九十八回目『三人目』
イリーナとの戦いを制したレイディア。
彼女の怪我を治し、その場を後にしようとして振り返ると、そこには見覚えのある人物が立っていた。
「お久しぶりです」
白と対を成す色である黒に染まる髪を短く切り揃え、髪よりも深い漆黒の瞳の少年。右目を眼帯で覆っている。
レイディアが振り返るや否や、この世界には存在しない言語で再会を喜んだ。
「再びお会いできて光栄です。――じゃなくて今は、レイディア・オーディンと名乗っていましたね。ちなみに僕はカケル・アルティメットです」
「ふっ、馴れ馴れしい奴め」
笑顔の少年、もといカケルに対して、レイディアは不機嫌さを全面に出していた。顔をしかめられようとカケルは気にせず話を続ける。
「にしても、僕がここにいることはあまり驚かないんですね」
「神王国に私が。王国にも一人転移してきた。帝国が違う道理とは思えまい」
実際、他に転移してきた者がいないかと探し、色んな予測をしてきたレイディアには愚問とも言えよう。
つまりカケルは、レイディア、ミカヅキに続く、三人目の“異世界人”なのだ。
名前はどうかしてる、とさりげなく馬鹿にしたが。
「僕はあなたにお尋ねしたいことがあります。僕は……いいえ、僕たちはどうしてこの世界に来てしまったのでしょうか?」
「さぁな、気にしても仕方あるまい。今の貴様にわからないことを、私が解明できるとでも?」
今度は完全に馬鹿にするような態度で上から目線で答えるレイディア。
イリーナとの戦いで予想以上に時間を使ってしまい、先を急がねばならないのに、お相手は長々と話す気満々と来た。
たとえ知り合いでも面倒に感じてしまうのも頷ける。レイディアであればほとんどの相手に遠慮なんてしないだろうし。
「……。では、僕たちは何をすべきなのでしょうか?」
変なことを訊いてくるな、と言うのが真っ先に思い浮かんだ。
「知らんな。貴様のことだ、貴様自身で探して選ぶんだな」
「なら僕と戦って下さい」
付き合ってられないと言い残し立ち去ろうとしたが、なおもカケルは諦めずに背中に話しかける。
「いいえ、あなたは僕と戦うことを選択します。なぜなら僕は――」
「ソフィを捕らえたとでも? 随分と甘く見られたもんだ。貴様の策略程度で――」
「残念ながら神王国国王ではありません。国王の妹君――シルフィ様です」
レイディアはついに足を止めた。
知れるはずがない情報を知っていたからである。
ソフィに妹がいる、と言うのは国民すら知り得ないことで、存在すると言うだけなら憶測でも何とかなる。
だが少年は違った。憶測だけで何とかならない、名前まで言い当てた。
ゆっくりと振り返り、レイディアはカケルの目を見た。
「永遠に愚問のまま。それが貴様の特有魔法だったか」
「さすがは、既にご存じとは。団長と師匠にしか明かしていないのに。ではどんな魔法かもご存じですよね。なのに正面から僕の目を見るなんて、普通なら考えられませんよ」
『永遠に愚問のまま』――目で見たあらゆる事象を解析、分析、見抜き、理解する魔法。それはつまり事象の全てを知るに等しく、これを利用し弱点を突き、対象の崩壊を行う、または促すことも可能。
カケルはもといた世界での出来事で、本人にそのつもりは無かったレイディアに助けられたことがあるのだ。命の恩人だと頭を下げたが、当時人付き合いが嫌いだった彼には背中を向けられた。
そう、今と同じように。
カケル自身、卑怯な手は使いたくなかった。しかし相手が相手だけに、何の策を練らずに目的を達成できるほど甘くない。
