百九回目『ふざけるな!』
ヴァスティ、ドルグが撤退していた頃。
天帝の使いの一人、純粋なる水精――アクア・マリノスは自分が任された場所の敵の処理を終えていた。
バルフィリア団長にこの後はどうすれば良いか尋ねると、三分待てとのことだった。
とりあえず命令に従って周囲を警戒しながら待っていたが、三分が経過しようとしていたその時、近付いてくる者の気配に気付いた。
何者かを確認すべく視線を気配の方へ向けた途端、熱風がその身に吹き付けた。
本能的に危機を感じて、同じ方向に水の壁を作り出す。
水の壁越しにアクアはそれを目の当たりにすることとなる。
――火の鳥。または不死鳥と呼ばれる存在が翼を広げて自らの存在を誇示していた。
炎を纏う鳥の形をしたそれは、数度の羽ばたきを見せた後にアクア目掛けて突進してきた。なれば生物ではなく、魔法によって形作られたものだろうとアクアは分析する。
それが近付くにつれ、気温が上がっていくのがわかった。直撃でもした日には焼き鳥ならぬ、焼き人の完成だ。
無論、彼女はそんな珍料理の完成など望んでいない。
「水よ――噛みつくは水の牙」
鳥を待ち構えるは巨大な水でできた牙。その場に到達するや否や、牙は鳥に噛みついてかき消そうとした。が、炎の出力の方が圧倒的に上だったのだろう。水の牙は数秒の後に蒸発した。
だがそれはアクアの予想の範囲内。
水の牙が霧散した次に炎の鳥に迫るは四つの巨大な水の球。
単純な量では圧倒的に水の方が上である。さすがに物量で負けたか、今度は煙と共に炎は消え去った。
「あちゃー、あれじゃ無理だったかー」
煙の中から姿を現したのは、鳥を炎で形作った張本人。炎よりも赤く長い髪を頭の後ろで結んでおり、瞳はそんな髪の毛とは対照的なコバルトブルーだった。
そんな彼女はヴィストルティの副リーダー、リリカ。
アクアが体験したように、炎を操るとされている人物である。
「あなたが……敵」
「そうね。相手にとって不足なし。ワタシはリリカ。手合わせをお願いするわ、水精さん」
屈託のない笑みを浮かべてそう言いながらリリカは腰に携える剣を鞘から抜いた。
刹那、水が弾丸の如く彼女に迫る。
ふっと口角を上げると、アクアの水の壁を模したのか、炎の壁が作り出される。衝突する水の弾はジュウと音を立てながら蒸発した。
防御から攻撃への切り替えに時間は要さず、リリカは剣を自分の炎の壁もろとも横一閃で振り払う。
持ち手を変えてすぐに振り上げて、今度は剣に炎を纏わせる。
そのまま、ヒュン、と一瞬にして振り下ろされた。同時に剣から離れる炎は正面の空気すら燃やし、容赦なくアクアに迫っているかに思えた。
「――っ」
しかし予想に相反し、目標の姿は既に存在しなかった。消えたアクアを探し出すべく見回すリリカ。
何かを感じ取った彼女は本能に任せて後ろへ飛び退く。すると地面から水が無数の刺の形状で上空へと伸びた。
視線を右から左へと移すリリカ。
地面に剣を突き刺して声高らかに、
「炎覇・滅衝陣!」
彼女の足下に円形の魔方陣が浮かび上がり、赤く光った直後に火柱を先ほどの水の刺の如く上空へと立ち上る。
だが、それだけではなかった。
魔方陣の無い場所からも火柱が天高く昇ったのである。
「ふんっ――水精の僕」
不意を突いたとおぼしき攻撃だったが、残念ながらアクアには届いていなかったらしい。
更には反撃までされてしまう始末。
龍の見た目の水が空へと舞い上がり、降り注ぐ雨のように落下してきた。それらは的確に火柱と邂逅を果たし、お互いを対消滅させていった。
――強力な炎と、大量の水の衝突により、周囲は薄い霧に覆われていた。
視界が悪くなっていたが、戦う二人にはさして影響は無いようだ。
アクアは眉を潜める。
単純な実力は僅差ではあるが彼女の方が上。だと言うのに、リリカの傷は全くもって増える気配がない。それどころか傷がどこにも見当たらない。
詳しくはわからなくとも確実に何度か攻撃が命中した。だが傷なんて無いのだから認識が間違っていると判断せざるを得ない。
「わかった」
――否。原理に予想はついた。が、信じられない自分がいた。
何しろ、至った結論が驚異的な自己治癒能力なのだから。しかし事実、傷一つ無いのはおかしいわけだ。
少しくらい突発的な考えをしなければ置いていかれてしまうだろう。
