も稽古して身体だけではなく精神も鍛えたと言うのに、いざ過酷な戦場に立てば少年はこの程度。
仲間を守ることもできずに、敵に向かっていくことすら叶わない。……足が動かなかった。
「結局、こうなってしまうのか。ならばもう良い、我自らが終わらせよう」
――違和感。それが恐怖の水底に沈みかけた少年の心を水面へと連れ戻す。きっかけは些細なことで、少年は自我を取り戻して思考を巡らし、一つの結論を導き出す。
正解でも不正解でもどちらでも構わない。これがもう一度立ち上がるための“きっかけ”にさえなればそれで良い。
「……二重人格」
一歩ずつゆっくりと彼らの方へと歩み寄っていた皇帝の足がまるで写真のようにピタリと止まった。
直感的な発言だったが、どうやら効果はありのようだ。ミカヅキは棍棒を造り出し、構えながら問いを投げかけた。
「どうしてマリアンさんにあんな酷いことをするんですか」
「酷い? 我は言ったはずだ、我を殺せと。命令の一つも果たせぬ者に対してのせめてもの慈悲であろう」
「それは傲慢でしょう!」
「我は皇帝ぞ。民が仰ぎ見るところに、理想を抱く先に我は在る。故に傲慢でなくしてなんとするか」
国の長である以上、中途半端な態度では民に示しがつかない。迷いばかりする王には誰もついていかない。それがレイヴンが出した答えだと言うのだ。
「貴様も奴と同じよ。抱くべき理想を見失った小僧が、我を言葉でどうにかできると考えたか。笑わせるなよ青二才が! 我を倒した後、帝国の民はどうなるのだろうな。貴様が民の全ての面倒を見るのか?」
「そ、それは……」
「所詮他者に全てを委ねることしかできぬ愚か者。そんな者の言葉で我が理想が揺らぐとでも思ったか。ならば叶わぬ夢を見ながらここで死ぬが良い」
背負っているもの。託されたもの。抱くもの。確かにそれら全てが少年よりも、皇帝の覚悟の方が磐石かもしれない。
何故ならレイヴンは“皇帝”なのだから。
たかが少年一人が喚いたところで、揺らぐはずが無いのだろう。
だが、皇帝の発言には前提条件として一つ誤りがある。そう、少年は決して――一人ではないのだから。
皇帝が一歩進んだ瞬間、何かを感じ取ったのか天井をさっと見上げた。眉間にしわを作り、後ろへ飛び退いた。その直後に天井が閃光と共に斬り開かれる。
「うっ――レイ!」
少年の表情が困惑から安堵へと変わる。誰かの姿を見るだけでこれだけ心から不安が消えていくのは滅多に無い。
レイ、ヴァスティが皇帝の造り出したとされる空間を破って入ってきたのだ。
光と影を身に纏うレイと、雷を帯び白き人狼のような姿のヴァスティらに少年は目を奪われる。
この時彼は気付かなかった。レイの姿がいつもと少し違うのを。普段の平和な日常ならば見抜いたかもしれない些細な変化を見逃してしまったのだ。それが何を意味するのかも当然知らずに。
「無事だったかミカヅキ!」
「まだ生きてるな。それでエインとマリア……ンは……?」
ヴァスティは棘に串刺しになっているエイン、次いで壁に叩きつけられた騎士王を見て言葉を失った。そして瞳を揺らし、滴を溜めながら怒りを込めた顔を皇帝に向けた。
「何してんだよ……。マリアンはあんたを信じてたのに、なんで……何でなんだよ!! 答えろっ、レイヴン!!!」
感情を止めることなく思い切りぶつけてくるヴァスティに対して、見下した表情を返してご丁寧に説明した。
「――用済みになった、それだけだ。我の命令も守れぬ役立たずを生かす理由などあるまい?」
「っ……。そうかよ。もっとまともな奴だと思ってたぜ。だけどな、もう許さねえ。マリアンの仇を取らせてもらう」