ならばと強行手段に出たのだ。
そして彼はぶっきらぼうで愛想が悪いが、根は真面目で良くも悪くも真っ直ぐな人物である。
それ故に今回の一件の罪への罰として、右目をナイフで刺したのだった。
激痛を自分で自分に味わわせた。
覚悟を抱いて接しなければならない相手だとわかっていたから。そこまでしても駄目なら、もう――。
「誰の口車に乗せられたかは知らんが、私は――」
取れる選択は一つ。非人道的と非難されようと、無理やり戦闘に持ち込む。
「僕はもう選択したんです。恩人であるあなたと戦い、勝利することで答えを得られると」
「私は言ったはずだ、それは違うと。偶然貴様が助かる結果になっただけだとな」
両手に長い剣と短い剣のそれぞれを持っている。
レイディアはその彼の攻撃を魔力を込めた指二本で容易に止めた。
自身への攻撃ならば避ければ良い話だが、カケルの狙いはレイディアではなかった。彼の後ろで意識を失っているイリーナを狙ったのだ。
避けたりすればイリーナ、ではなくカケルが死ぬことを理解していたが故に、レイディアは防ぐことを選んだ。
どうやらカケルもレイディアの胸中を察したらしい。嬉しそうに口角を上げた。
「本当に防ぐんですね。情報が少ない僕の方が反撃されて死ぬことを理解しているとは、さすがとしか言いようがありません。ですがこれであなたの弱点が理解できました」
「堕ちるとこまで堕ちたようだな、カケル。残念だよ」
「その通りです。僕はもう、昔の僕とは違うんです、変わったんですよ。信念を持って行動していますから。世界を救う信念を」
舞台は整った。これでレイディアはカケルと戦わざるを得ない。
左右違う長さの剣によって、適切な間合いを判断しづらくしているらしいが、レイディアには小細工は通用しない。が、彼は確実に追い詰められていた。
行動の先読みの先。
攻撃に転ずる隙を与えられず、カケルは次々と連撃を繰り出す。
あのレイディアが一歩、また一歩と後退りし始めた。
「これが、分析ねぇ……厄介だな」
「正直に言って凄いですね。どれだけのパターンがあるんですか。普通ならもう終わっているはずなのに。僕がこんなに手こずるなんて、驚きですよ!」
レイディアが未だに持ちこたえていることに歓喜し興奮気味に吠えた。
一つ一つの動きを分析し、見事に弱点を突くカケルだったが、次の新たな一手が攻撃を邪魔される。まさにそれの繰り返しだった。
決まったものに少し手を加えて、若干の違いを演じる程度なら一般的な騎士でも可能だ。しかしレイディアの対応方法は一線をかくすもので全くの別物だった。
手数の桁が段違いなのだ。次々と分析するカケルに、次々と新たな手で対応するレイディア。
レイディアはまだ余裕の表情なのに対して、カケルの額から一滴の汗が流れ落ちる。
十、二十、三十……六十、七十。
減るどころか増えているとさえ錯覚してしまいそうだ。実際、新しいのをその場その場で用意しているのかもしれない。
改めてレイディアの、命の恩人の凄まじさを身をもって実感した。
「どれだけあるんですか!」
更に気持ちが昂るカケルとは対照的に、落ち着いた様子で対応するレイディア。
彼が覚えているカケルと言う人物はもっと穏やかな性格だったはずだ。今は感情の起伏が激しい奴に成り果ててしまっている。
確かに変わってしまったカケルを、彼は哀れむわけでもなく、慰めることもない。
ただ一言こう思う。
「阿保だな」
「そんなことはありませんよ。だって僕は現に――」