「――」
リリカが目を細める。
どうやらアクアが気付きを見抜いたらしい。
相性が悪い水に対して互角並みに持ち込む彼女がかなりの実力者なのは充分に証明されている。
故にアクアも本気で戦うことを決める。
リリカも応えるべく剣を持ち直した――まさにその時だった。
「――そこまでだ」
両者の間に一つの人影が現れる。
「リーダー、どうしてここに?」
彼女がリーダーと呼ぶ人物は一人しかいない。
黒髪を男性にしては少し長めに伸ばす青年こそ、ヴィストルティのリーダー、ハクアである。
「邪魔をして悪いが、状況が変わった。一旦退くぞ」
「わかりました」
「させないっ」
命令するハクアや、それに従って撤退しようとするリリカを逃がすつもりはないアクアだったが一瞬にして気配が周囲から文字通り消失した。
彼女は水を操る性質上、体内の血液を感じ取ることができ、隠密魔法の意味を成さない。
だが、まるで最初からいなかったのではないかと疑ってしまうほど跡形もなく消えたのだ。
狐に化かされたような感覚に襲われるアクア。
しかしすぐに気を取り直して再びバルフィリアに指示を仰ぐと、好きにしろと返ってきた。
彼女にとって一番困る返答のため、具体的なものをと付け加える前に話は終わらされた。
どうしよう、としょんほりするアクア。
純粋なる水精の名に恥じない美しい見た目の女性である彼女は、ちょっとした動作ですら絵になる。
数分間悩んだ挙げ句、彼女は邪魔になるかもしれないととぼとぼと遠慮しながらも、その足は真っ直ぐ最後の天帝の使いの方へと進んでいた。
ーーーーーーー
撤退したリリカは、ハクアに状況確認も兼ねて理由を尋ねた。
「天帝の使いが予想外の動きをしてな、これから先は記憶とは違うことが起こると判断したんだ」
「他のみんなは、もう例の場所に集まっているのですか?」
「ああ……もちろんだ」
リリカは良くも悪くも幼い頃から察しが良い上に頭の回転が速い。だからこの時のハクアが少しだけ言い淀んだのも聞き逃さず、理由もすぐに見抜くのは造作もない、つまりは朝飯前なのだ。
「そうですか。この後は作戦はやはり……」
「私たち以外は撤退させる。これ以上の戦いに、あいつらは巻き込みたくない」
「お優しいですね」
「いいや、私は甘いだけだ」
前を走るハクアの背中を見る目は、単なる羨望や憧れのものではないことを彼はしっかりと気付いている。
たとえ想いを寄せられたとしても、彼が応えることは無いとリリカとて理解していた。故に声に出したい想いを胸に秘めた、この距離感を保つことを選んだのだ。
辛くとも、一緒にいることを彼女は望んだと言うことだ。
二人が向かうは、現状のように予想外の事態になった場合、即座に戦線を離脱して集合するようにヴィストルティのメンバーには伝えられていた場所。いや、この二人の場合は伝えていた場所が正しいだろう。
「恐らく聞きませんよ」
「だろうな。誰に似たのか、皆頑固だから」
「言っておきますけど、ワタシじゃありませんから」
「おいおい、何も言ってないぞー。リリカは早とちりする部分を似せた、と」
ハクアの言葉を顔を林檎みたく赤くして必死に否定するリリカ。
端から見たら二人はとても仲の良い親子のように見えることだろう。彼女はそれを全力で否定するが。
何を隠そう、ヴィストルティ内で二人を親子と表現してはいけないのは、暗黙の了解になっているくらいだ。
「まぁ、皆が言うことを聞かぬ時は任せたぞ」
「ええ、ワタシがですか!? まったく、もう……いっつもこんな役なんだから」
最後の方はゴニョゴニョとしてハクアは聞き取れなかったが何となくは予想できる。
それほど二人の関係は遠くはない。しかし同時に決して近くもないのだ。
絶妙な距離感の二人がリーダーと副リーダーをしているからこそ、ヴィストルティは組織として成り立っているのだとメンバーは時折口にする。
心の中では早くくっついちゃえよ、と思っているが……。
言葉として外に出そうものなら空気中を舞う灰になりかねないので絶対に言わない。――否、言えない。
照れるリリカに微笑みつつ、現状がかなりまずい方向へ進んでいることに胸騒ぎがしていた。
このままだとあの最悪の結果が再び起こってしまうのではと、後ろの少女にはバレないように一人危惧するのだった。