「我が分身を倒したのは褒めてやろう。だが、同じように我を倒せると思うなよ」
皇帝の力は確かに強大だ。分身、空間、武器など様々な魔法に魔力を使っているはずなのに、肌にピリピリと感じる感覚は弱まるどころかむしろ強まっている。
今の内にとレイはミカヅキに近寄った。ミーシャのことを尋ねられて、上でシルフィと待っていると返答した。下手に危険な場所に来る必要も無いからと。
ミーシャが無事だと聞いてミカヅキは胸を撫で下ろす。同時に苦い顔をした。『再生神』の力を使える彼女がいれば、手遅れかもしれないけど二人を治療できたかもしれないと考えてしまったからだ。
しかし、そこでハッとなる。
「レイ、お願いがあるんだ」
「何だ、参謀譲りの妙案でも思い付いたか?」
「そう……なのかな。間に合うかわからないけど、僕が二人を治す。だからその間、護衛してほしいんだ」
一瞬だけ驚いたと言わんばかりの表情を浮かべたが、すぐにニコッと笑顔を返した。
「……良いぜ、やってやるよ。俺がお前を守ってやる。その代わり、無理だと思ったらすぐに止める。これ以上……いや、まぁ無茶はするなよ」
「ありがとう」
王国の城で重傷だったミルダを助けた時のように、二人を助けようとしたのだ。
足を進めようとしたところで少年は気付く。――どちらか一方しか、助けられない。魔力は十分にある。だが時間が無かった。
あの力で同時に治すには二人の距離が遠い。
少年は選択に迫られる。
――エインか。
――マリアンか。
拳を強く握った。
「どうした、ミカヅキ?」
「ううん、何でもない……何でもないよ……」
少年は後ろ髪を引かれる思いで――壁に叩きつけられた騎士王のもとへと急いだ。自分の非力を噛み締め、心臓が締め付けられる感覚を押し殺して、彼は足を進めた。
ーーーーーーー
――ミカヅキたちと分断されたレイ、ヴァスティ、ミーシャ、シルフィの四人。理由は不明だが、皇帝の闇の分身は女子二人には見向きもしなかった。
油断するわけにはいかないが、おかげでレイとヴァスティは戦いに集中できた。念のためレイは光の範囲魔法を展開し、間接的に二人を見守りながら戦っていた。
いち早く合流をしたいのにいくら攻撃しても三体の分身は全く動じない。
速度は彼らの方が上であるに関わらず、分身を一体も倒せないのは圧倒的な物量の差、そして属性の相性と言えよう。
何より厄介なのは、分身の使う闇属性の魔法だ。全てを呑み込む黒一色の闇は、レイたちの操る光属性の魔法を無力化した。
「チッ、攻撃が全然効かねえ!」
「こちらの魔法を全部呑み込んでるのか」
ヴァスティが不機嫌さ全開で舌打ちをし、レイは状況を冷静に分析した。確かにレイにはヴァンから継承された影魔法があるのだが、二属性の魔法を同時に行使するのには魔力の消費が激しいため光属性を中心に戦っていた。
分身でこれだけの強さを持つのだから、本体は更に強いと考えていい。故にそれまで魔力を恩蔵しておきたかった。
だが、レイは「フッ」と鼻で笑いながら口角を上げた。
「――ヴァン、俺に力を貸してくれ」
俺はバカだな、と自分自身を笑ったのだ。横目でその光景を見ていたヴァスティには、頭がおかしくなってしまったのかと勘違いされる。
実際は自分が置かれている状況を落ち着いて判断したまでに過ぎない。全体のことに重きを置いて、目の前の事柄を見逃していた。
「ヴァスティ。俺はあんたをまだ完全に信用できてない。けど、あんたをミカヅキは信じれる。だからここは――俺がやる」
「なに言って……そうかい、好きにしな。援護くらいはしてやるよ」