馬鹿にされたことを否定しようと言葉を紡ごうとした最中、レイディアは武器から手を離した。
戦いに慣れている者こそ、目の前にある明らかな“武器”に意識が片寄ってしまう。カケルの分析に刀だけで対応していたのも大きな理由となり得よう。
そこをレイディアはうまく突いたのだ。
案の定、カケルに決定的な隙が生じ、レイディアは遠慮なく握りしめた拳をその腹へとめり込ませる。
「いや、正真正銘の阿保だよ」
「かっはっ」
全身の空気が一気に口から出たかと思った。同時に衝撃と痛みをこれでもかと思い切り脳に伝えてきた。
もろに拳を食らったカケルの身体は紙吹雪のようにいとも簡単に吹き飛ばされた。
ゴロゴロと地面を転がり、どこまで行くのかと眺めていると、丁度良いところにあった木にぶつかったおかげで止まることができた。
「あぁ……はーぐっ、だぁ……すぅ」
呼吸することすら難しい。
目に見える全てがはっきりとしない、完全にぼやけて輪郭しかわからない。
身体に力を入れることすら叶わない。この状況を何とかしようと心では強く思うのに、頭は心のようには働いてくれなかった。
人体に不可欠な酸素が供給されていないのだから当然だろう。
――こんな簡単に、負けるはずがなかった。
万全の準備をして、非人道的なことに手を染めて、ようやく同じ舞台に立つことができたはずなんだ。
何のために強くなったのか。何のために戦うことを選んだのか。何のために、この人にもう一度会いに来たのか。
忘れない。忘れるはずがない。あの悲しみを、あの苦しみを、あの悔しさを、忘れられるわけがないんだ。
思考すらままならないはずなのに、カケルの頭の中には過去の光景が映像のように流れていた。
全てが終わり、始まった光景を。
ーーーーーーー
高校の下校途中、視界が光に包まれたと思いきや、次に目を開けた時には既に知らない景色が広がっていた。
突如として異世界に飛ばされた日比谷 翔は、言葉がわからないながらも必死に諦めずに生きようとした。
あの人に助けられた時に諦めることはもうしないと決めたから。
その甲斐あって帝国の外れの小さな村――ルシオラ村の一員として迎えられた。元から真面目な性格の彼だからこそだろう。村人たちと仲良くなるのに然程時間を要さなかった。
もとの世界に戻る方法を探しつつ、異世界だが村での平和で穏やかな日常に慣れ親しみ始めていた。
両親が仕事の都合でほとんど家にいなかった彼にとってルシオラ村こそが、本当に心が休まる場所になりつつあった。ゆっくりと自分の居場所を獲得していった。
月日は流れ、彼が村に来て二年が経ち、会話も違和感無くできるようになった頃、村のすぐ外で行き倒れていた一人の銀髪の長い髪の少女と出会う。
慌てて家へと連れ帰り、村の医者に見てもらったところ空腹による衰弱とのことで胸を撫で下ろした。
「食べれば回復するね」
村で唯一の医者のバット爺さんが苦笑しながら言った。
医者なのに何て物騒な名前なんだろう、とカケルが最初に抱いた感想だ。
人騒がせだな、と思いつつも緊張していたのだと気づいた。病気や怪我ならどうしたものかと気を張っていたのだろう。
こんな他者のことで四苦八苦する彼を、人はお人好しと言う。しかも筋金入りがおまけで付くくらいのだ。
「カケルくん、君が作ってあげたらどうかな?」
この頃には日比谷翔ではなく、カケル・アルティメットと名乗っていた。理由は男性ならば想像は容易いはずだ。
村人からは気軽に“カケル”と呼ばれていた。
そんなカケルの名をくん付けで呼ぶバット爺さんは、年に似合わない悪戯な笑みを浮かべる。イヤらしさより憎たらしさを感じるこの笑顔だ。