と考えるハクアだったが、どうしても確かめたいことがあった。
「……リリカ」
やがて足を止めるハクア。名前を呼ばれたリリカは「はい」と返事をして次の言葉を待った。
「悪いが、ちょっと寄り道してから行く。皆のこと、頼んだ」
振り返って微笑みを浮かべ、自分より背の低い少女の頭をポンポンとして今度は彼が返事を待った。
「……ずるいです。あなたはずるいです。そんな表情されたらワタシが断れないって知ってるくせに」
「すまんな」
青年は瞳をうるうるさせ、今にも泣きそうな少女に謝罪する。
ずるいことなど承知の上だ。あとで怒られる覚悟だって出来ている。
たとえビンタされようと、彼の意志が揺らぐことは無いだろう。
彼女もそれを痛いくらいに理解しているからこそ、自分が一番望んではいないが、相手が一番望んでいる答えを口にする。
「――任せて。いってらっしゃい。必ず帰ってくること。あと約束だよ。ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます。……遠慮なんてしないんだから」
「こりゃ、絶対に帰らなくてはな。――行ってくる」
見送る背中に無意識の内に片手を伸ばす。
――行ってほしくない。本当はこのまま一緒に皆のもとに戻って、皆と一緒に家に帰りたい。あの穏やかな日々を過ごしたい。いつまでも、ずっと笑っていたい。
考えれば考えるほど溢れ出る右手を、左手で押し止める。
――それはヴィストルティとして戦うことを決めた日に聞いた真実。聞きたくなかった現実。知りたくなかった想い。
語られたものはあまりにも残酷で、あまりにも人間らしく、ハクアらしかった。だから横槍なんて入れられなくて、入れたくなくて、邪魔なんてできない、したくないって我慢することを選んだのに、少女の頬を伝うものがあった。
「うわああぁぁぁぁぁあああん」
恥も何も関係ない。彼女は込み上げる感情に身を委ねた。
誰が彼女に泣くなと言えようか。耐えろと言えようか。叶わぬ恋をした少女が悪いのか――そんなことは無いと人であれば否定しよう。
なぜなら、人として当然の生き方なのだから。
だからこそ、リリカは人として涙する。
どれだけ心の準備をしていても、どれだけ覚悟をしていたとしても、耐えられないものもあるのだ。
――彼女の声はハクアの耳にも確かに届いていた。しかしここで足を止めるほど彼は愚か者にはなりたくなかった。
自分の感情を押し殺して、背中を見送ってくれたリリカの想いを踏みにじる訳にはいかないのだ。
心臓の辺りの鋭い痛みに片手を当て、彼は前を見て進み続けた。
行くべき場所へ、とある人物のもとへと。
声が届かなくなっても足を止めることはせずに、“確かめる”。ただ一心に目的地へと向かった。
「ふっ……」
予想より目的の人物を見つけて思わず笑ってしまう。
残るは一つの問いのみ。その答えを聞いて、これからを決めよう。
辿り着いた目的地の名は――レイディア・D・オーディン。
彼もまた、決着をつけるべく歩みを進めていた最中だった。だが当の本人にどれだけ大きな目的があろうと今のハクアには関係のないこと。
レイディアも前に立ちはだかった人物が誰なのかすぐに理解した。
「貴様がここにいるとは意外だな。何の用だ、と問いかけるのは愚問かね?」
その表情に以前、騎士王マリアンと共に相対したレイディアの面影は無かった。例えるならば……生きた屍だろうか。
希望を一切感じさせない、全てを失ったと言わんばかりの絶望すら超えた者が、目の前に立っていた。
レイディアはハクアの目的が何なのか、既に結論が出ているのだろう。でなければあのような言い回しはするまい。
しかしハクアは正直な感想を述べると、答えは得ているのも道理だった。
見覚えがあったのだ。その表情に、全てが自らの手から零れ落ちてしまった者を、彼は知っていた。
そう――かつてのハクア自身だ。
全てを失い、独りになり、一度は感情を捨てた成れの果て。
だが彼は選んだ。再び立ち上がることを。それでもと足掻くことを。情けないとしても、みっともないとしても、彼は希望に向かって進むことを選んだのだ。
故にハクアは問う。
答えのわかりきったことを、かつての自分に問いかける。
「――守れなかったのか?」
「ああ……貴様と同じだ。私も、守ることができなかったよ」