それこそバカだと申し出を拒むつもりだったが、レイの馬鹿正直にまっすぐな瞳を見て渋々承諾した。
「作戦会議は終わったかね?」
「ええ、お待たせしました皇帝陛下……の分身の方々。失礼ながら、ここで消滅してもらいます!」
「ほお、言うではないか。やれるものならやってみるが良い!」
分身の一体がそう口にした直後、レイの宣言通り消滅した。あとに残ったのは先の見えない謎の切れ目とレイが剣を斬り上げる姿。
分身はレイが空中を斬った際に生じた切れ目に、口に啜られる麺のように吸い込まれたのだ。
「瞬光殺・閃天」
突然の意味不明な出来事にさすがの分身も驚きを隠せず、すかさずレイとの距離を取った。
更に驚いているのは彼らだけではない、今や味方となったヴァスティすら若干だが口を開けてしまっていた。何故なら――
「見えなかった……だと!?」
雷光の剣聖である彼ですら、視認することが叶わなかったのだ。その速さはまさに“光”。レイがついに光速に到達した瞬間だった。
「ついに父親を越えたか。だが……っ!」
皇帝の分身はふいに呟く。それは誰にも聞こえていないが、ヴァスティは同じ気持ちを抱いた。
対抗すべく分身の一体が距離を詰める。レイはちらりと見やり、魔方陣を分身の方へと形成、直後にそこから光の柱が伸びた。正確には光線でも放ったと言うべきだが、あまりにも一瞬のことで皆の認識が遅れた。
しかし、分身は予期していたのか身体を闇に変化させて光の柱の先端から呑み込んで術者であるレイに迫る。2秒と経たずして光の柱は呑み込まれて分身はレイのもとへとたどり着いた――かに見えたが、そこに彼の姿は既に無かった。
攻撃を仕掛けるべく、分身は上半身だけ人としての形を取り戻していた。が、それが仇となる。
「させん!!」
最大の隙を逃さずにレイは追撃しようとするも、もう一体の分身に阻まれる。相反する属性剣同士の鍔迫り合い――否。分身は相対することでようやく気付いた。レイの武器は剣ではない、形状が違う。これは刀だと。
刀は剣よりも連撃に優れた武器とされる。
それを活かし、レイは刀の向きを変えて剣を受け流して斬りかかろうとした。だが時間がかかってしまったせいで、光の柱に取り付いていた方の分身が背後から迫っていた。
「――反影身」
レイがおもむろに口を開くと、彼の身体から残像のようにもう一人のレイ・グランディールが現れた。ただ残像とは違うのが、本体は後ろにいて、前方の分身に斬りかかっていると言うこと。
レイはヴァンの特有魔法を受け継いでいる。つまり、ヴァンが使用していた魔法を行使することが可能なのだ。そう彼もまた、分身を造り出すことができた。故に、背後から迫るもう一体の分身に自分の影の分身をぶつけようと考えたわけだ。
光と影。その両方の特有魔法を操れる彼だからこそできる芸当だろう。
それでも皇帝の分身は攻撃をやめようとはしない。なぜなら後方に魔方陣を仕掛けて、時間差で自分もろともレイを消そうとしていたためだ。もし自分が倒されても、魔方陣から放たれる闇は全てを呑み込む。
逆を言えば、そこまでしてレイを倒すべきだと皇帝の分身が判断したことを意味する。
「貴様はここで――」
「俺は……こんなところで死ねないんだ」
レイの本体が前方の分身を斬りつけ、彼の影の分身が背後から不意打ちを仕掛けようとした分身と衝突した瞬間に闇の魔法は放たれた。
それは絵の具の黒色のように盤上のレイたちを呑み込み、玉座の間の壁に巨大な穴を生成した。
「フフ、フハハハハハハハハ。我の勝ちだな」