非常に魅力的な提案ではあるが、残念ながら彼に料理の才は無いらしい。
比較的器用なので、ある程度のことなら一度教わればできてしまう。しかし事料理に至っては話は別である。
どうしてあのような代物が作れるのか不思議だ、と教えてくれた皆が口を揃えて言った。――ありゃダメだ。
と言うことで、お隣の料理上手のメルサおばさんにご馳走を作ってもらい、美味しそうな匂いにつられて目を覚ました少女は、お腹を鳴らして広げられたそれらを見つめた。
「良いよ、君のために用意してもらったんだ。遠慮しないで食べて」
許されるや否や飛び付く勢いでご馳走の数を減らした。メルサおばさんも良い食べっぷりにご満悦のようだ。笑顔で「じゃんじゃん食べな」と次々と料理を薦めた。
こうして興が乗ったメルサおばさんは、久しぶりに宴会だと盛り上がり、結局村中でご馳走を作っては食べた。
心もお腹も満たされ、村人の皆が村の至るところで寝てしまったのをよそに、カケルは少女と星が瞬く夜空を眺めていた。
あんなに食べたはずなのに、何事もなくケロッとしているのだから彼が驚いたのは言うまでもない。
「美味しかった?」
「うん。すごく美味しかった。あんなに美味しいものを食べたのは初めてってくらい」
「それは良かった。メルサおばさんも喜んでたよ、良い食べっぷりだってね」
満足そうに笑顔を向けて答えてくれる少女に、カケルは自分がご馳走を作ったわけでもないのに何故か誇らしかった。
「そんなにガツガツ食べてないよー」
他愛もない会話で、無数の星の下で楽しく笑い合った。
一目惚れ、なのかどうか。確実で一番重要なのは、惚れてしまったと言う部分だ。
初恋だった。
風に靡く星の光を反射する幻想的な銀色の髪の少女は、どんな芸術よりも美しく見えた。
「――ニア」
「はひ!?」
いつの間にか見つめてしまっていたが故に、唐突に出された言葉に対応できずに、すっとんきょんな声を出してしまった。
くすりと小さく笑い、少女は補足説明した。
「ワタシの名前。ニアって言うの」
「ニア、か。綺麗な響きだ。僕はカケル。カケル……」
アルティメットが続くはずなのだが、急に恥ずかしくなって言い淀んでしまう。
彼がもといた世界の言葉に変換するなら――究極。
自らの名前をカケル・アルティメットにしたことを今更ながら後悔した。だから変えてしまおうと考えないのが、彼の良さなのかもしれない。
「カケル? カッコいい名前ね。どこにでも行くことができそう」
「うん。何にも負けずに、挫けずに、どこまでも翔ることができますように……って意味が込められてるんだ。この名前は、僕を何度も救ってくれた。だから、そう言ってくれると嬉しいよ、ありがとう」
「好きなのね――」
その言葉にドキッと心臓が大きく脈打ったのがわかった。
“好き”と言う、たった一言なのに、カケルにはとても大きなものに思えた。
「ワタシもあなたの名前、好きよ」
名前か……と密かに落ち込みつつ、笑顔で感謝を述べた。それから他愛のない話をして、ニアが世界を旅している旅人だと聞いた。
「何か夢でもあるの?」
「世界の素晴らしい景色を全部見るんだ。それから一番綺麗な場所で一生を過ごすの」
カケルはそれを聞いて、僕は何をしたいんだろう、とふとした疑問を抱いた。
もとの世界に戻ることを目標にしてはいたが、夢と言えるほどの大層なものではなかった。
夢を楽しく語るニアは、カケルには眩しく思えた。夢に向かって真っ直ぐに歩んでいる。
――なら、僕は?