足音が鳴る勢いでハクアはレイディアに近寄り、拳を握りしめて――思い切り殴った。
「ふざけるな! 貴様は世界から恐れられるレイディア……レイディア・D・オーディンだ!! その名を名乗った以上、貴様に敗北は許されない。相手が何であろうと、負けることは私が許さない!」
力なく殴られた反動で転げるレイディアの胸ぐらを掴む。
「くっ、ふざけるわけないだろ。私ならこの結果を変えられた。失わずに済んだんだ。なのに……なのに現実はこうだ。これ以上、私に何を求めるんだ?」
怒りを露にするハクアに対して、哀れな自分を自嘲するレイディア。
一人の少女の喪失が、彼の心をへし折った。
彼は思う。――覚悟はしていたはずだ、と。
「それこそ愚問だ。貴様に求めるは勝利のみだ。貴様は私のように全てを失った訳じゃない。まだ希望は残されている。ただ目を背けているだけで、しっかりと見ようとすれば、見つけられる」
ハクアはそう言い正面を、レイディアからすれば後ろの方へと視線を移した。
「はっ、笑わせるな。私はもうソフィの命令に従わなくても良い」
「だが、約束は守る、だろ? この私に隠し事など、できるはずが無かろうよ、レイディア・D・オーディン」
肩をポンと軽く叩いてから、去ろうとするハクア。
言い残しがあった。と振り返る。
「今度こそ守り抜け。お主は、“成れの果て”のようになるなよ」
「……まさかハクアなんぞに鼓舞されるとはな。それに言わせてもらうがハクアよ。お主こそ、まだあるだろうが――守るべきものがな」
確認をしてくるハクアに向かって悪態つき、ふんっと鼻で笑ってやるレイディア。
「ではな、勝てよ、レイディア」
「そっちこそ、負けるなよ、ハクア」
今度こそ立ち去ったハクア。
見送る側になるのはやはり合わないなと感じるレイディア。その表情はどことなく光を取り戻したように見える。
そんな時、足音と息切れが彼の耳に届く。
魔力で誰なのかすぐにわかった。
目を閉じて確認する。
――約束は守るから、安心しなソフィ。
そして心配をかけまいと微笑みながら振り返る。バレるんだろうなと内心ため息をつきつつだったが……。
「はーっ、お、お兄さま!」
「ごふっ」
振り返るのとほぼ同時。突進と平行で抱き付くと言う素晴らしい身のこなしを私にしてくる人物は今やこの世界で一人だけだ。
「おお、シルエットじゃないか。……冗談だ。シルフィ、良く来たな」
冗談を言った途端、凄い目で見られるものだから思わず訂正するレイディア。その腕の中には、守るべき大切な人がいた。
ソフィに託された最期の約束。
――シルフィを守ってあげて。
守るつもりだった。そのはずなのに、やはり私は弱い人間なのだろう。とレイディアは心の中で呟く。
「シルフィ。もしかして、私と一緒に行く気か?」
「ちょっと待って。今はちゃーじしてるから」
「チャージ? そんな言葉何処で覚えたんだ?」
「ミーシャさんが言ってましたよ。いつもミカヅキでちゃーじしてるって」
ますます戦争をさっさと終わらせなければと決意するレイディア。
シルフィのチャージを暫し待ち、終わったのか顔を上げてきた。
不覚にもドキッとしてしまったのはバレないように頑張った。
目を反らした時点でシルフィにはバレバレだが、本人はしてやったりの気分なのがまた面白いのかもしれない。
「先ほどの答えですが、わたしもご一緒いたします。お兄さまといた方が、お姉さまとの約束も守りやすいはずです」
「うーむ。あの村がこの世界では一番安全だと思うんだが……」
「お兄さまのお傍が一番です。なので、早く終わらせて帰りましょう」
シルフィは恐らく気付いている。お姉さまこと、ソフィ・エルティア・ファーレンブルクの死を。
それでも私を兄と慕ってくれるのか、と目頭が熱くなるレイディア。
骨抜きみたく彼をこんな状態にいとも簡単にしてしまうのは、彼女ら姉妹だけだろう。
「さぁ、行こうか、シルフィ」
「はい、お兄さま!」
陽だまりを連想させる屈託のない温かい微笑みは、傷を負うレイディアの心を少しだけ癒した。
だからお返しに彼も微笑み返す。
やはり彼は――。本人は決して、まだ言葉にはしないだろう。
かくして二人一緒に目指すは最後の天帝の使い、騎士王――マリアン・K・イグルスのもとだった。