魔方陣がウニョウニョと蠢いたと思いきや、皇帝の姿へと変化した。もちろん本体ではなく分身ではあるが、皇帝のには間違いないわけで、特攻を仕掛けたと思わせたのである。
レイは何処にもおらず、勝利を確信した皇帝の分身は高笑いを上げたわけだ。
「次は貴様だ、ヴァス――ティ……?」
勝ち誇った表情の分身が床に降り立った瞬間に、その胸を何かが貫いた。それは影から伸びている。まさかと思った時には既に遅し、光が分身を包み込み眉のような形状となる。
「――光だって闇を消し去れるんだ」
影からスーと煙の如く音も立てずに姿を現して宣言する。
「俺は光と影を使える。闇だけのあなたには負けませんよ」
言い終わると同時に差し込んでいた刀を抜き去る。すると眉は次第に圧縮されて球体の形のなって小さくなっていき、やがて完全に消滅した。
「くっ……」
レイは力を使いすぎたのか、分身の消滅を確認するとその場に膝をついた。そんな見事な戦いをして見せた騎士団長に、ヴァスティは片手を差し出す。
ありがとう、と感謝を述べて手に掴まって立ち上がる。
「こうしちゃいられない。ミカヅキたちのところへ急がないと」
「だな。マリアンの野郎がやられるとは思わないが、あの小僧は弱いからな」
「そんなことはないぞ? あいつは今は強くないかも知れないが、必ず俺たちより強くなる。自信を持って言えるぜ」
フンと鼻で笑うヴァスティだったが、内心は同じ思いだった。それだけの可能性をあいつは秘めてると認めていた。
――二人は待機していたミーシャとシルフィのもとへと歩み寄り、無事を確認して首を傾げた。
「にしてもなぜ、分身はこのお姫様方を狙わなかったんだろうな? 小娘二人なんて格好の餌だろうに。一応警戒しておいたのが無駄になっちまった」
「失礼ねあなたっ。雷光の剣聖だが何だか知らないけど、私はあなたのこと許してないんだから!」
ミカヅキを傷つけた張本人に挑発まがいなことを言われてカッとなるお姫様。その光景を苦笑いを浮かべながら、確かにどうして狙われなかったのだろうかとレイは考えたがすぐに首を振った。
理由はあるかもしれないが、今はミカヅキたちのもとへ向かうことが最優先だと判断した。
「俺たちはミカヅキたちのところに行くが、二人にはここに残ってほしい」
「そうか、好きにしな」
「おい待て、俺とあんたが行くんだよ!」
少々コントを繰り広げて、会話を元に戻して続きを話した。ミーシャは完全に「何で私がミカヅキのとこへ行っちゃいけないの!」を言うタイミングを逃す。
「カクカクシカジカ」
「――なるほど。外でそんなことが起きてたとはな。で、団長たちがこっちに向かってるいると。二人には案内人になってほしいわけだ」
「解説ご苦労。まぁ、つまりはそう言うことだ。二人ともそれで良いか?」
「はい」
「えっ、即答! 私はミカヅキのところに……ああもうわかったわよ。でも条件があるわ。戻ってくるのが遅かったら私も行くから」
「ミーシャちゃん……」
「信じてる。信じてるけど、ただ待つだけなのはもう嫌なんだ。だから少しでも待ってあげるだけ感謝しなさいよね」
苦笑するシルフィにすらツンツンな態度を見せ、挙げ句レイには言い終わる前にそっぽを向く始末。
だが、レイはそんな態度をする姫様に対して苦笑ではなく普通の笑みを返した。成長したな、と年寄りみたく思ってしまったのだ。
騎士として礼儀正しく感謝の意を伝え、主たる姫君に背中を向けた。
――そしてレイは床を次元ごと斬り裂き、ヴァスティと共にミカヅキたちのもとへと駆けつけるのだった。
分身との攻防で消し飛ばされた左足を光で代用しているのを隠して……。