自然とそんな疑問が浮かんでくる。夢について問いかけた時点で、こうなることは決まっていたのだろうか。
答えは意外と簡単に出た。思わず笑ってしまうような、そんな答えが。
「ねぇ、ニア。僕も……僕も一緒に世界一の景色を見つけても良い?」
突然の提案にポカンとしてしまうニア。
でも真っ直ぐ目を見て熱意を伝えたおかげか、少し考える素振りを見せた後、ゆっくりと頷いた。
「……良いよ。カケルと一緒なら楽しくなりそうだから」
「ぃよっしゃあー!」
その場で飛び上がって喜んだ。気持ちが飛び出したとでも言おうか。
とにかく凄く嬉しかったのだ。見たこともない景色を、ニアと一緒に心に刻めることが。
ニアが村に来て一週間が経過し、彼女は村の人気者になっていた。
もとからの美しい見た目に加え、人当たりの良い性格の良さも相まっての結果だ。
カケルや村人たちのおかげで、身体の調子も良くなりそろそろ村を出ようと思っていることをニアは告げた。
そして、その日はやって来た。
カケルにとって、忘れられない、人生と分岐点となる日が――。
荷物を持ち、村人たちに見送られていた時だった。
「――ありゃ何だ?」
お爺さんが手で日の光を遮りながら空を見上げて首を傾げた。
その瞬間、それは急降下しお爺さんに直撃すると急激に燃え盛る。
他の村人も咄嗟に見上げると、そこには無数の真っ赤に燃える火の球が浮かんでいた。それらは村のあちこちに無差別に降り注いだ。
何者かの襲撃だと理解した時には、村中火の海だった。
ドドドと足音を立て、火の海を掻き分けて鎧を来た騎士たちが攻め込んできた。火への対処だけで手一杯だった村人たちは、鍛えられた騎士たちに、赤子の手を捻るかの如く容易く殺されていく。
――カケルは目の前で起こる惨状を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
助けを求めて伸ばされた手に、自分の手が触れる前に地面へと落ちる。
村は鎧の騎士たちによって、一時間も経たずして蹂躙された。
「どうして、どうしてこんなことに……」
困惑する頭に過るはニアの顔。
隣にいたニアも、カケルと同じようにその場に立ち尽くしていた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪を繰り返して。
「ニア……?」
心配になり肩に手を置いた途端、バチンと叩かれた。
そのまま後ろへと数歩後退り、ニアは全てを語った。
帝国の隣に位置する小国――ラディエス共和国の騎士団が、ルシオラ村を帝国への足掛かりにすべく攻めて来たのだ。
ニアは仮にも帝国領であるルシオラ村に、帝国の騎士団員が交じっていないかを調べるために送り込まれたスパイだった。
結果、騎士は一人もいないと判断し、現在に至るわけだ。
俯き気味に語るニアに、驚愕するカケルだったがすぐに首を横に振った。
「それでも、ニアは苦しんでる。それくらい僕にだってわかるよ。今からだって遅くない、僕と一緒に行こう、世界に一つだけの景色を見に――」
偽善だって、これで死んでいった村の皆が赦すなんて思わない。だとしても、充分に理解していても、カケルは手を差し伸ばす。
あの頃、恩人がそうしてくれたように。罪を償うのは、今すぐにじゃなくても良いはずだ。
必ず償うから、今だけは。
――彼は守りたいと思ったのだ。
たとえ罪人となってしまおうと、好きになってしまったのだから。
「……」
ニアは驚きつつゆっくりと顔を上げ、カケルの微笑みをその瞳に写しながら、彼の手を掴もうと自らの手を伸ばし、二人は触れ合う――。
「お前はもう用済みなんだよ」
そんな小さな願いは、ニアの心臓を騎士の剣が貫くことで、桜のように儚く散った。
意地汚い笑い声を上げながら、騎士は剣を抜いてニアを蹴り飛ばす。カケルは力なく倒れるその身体を受け止めた。
「ギャーッハハハハ、使い捨ての駒には丁度良い死に様だなぁ」
「ニアっ、ニア!」
手を握る、僕はここにいると、ずっと一緒にいると伝えるために。
死なないでくれと強く願って。
呼び掛けると心なしか握り返されてるような感覚がした。
「死んじゃ駄目だっ、まだ何も見ていないじゃないか! 世界は僕たちの想像を遥かに越えるくらい広いんだ。そんな壮大な世界には、僕たちの想像できないくらいの素晴らしい景色があるんだって、その全てを見るんだって……言ったじゃないか。僕も一緒に、行くって、行って良いって……ニア……っ」
その瞳に涙を溜めきれず、溢れ落ちたそれはニアの頬に当たる。
想いが通じたのか、彼の腕の中でニアが弱々しく、ゆっくりと自らの手をカケルの頬に添えた。
「……ねぇ、カケル。ワタシの世界は、広くなんてなかった……でも、でもね……カケルとなら、広くできるって思えたんだ――」
添えられた手は、カケルの手をすり抜けて地面とぶつかった。
――ニアの身体から力が、すぅっ、と音もなく消えた。
「んーっ、お涙頂戴だねぇ。だ・け・ど、心配はいらないんだなー。すぐに会えるんだか、ら……な?」
突如、嘲笑う騎士の首が飛んだ。
何が原因か理解する頃には、騎士の意識は永遠に消え失せていた。
「僕のことは幾らでも笑えば良い。でも、ニアのことは笑わせない。僕が許さない、みんな、みんな死んでしまえ」
その瞳は血のように赤く灯されていた。
「お前たちのような人間が、生きていて良いはずがない。僕が綺麗にするんだ。ニアが憧れた世界を――守るんだ」
無意識に特有魔法を発現させ、使用した魔法を解析し逆流させて術者を、生き残った武器を持った騎士たちには自決するように精神を誘導した。
――報告を受けた天帝騎士団団長バルフィリア・グランデルトが、数人の団員と共に村に到着した時には、立っていたのは一人だけだった。
項垂れる少女を横抱きしている、黒い髪に赤い瞳の少年。
バルフィリアによって少年は保護された。
ちなみに彼のもとに来た報告とは、このような内容だった。
【――帝国の外れに、魔法を暴走させた謎の少年が出現。調査に赴いた総勢三十名の精鋭が全滅。天帝騎士団に対応を求む】
本来なら自らの足で現地に赴くことなど無いが、一種の好奇心でバルフィリア自身が向かった。
そして、彼が帰投した際の人数は、二人だけだった。
それからと言うもの、カケルはバルフィリアに気に入られる。
そのおかげで彼自身、または騎士王マリアンから直々に稽古を受けた。
二人から世界の様々な事情を聞き、争いを無くして世界を変えること。それこそがカケルの夢となった。
否。この夢には続きがある。
世界を変え、綺麗にした後には――世界一の景色を見つける。
ーーーーーーー
挫けそうになった時、ニアの最期の表情が思い浮かんだ。
そうだ。諦めるわけにはいかないんだ。絶望的状況だろうと、立ち上がるんだ。
僕の恩人の人たちは、そう教えてくれたのだから、応えなくては申し訳が立たない。
何よりここで僕が挫けたら、誰が……誰が世界を変えてくれるのか。
こんな理不尽なことばかりの世界なんて認めない。
無理やり呼吸をして身体を動かして立ち上がる。
まだ終わりじゃない。まだ負けてない。まだ生きているから。
何度だって立ち上がってやる。声に出せない変わりに心の中で全力で叫ぶ。
「はー、っはー、ふー。すぅ……あああああぁぁぁぁあああああああ!!!」
レイディアはその辺りに響く咆哮をしっかりと聞き取り、人知れず口角を上げた。
「立ち上がるか。そのまま倒れていれば良いものを」
レイディアは呆れながら左手を前に突き出す。すると光の粒子が左腕から発せられ、それは次第に形を成す。銃の形をだ。
彼は実体化したそれの感触を確かめ、引き金に指を当てる。
次の瞬間、銃声と共に放たれた弾丸は、時間をかけて立ち上がったカケルに衝突した。その影響で彼は倒れるが、すぐさま違和感に気づいた。
全身の痛みが引いていき、更には右目が妙な感覚に襲われた。まさかと思いつつも眼帯を引き剥がすと、白い眩さの後に世界の景色をその目に見せた。
「情け……いや、あなたはそんな人じゃありませんね」
痛みと傷が無くなっていく身体を起こして、今度はすっと一呼吸の内に立ち上がる。
「わかりました。僕の全力をもって――あなたを倒します」
そこには迷いを宿す少年はもういない。
覚悟を決め、夢を叶えるために壁を壊すことに全力を注ぐ者が、自らの足で立っていた。